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3-3 山の民・川の民(前編)——木地師・サンカ、山を渡る人々


前節では、鍛冶という技術者集団と神社のネットワーク、そしてそれらが、不可分に結びつくことで生じた、地域的な広がりを追った。製鉄の知識を持った人々は移動し、行く先々の拠点に神を祀った。
 しかし山を移動していたのは鍛冶師だけではない。椀を挽く者、炭を焼く者、木を伐る者、薬草を採る者——山の中には、定住しない多様な職能の人々が重層的に存在していた。彼らはそれぞれ独立した集団でありながら、山中の移動ルートを共有し、互いの技術に依存しながら暮らしていた。
 この節では、そのなかでも木地師とサンカを軸にして、「山を渡る人々」の世界を描く。

木地師——免状を持つ移動の民

木地師(きじし)とは、山中で良材を見つけ、轆轤(ろくろ)で椀や盆などの木製器物を挽く職人集団だ。「椀屋」とも呼ばれた。最大の特徴は定住しないことにある。良材を使い尽くせば次の山へ移る。一カ所にいられるのは三年から五年が限度だったという。
 本拠は近江国蒲生郡の小椋(おぐら)村と蛭谷(ひるたに)にあった。ここを中心に全国的な組織が形成されていた。小椋からの最初の分派は近江高島郡の朽木谷とされ、伊勢国の亀山から近江南部にかけて木地師の集落が分布していたとされる。小椋・大倉といった苗字を持つ者が多く、山中を巡回しながら各地でろくろの仕事をした。
 木地師が携えていたのは「木地師免状」——小野宮惟喬親王(おののみやこれたかしんのう、844-897)を祖神と仰ぎ、その子孫であることを示す古文書の写しだ。この免状があれば、諸国の山への立ち入りと木材の切り出しが許された。彼らは山の七合目以上の木は自由に切ってよいという権利を持っていたと言われる。
 宮本常一の『山に生きる人びと』には、明治の初め、盗伐に悩む官吏と杣人の集団をいかに里に帰属させるかというエピソードが出てくるが、ここにまさに木地師たちの生活の様が描かれている。文中の江崎氏というのが宮本がヒアリングした本人である。

さて、この人びとに会うてみると里人のいうようなおそろしい者でもなければ無知蒙昧な者でもない。むしろ小野宮惟喬親王の家来太政大臣小椋実秀の子孫と称して誇りさえ持っており、古文書のうつしを大事に保存している。そして山七合目から上の木は自由に伐ってよいことになっているという。彼らは古くからのそうした伝統にしたがって生きてきているのであって、野の方の世界が大きくかわっていることなどいっこう気づいてはいない。いや幕府が倒れて明治政府ができ、大名のいなくなっていることくらいは知っているが、昔から近江の木地屋の役所からの命令さえ守っておれば世の中がどんなにかわろうと、彼らの生活に何一つさしさわりのあることはなかった。その近江の役所は昔のままなのである。だから安心してどこの山の木でも伐って木地ものを挽いていたのである。江崎さんはそうした木地師たちの話を聞いてまことにもっともだと思ったが、だからといって木地屋の言い分にしたがうわけにいかぬ、世の中はすっかりかわっている、それを納得させねばならぬ。 ただ納得させるだけではいけない、一つ所に定住させ、そこで木地挽きのできるように木地の材料を与えなければならない。そこでまず定住をすすめ、木地挽きに必要な素材を提供する約束もした。こうして木地屋の定住をすすめてきた。すると盗伐がほとんどなくなってきた。

宮本常一『山に生きる人びと』

 重要なのは、この仕組みが特定の領主や荘園の許可に依存していないことにある。皇族の権威を根拠に掲げながらも、実態としては木地師たちが自分たちの移動と生業を自律的に保障するためのシステムだった。権力の中心から遠い山の奥で、独自の正統性を持って自由に動く。小椋谷の筒井神社と大皇器地祖神社には「氏子狩帳」が残されており、江戸時代に至っても全国の木地師が自らの系譜を登録しに訪れていたことが確認できる。中世に成立した組織が近世を通じて機能しつづけ、明治の戸籍制度によって定住を強制されるまで、この移動の仕組みは生きていた。
 木地師が持っていたのは“ろくろ”などの技術だけではなかった。山の地形、水源の位置、集落の様子、他の職能集団の動向——そうした情報が彼らの足に乗って山から山へと伝わった。定住者が知りえない山の全体図を、移動者だけが持っていたのだ。

