あのキスで、少しだけ大人になった【もしもの始まりを、忘れないうちに】
付き合ったのは、寒さの残る1月だった。
だけど、初めてキスをしたのは、少しだけ春の匂いが混じり始めた3月。
恋愛に不慣れだった私は、きっと不器用に笑ってばかりで。
そんな私を、彼もどこかソワソワしたまま見つめてた。
あの日は、昼間からいろんな場所を巡った。
彼の「ここ、気に入ると思うよ」って言葉に、私は毎回素直に頷いた。
今日の夕食は、彼が勧めてくれたラーメン屋。
湯気に包まれたカウンターで、黙々と食べながらも、ふたりでいる空気が心地よかった。
もう帰るんだろうなと思っていたら、彼が言ったんだ。
「ちょっと、食後に歩こうか」
案内されたのは、オフィスと商業ビル、住宅の灯りが静かに滲む小道。
高くそびえる塔のようなシルエットが、夜の空にぼんやりと浮かんでいた。
都会の喧騒が少し遠く感じるような、不思議な場所だった。
その景色に見入っていた私の背後から、彼がそっと抱きしめてきた。
「今日も楽しかったね」
小さくそう言って、私が振り返ると、唇が触れた。
最初は触れるだけのキスで、次は少し長くて、優しくて。
言葉がなくても、大切に想ってくれてるって、伝わった。
そして最後に、小さな紙袋を手渡された。
中には、ホワイトデーのお返し。私の好きなチョコが入ってた。
……あの夜が、もっと長く続いていたら。
街の灯りは、今も変わらず瞬いている。
けれど、そこに私たちが並んでいた証は、風の中に淡くほどけてしまった。
でも、思い出すたびに胸があたたかくなるのは、あの日、確かに彼がいたから。
そして、あのキスが、私たちの時間の中にちゃんと存在していたから。
