短編小説 「記憶と忘却」
灰色の霧が立ち込める荒野で、二人の男が対峙していた。
一人はキオク。継ぎ接ぎだらけの重厚な甲冑を纏い、背には無数の鍵がぶら下がっている。その目は、過去のあらゆる瞬間を映し出し、常に濡れていた。足元の地面は、その重みに耐えかねて深く沈み込んでいる。
もう一人はボウキャク。純白の鴉の羽で編まれた外套を羽織り、顔は陽炎のように揺らぐ。その手には、触れるものすべてを砂に変える漆黒の杖が握られていた。
「また来たか、ボウキャク」
キオクが、錆びついた声で言った。
ボウキャクは、声もなく笑った。枯れ葉が擦れるような音だった。
「無駄な抵抗だ、キオク」
戦いは、静かに始まった。
キオクが背中の鍵を一本抜き、空に掲げる。霧の中に、鮮やかな光景が広がる。
幼い頃の、母の背中の温もり。
あの泣きじゃくった日の、父の不器用な抱擁。
光景は熱を帯び、ボウキャクの外套を焼こうとする。
ボウキャクは、静かに杖を振るった。
光は崩れ、砂となる。
母の背中は色褪せ、父の抱擁は霧の彼方へ消えた。
「貴様……!」
キオクは次々と鍵を抜き、過去を解き放つ。
初恋の痛み。
泥だらけのグラウンド。
初めて稼いだ金の重み。
光の帯が、ボウキャクを包み込もうとする。
しかし、外套に触れた瞬間、光は力を失い、霧に溶けていく。
杖が突き出される。
砂の嵐が甲冑を打ち付ける。
継ぎ目がきしみ、鍵がいくつか、絶望的な音を立てて落ちる。
「……それでも、これだけは」
キオクは、泥にまみれた鍵の中から黄金の鍵を掴み取った。
「彼が人生で最も愛した人との、最期の約束だ」
黄金の光が嵐を切り裂き、ボウキャクの顔を照らす。
揺らぎが一瞬だけ収まり、初めて、表情が浮かぶ。
ボウキャクは、足を止めた。
「……美しい」
その声は、わずかに掠れていた。
だが、外套はなお揺れる。
ボウキャクは、杖を両手で握り、光の中へ踏み込む。
羽が焼け、砂に変わる。
キオクの目の前に立ち、漆黒の杖を黄金の鍵にそっと触れさせた。
「……あ」
キオクの手から、力が抜ける。
黄金の鍵は、砂にはならない。
だが、その輝きは静かに失われ、ただの古びた鉄の鍵へと変わる。
最期の約束の記憶は、色褪せた。
けれど、消えたのではない。
熱が引き、温度だけが残る。
「……なぜだ」
キオクは座り込む。
ボウキャクは答えない。
焼けただれた外套を纏い直し、霧へ戻る。
荒野には、キオクと、色褪せた鉄の鍵だけが残る。
キオクは、その鍵を静かに背に戻した。
甲冑が、わずかに軽く鳴る。
風が、通る。
霧が、揺れた。
