「常識がないね」は褒め言葉だった!AI時代を生き抜く『非常識力』の正体

はじめに
ある製造業の人事部長(50代・眉間にしわ)が、入社式にジャケットなしのカジュアルな服装で現れた新入社員を見て、こう叫んだそうです。
「普通はフォーマルなスーツだろう! 社会人としての常識がないのか!」
うわぁ、出ました。「常識がない」案件。東洋経済オンラインの記事で紹介されていたこのエピソード、読んだ瞬間、思わず手が止まりました。
「最近の若者は常識がない」。この言葉、昔からずーっと繰り返されてきましたよね。でも、AI時代に突入した今、実はこのセリフ、めちゃくちゃ危険な意味を持ち始めてるんです。企業が 「常識がある人」 を求めすぎると、変化についていけなくなる可能性があるからです。
「常識」って言葉、実は二つの顔を持ってる
そもそも私たち、性質がまったく違う二つのものを、同じ 「常識」 という一言でひとまとめにしちゃってるんです。
一つは、社会や組織の慣習としての常識。もう一つは、他人に迷惑や苦痛を与えないための、共同生活の基本ルールとしての常識。
「入社式はスーツで行くべき」は前者です。長年の企業文化が生んだ慣習であって、絶対の正解じゃありません。実際、労働基準法にも会社法にも、入社式の服装なんて一文字も書かれていないんです。IT企業ではオフィスカジュアルなんて、もはや珍しくもなんともありません。
一方、「相手を不快にさせない」「約束を守る」「他人を尊重する」は、単なる慣習とはワケが違います。これは人間が共同体を維持するための、もっと根っこの部分にある条件なんです。
ただし、この二つ、きれいさっぱり切り分けられるわけじゃありません。スーツって、単なる形式に見えて、実は場や相手への敬意を表すこともある。境界線は、思っているよりずっとあいまいなんです。だからこそ「これは古い慣習だから捨てていい」「これは倫理だから守るべき」と機械的に仕分けるんじゃなく、その常識が何のためにあるのかを、そのつど考える姿勢が必要になってくるわけです。
前提を疑う力が、なぜか急に評価される時代がキター
この区別を意識せずに「常識がある人材」ばかり求めていると、組織は変化にめっぽう弱くなります。なぜなら、変化を起こす人って、たいてい既存の前提を疑う人だから。
「なぜ紙にハンコが必要なの?」「なぜ毎日出社しなきゃいけないの?」「なぜ会議は一時間なの?」
こういう問い、以前なら「常識がない」の一言で片づけられてました。でもAI時代の今、その問いを立てられること自体が、価値になり始めてるんです。
実際、AI時代の採用トレンドを見ても、企業が重視しているのは「未知のツールや技術にどう適応し、活用できるか」という適応力や、情報を鵜呑みにせず検証する批判的思考力なんだとか。既存のやり方をどれだけ正確に守れるかより、前提そのものを問い直せるかどうかが評価される時代に、じわじわシフトしてきているわけです。
とはいえ、AIを「既存パターンを処理するだけの存在」と決めつけるのは早計です。今のAIは、既存の情報から新しい組み合わせを提案することだってできます。それでも、人間にしかできない役割は消えません。何を変えて、何を残すべきかを判断し、その結果に責任を持つ。それは、依然として人間の仕事なんです。
「疑うだけ」で満足してたら、それただの文句です
ここで一つ、誤解しないでほしいことがあります。「常識を疑う人が価値を生む」というこの言い方、実はちょっと危険なんです。
「なぜ会議は必要なの?」と問うこと自体が、いい結果に直結するとは限りません。有益な改善案に育つこともあれば、単にルールを無視するための言い訳になることだってあるんです。
大事なのは、疑う力そのものじゃなくて、疑った先に何をするか。検証し、代替案を考え、周囲と調整しながら形にする力が伴って、初めてその問いは意味を持ちます。疑って終わる人は、変化を起こす人じゃありません。ただ不満を漏らしてるだけの人です。
「常識がない」という批判、実は的外れでもない
「最近の若者は常識がない」というこの言葉、実はすべてが的外れというわけでもありません。
世代によって経験してきた社会環境は違います。ある世代には当たり前だった振る舞いが、別の世代にはさっぱり理解できない。これ、実際によくあることなんです。そこには本当の価値観の違いもあれば、新しい環境への適応不足もあり、単なる教育や経験不足が混じっていることもあります。もちろん、上の世代による過剰な懐古が混ざっているケースも、あるにはあります。
だからこの言葉が出てきたとき、若者の側だけを一方的に擁護するのも、上の世代の言い分をそのまま受け入れるのも、どっちも早計。問うべきはたった一つ、「その常識、今も機能してる? それとも、ただの形骸化した儀式になってない?」ということなんです。
壊していいものと、壊しちゃダメなもの
「常識がないのがよい」というのは、「好き勝手に振る舞え」って意味じゃありません。むしろ真逆です。
古い慣習には縛られなくていい。でも、他者への配慮は絶対に失わない。この両立こそが重要なんです。
服装は自由でいいでしょう。ただし、相手を不快にさせない清潔感は必須です。働き方も自由でいいでしょう。ただし、周囲との信頼関係を壊してはいけません。
つまり、壊していいのは形式としての常識であって、人間関係を支える倫理じゃないんです。この線引きは絶対的なものじゃなく、常に見直しが必要なもの。でも、見直すこと自体を放棄しちゃいけない、という点は変わりません。
結局、求められるのは「他者と共に生きられる人」
AI時代は、空気を読む人より、本質を考える人が強くなる時代だと、よく言われます。私はそこに、もう一つ条件を加えたいと思います。
それは、 「他者と共に生きられる人」 であること。
どれだけ発想が自由でも、どれだけ革新的でも、周囲に苦痛ばかり与える人は、結局、組織を壊してしまいます。逆に、慣習に忠実なだけで前提を問い直す力を持たない人も、変化の速い時代には組織の重荷になりかねません。
だから、未来の社会で必要なのは「常識がある人」でも「常識がない人」でもないんです。
古い常識を疑いながら、他者への想像力を失わない人。どの常識を手放し、どの常識を残すべきかを、そのつど考えられる人。そんな人こそが、これからの時代に求められているんだと思います。
さて、あなたは今日、どの「常識」を疑いますか?

