【掌編小説】賞味期限切れの口づけ | 毎週ショートショートnote
飲料メーカーの開発担当・五十嵐は仕事を終え、自宅で妻、娘の三人で夕食をとっていた。
テレビのワイドショーは「キスこそ究極のアンチエイジング」という新説をぶち上げていた。
その夜。娘を寝かしつけた後、ベッドで妻に「久しぶりにキスしてみるか?」と冗談めかして言うと、妻は可笑しそうに笑って背を向けた。
やがて世間はキス狂騒に染まっていった。
五十嵐はこの波に乗るべく新規商品の開発に着手した。
開発は難航したが、役員らの罵声を押し切り、サプリメント部門と手を組んで、飲み口がリアルな「唇の形」をしたサプリ飲料の商品化に漕ぎ着けた。
しかし、やっと店頭に並んだ頃には、「キス効果はデマ」とマスコミが手のひらを返していた。
深夜、五十嵐は自宅近くのコンビニの投げ売りワゴンから自社製品を一本拾い上げ、店先でそのピンク色の突起に己の唇を重ねた。
ぐにゃりとした人工的な弾力。数年来、妻とキスしていない乾いた唇は、もう本物の感触を思い出せなかった。
(410字)
あとがき
最後までお読みいただきまして、ありがとうございます。
本作は、田原にか様の企画に参加させていただいております。
いつも素敵なお題をありがとうございます。
この場をお借りして深くお礼申し上げます。
#毎週ショートショートnote
#キスサプリメント
今回のお題は『キスサプリメント』でした。
このお題を見たとき、十五年くらい前のことを思い出しました。
当時、ZIMAというアルコール飲料で、Kiss A-ZIMAというプロモーションキャンペーンが行われていました。
タレントの「本人実物大シリコン唇」をボトルの飲み口に取り付けることで、擬似的にキス体験ができるというユニークなノベルティグッズです。
その唇を飲み口に取り付けるとあら不思議。タレントから口移しでZIMAが飲めちゃう気分になれるんです。
令和な今の時代なら、コンプライアンスに抵触しそうです。

当時の僕は、見ず知らずのタレントから口移しでお酒を飲みたいと思わず、しかしZIMAが好きで、ただただ話のネタとしてこのオマケを使うことなく集めてしまっていました。
そんなことを思いながらつらつら書いていたら、2500字オーバーくらいの文量になりました。それを泣く泣く410字まで削りました。
あまりにも忍びないので、今回も以下に圧縮前の原稿を供養しておきます。
中堅飲料メーカーで新規商品開発部を率いる五十嵐貴博は仕事を終えて、自宅マンションのドアを開けた。
すると、愛猫のチャチャが玄関でお座りをして出迎えてくれていた。
「ただいま」
独り言のような小さな声でチャチャに言うと、リビングのドアが開いて愛娘の玲央が駆け足で近寄ってきた。
「おかえりー!」
貴博は玲央を抱き上げ、その愛らしい頬にキスをした。
ネクタイを緩めてスーツから部屋着に着替え、妻の鈴子がすでに用意している夕食のテーブルについた。
「いただきます」
貴博が何気なくリモコンでテレビを付けると、画面には大々的なテロップが躍っていた。
『愛情表現こそが究極のアンチエイジングである』
平日の夕食時にはいささか不釣り合いな、民放のワイドショーがぶち上げた新説だった。
画面の中では、熱烈なハグを交わす老夫婦が瑞々しい肌を誇る一方、愛情表現の乏しい高齢者のシワや物忘れをあからさまに比較してみせた。大げさな音楽が余計にその効果を派手に演出していた。
スタジオの芸人や俳優、司会の番組アナウンサー、しまいには政治問題のために呼ばれた国際弁護士と名乗る者まで口を揃えて熱弁を振るう。
「やっぱり愛ですよ! 愛情表現がない人は老化が早い!」
なかでも番組が強調したのが、唇を重ね合わせる行為――すなわち「キス」の効能だった。
ディープかフレンチかなどという野暮な検証はない。
とにかく「唇を重ねることこそが健康の特効薬」という力技の結論だった。
食事が終わり、貴博は玲央と一緒に風呂に入った。
玲央を寝かしつけた後、寝室のベッドに横たわった貴博は、隣でスマートフォンを眺めている鈴子に、冗談めかして言ってみた。
「なあ。俺たちもたまには、キスでもしてみようか?」
「うふふ、何言ってるのよ」
鈴子は可笑しそうに笑うと、そのまま貴博に背を向け、やがて静かな寝息を立て始めた。
数日後、世間の空気が変容しているのは誰の目にも明らかだった。
例の「キス・アンチエイジング論」が、爆発的な大ヒットを記録していた。