サンカ——記録に残らない者たちの痕跡

木地師が免状という証文を持ち、組織的に動いた集団であるのに対して、そうした制度的な裏づけを持たなかった人々がいる。サンカだ。
 サンカとは、竹細工、籠作り、箕(み)づくり、川漁などを生業とし、川沿いや山中に一時的な拠点を構えて移動しつづけた漂泊の民だ。定住を拒み、土地に縛られることを拒んだ。戸籍に入らず、課税されず、既存の秩序の外側にいた。
 「サンカ」という名で文献に明確に現れるのは近世以降のことだ。三角寛の著作(1930年代〜)で広く知られるようになったが、三角の記述には創作や誇張が多く含まれることが後の研究で明らかになっている。しかし、サンカ的な生活——竹細工や箕づくり、川魚を獲り、一定箇所に定住せず移動する——を送っていた人々が中世以前にも存在したことは、多くの文献からも知られている。
 中世の文書に散見される「散所(さんじょ)」「散所者」と呼ばれた人々がいる。「散所・産所・算所」などという多くの言葉で書き残されてきた表記の揺れ自体が、この集団の輪郭が公的な記録のなかで定まらなかったことを物語っている。サンカの「サン」と散所の「サン」の語源的なつながりを指摘する研究者もいる。連続性を断定はできないが、少なくとも「土地に帰属しない移動する民」が中世から近世にかけて途切れることなく存在していたことは確かだろう。
 サンカと呼ばれた人々は文字を持たなかったとも言われる。文字を持たず、戸籍に入らず、課税されない者は、公的な記録のどこにも痕跡を残さなかった。記録に残らないことそのものが、サンカの最も本質的な特徴だ。
 山を日常の生活圏としていたのはサンカのような非定住者だけではない。定住する農耕民にとっても、山に入ることは飢饉の際の最後の手段だった。餓死を免れるために山に入り、疫病の際にも山に入って伝染を防いだ。日本の国土の六割は森林であり、山林には木の実や魚がある。大名や藩が管轄した「お救い山」などと呼ばれた山は、ふだんは入山禁止だが飢饉のときだけ開放された。定住者にとって山は非常時の命綱であった。サンカらの非定住者にとっても、山はそれだけ豊かであったということだ。
 千葉県松戸市の本土寺に残る中世の過去帳——十三世紀後半から十八世紀前半にわたる4360名の死者の名と死因を記録したもの——にも、春になると餓死者が集中して現れる。高知県の寺川という地方にこんな話が伝わっている。「春は食物が乏しくなるので、葛、蕨、ほどところ、こびほかなどの根をほってたべ、また、草木の葉をこいて命をつなぐ。だから春をきらい、秋を喜ぶ」。春は飢えの季節だった。山に入ることは、死と隣り合わせの季節を生き延びるための、最も切実な技術だった。

山の職能はつながっている

木地師は木を挽き、サンカは竹を編み川で漁をした。しかし山の中にはさらに多くの職能が存在した。炭焼き、杣人(そまびと・木を伐る者)、修験者、薬草採り、鉱山師。これらは別々の集団であるが、孤立してはいなかった。
 たたら製鉄を例にとる。砂鉄を銑鉄にするには大量の木炭が要る。炭を焼く者がいなければたたらは動かない。たたらに使う大炭を焼く者、できた鉄を運ぶ駄賃稼ぎ——製鉄は鍛冶師だけの仕事ではなく、複数の職能が連鎖して初めて成り立つ産業だった。砂鉄の精錬には広大な山林が必要で、記録によれば鉄山主は広大な山林の所有者であった。島根県の田部家は最盛期に二万四千町歩、桜井家は三千四百町歩の山林を所有した(森俊勇「たたら製鉄と鉄穴流しによる山地の荒廃と土砂災害」砂防フロンティア整備推進機構、2018年)。鍛冶屋が設けられるのは木のよく茂ったところであり、鉄穴やたたらから遠くはなれていない場所だった。木と鉄と炭は、山のなかで互いに依存しあっていた。
 水脈や鉱脈を読む技術は、修験者や聖(ひじり)たちが持っていた。鉱物がどこにあるかを知り、人を集め、精錬の方法を伝えたのは山中を行場とする宗教者たちだ。宗教的実践と物質的技術は未分化だった。
 宮本常一によると、山の道も重層的であった。塩の道——海から山の奥へ塩を運ぶルート。マタギの道——狩猟者が獲物を追って山を越える道。「カッタイ道」と呼ばれる道——癩者・ハンセン病患者が通った道。これらの道は同じ山中にあり、平地の住人からは見えない無数の道が走っていたとされる。(※補注)
 また時宗や高野聖などの念仏聖の杖の頭には、二股に分かれた鹿の角がついていたという。マタギの語源は「又木(またぎ)」——立木が交差しているところに足場を設けることに由来し、二股に分かれた木は狩猟の象徴だった。念仏聖と狩猟者が同じ「二股」の象徴を共有している。彼らは宗教者であっても「餌取坊主」と呼ばれ、狩猟を行った。山の中では、宗教も狩猟も互いが浸透しあっていた。
 こうした重層的な山の世界のなかに、後に「一向宗」と呼ばれる浄土真宗系の門徒たちの原型が潜んでいる。井上鋭夫は「古真宗は山の民・川の民という漂泊の民の居住場所に多い」と示唆した。この一文が示すのは、浄土真宗が農村から広がったのではなく、山を渡り川を下る人々のネットワークの上に最初に根を張ったということだ。
 戦国末期に一向一揆という形で時代の表舞台に表出した民のエネルギーは、こうした何にも属さない人々の重層的なネットワークによって構成されていた——そのことを述べたくて、私はこの一連の論考を書いている。その文脈からも、なぜ移動する人々が革命的勢力になり得たのか構造的な条件は見える。土地に帰属しない者は、土地を基盤とした共同体から排除されやすい。荘園にも村落にも属さない者が帰属先を求めたとき、身分も出自も問わない、時宗や浄土真宗のような「念仏」を基盤とした共同体は、最もハードルの低い受け皿だった。専修念仏——「南無阿弥陀仏」という念仏を唱えれば、極楽浄土への生まれ変わりが必定——という思想体系は、武士や狩猟民などの“殺生”を生業とするものたちの心を捉えた。そして、彼らは、他の仏教勢力が見捨てた癩者・ハンセン病患者をはじめ、ありとあらゆる「聖」と「穢れ」を包摂していった。
 山の職能集団たちはすでに互いにつながっていた。鍛冶師は炭焼きと結びつき、木地師は杣人と道を共有し、修験者は鉱山師と知識を交換した。しかしこのネットワークだけだと、まだ山の中に閉じているとも言える。山を下り、里に出て、諸国を行脚しながら物と金と情報を動かした者たち——つまり山のネットワークと平地の世界を接続した人々——がいなければ、彼らのネットワークが山を越えて広がることはなかっただろう。次の後編では、その接続者としての民間の陰陽師や高野聖たちの話をする。


引用文献

書籍

  • 井上鋭夫『山の民・川の民——日本中世の生活と信仰』(平凡社〈平凡社選書〉、1981年)

  • 宮本常一『山に生きる人びと』(未來社、1964年/河出書房新社〈河出文庫〉、2011年)

  • 沖浦和光『幻の漂泊民・サンカ』(文藝春秋〈文春文庫〉、2001年)

  • 沖浦和光『陰陽師の原像——民衆文化の辺界を歩く』(岩波書店、2004年)

  • 谷川健一『鍛冶屋の母』(河出書房新社〈河出文庫〉、2014年)

  • 筒井功『サンカの真実——三角寛の虚構』(文春新書、2006年)

 (※補注)
「カッタイ」の語源について
この「カッタイ」という言葉、直感的に日本語でない気がして調べてみた。すると、案の定、川守田英博士のヘブライ語辞典に「カツタイ」の文字が見つかり、意味は「罪」と出てきた。日本ではハンセン病は長年「業病」と言われ続けてきた。前世の罪が業となって今世に生じたという意味だ。まさしく符号する。ただ、ネットで調べると、ヘブライ語で「罪」は、hattat'(ハッタート)で、動詞形がkhata(ハーター)になるそうだ。「khata」が「カッタイ」の語源とも取れそうだが、それ以上の裏付けは取れなかった。
川守田英二の『ヘブライ語対照辞典』


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小林範之 最後まで読んでいただいて、どうもありがとうございました。