他局の追随、週刊誌や雑誌の特集、SNSではインフルエンサーのライフハック動画……。
賛否両論が飛び交ったが、社会の空気はおおむね「キスこそ健康の絶対条件」という空気に支配された。
この社会情勢に乗らない手はない。貴博は、部下たちを集めて発破をかけた。
「我が社のドリンクを、口づけで飲んでもらえるような画期的アイデアはないか!」
会議室では突拍子もない案が飛び交った。
「渋谷の映えスポットで、カップルが口移しでドリンクを飲んだら無料、っていうキャンペーンを開きましょう!」
「全国のドラッグストアで、幼児用飲料のパッケージに『口移しで与えてください』って記載するとか」
「バカ言え、衛生面やコンプライアンスで即炎上だ!」
貴博が遮るが、部下たちの暴走は止まらない。
「カップル限定販売のペットボトルにキスマークを集めるのはどうですか?」
「駅の自動改札機とコラボして、カップルがキスを交わしている間だけゲートが開いて初乗り運賃が無料になるのは?」
「社長の顔写真パネルの唇部分にキスをしたら『アンチエイジング手当支給』とか?」
「缶のプルタブをめちゃくちゃ固くして、唇で挟んで引きちぎらないと開かない構造にするのはどうでしょう。嫌でも唇が鍛えられます!」
「ストローを二本並べるんじゃなくて、一本のストローの両端から同時に吸うと、真ん中で必ず唇が衝突する『強制接吻ストロー』を付属させましょう!」
「マイレージならぬ『キスマイレージ』アプリを開発します。スマホの画面にキスした回数と熱量に応じてポイントが貯まり、我が社のドリンクと交換できるシステムです!」
「カメラを搭載した自動販売機を作って、そのカメラに向かって『最高のおねだりの唇』を作らないと冷たいドリンクが出てこない仕様にするのはどうですか?」
倫理も正気もゲシュタルト崩壊を起こした無責任なアイディアの濁流に、貴博が完全に頭を抱えた。
そんなとき、一人の若手社員が静かに手を挙げた。
「……ボトルそのものの飲み口を、リアルな『唇の形』にするのはどうでしょうか」
「唇の形?」
「はい……。これなら、飲むたびにキスになると思うんです」
これだ、と貴博は膝を打った。
そこからの道程は、まさに泥沼の社内政治だった。役員会でのプレゼンを怒号で押し切り、製造部門との激しい衝突を強引に押さえた。
「破廉恥だ」「衛生的にどうなんだ」という罵声を浴びながらも、貴博は粘り強く説得を続けた。
結局、社内で唯一この無謀な賭けに乗ってくれたのは、あまり業績の振るわないサプリメント部門だけだった。
人間の唇の弾力を再現するための特殊シリコンの開発。
アンチエイジング効果を高めるための、成分配合比率の緻密な調整。
「キスしながら飲むサプリ飲料」という大胆なキャッチコピー。
コンビニやスーパーの棚を確保するための必死の営業。
マスコミへの執拗なプレスリリース——。
貴博たちは寝食を忘れて駆けずり回った。
――そして数ヶ月後。
多大なコストと血の滲むような努力の末、リアルなピンク色の唇が突起した前代未聞の唇型飲み口サプリメントドリンク『キス・イン・ザ・ボトル』が、ついに全国の店頭にズラリと並んだ。
しかし、完璧なタイミングで放たれたはずの矢は、虚空を切った。
すでに世間のキスブームは跡形もなく消え去っていたのだ。
『キスのアンチエイジング効果は古い! 今は目尻を下げて若返ろう!』
『キスの若返りには科学的根拠なし。悪質なデマに注意』
『怪しげな健康食品業者が仕掛けたガセネタだった』
マスコミもインフルエンサーも、かつて自分たちが煽り立てたことなど忘れた顔で、一斉に手のひらを返していた。
貴博は仕事帰り、自宅近くのコンビニに寄った。
静まり返った深夜の店内。
華々しく迎えられるはずだった新商品は、発売後わずか数日で通路の「投げ売りワゴン」へと叩き落とされ、大量に投げ込まれていた。
貴博はワゴンからそのボトルを一本、力なく拾い上げ、レジに向かった。
コンビニの店先で、買ったばかりのボトルを見つめる。
誰にも買われず、誰にも口づけされることのなかったシリコンの唇が、街灯の下で虚しく艶やかに光っている。
貴博は意を決して、そのピンク色の突起に、己の唇を重ねた。
ぐにゃりと、人工的な弾力が跳ね返ってくる。
誰にも口づけされなかったシリコン製の唇を潤した相手は、しばらく妻とキスを交わしていない乾いた唇だった。
貴博は、妻との唇の感触を思い出すことができなかった。
