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3-15 山科本願寺焼失と法華一揆——信仰と武装する町衆(後編)


前編では、山科本願寺という宗教都市の成立と、それを焼き払った法華一揆の成り立ちを見た。後編では、焼き討ち後の法華一揆がたどった道と、本願寺の大坂移転後の経済基盤、そして二つの一揆の相克が何を生んだかを追う。

法華一揆の4年間と天文法難

山科本願寺を焼き払った後の法華一揆は、京都の町をほぼ掌握した。天文元年から天文5年(1532–1536年)までの約4年間、法華一揆は洛中において事実上の自治を実現した。
 今谷明はこれを「前近代のアジアに例を見ない市民運動」と位置づけている。法華一揆は地子銭の免除や半済を獲得し、さらに洛中洛外の地下請(じげうけ)——徴税請負——を領主に要請するようになった。検断権を手中にし、町々に警固の者を配置した。公家の山科言継は『言継卿記』において、法華一揆が天文2年(1533年)12月に洛西の村を一向一揆の巣窟とにらんで焼き打ちした事件を「言語道断の事なり」と非難している(『言継卿記』天文2年12月25日条)。
 ここで注意すべきは、法華一揆と町の自治組織の関係である。京都の「町組(ちょうぐみ)」——生活共同体である「町」がさらに集まって組織される自治組織——がいつ成立したのかは、先行研究でも結論が出ていない。今谷は町組の成立を天文初年まで引き上げられるのではないかと推測し、法華一揆の存在が町組の成立を促したと論じた。一方、西尾和美は当時の洛中法華寺院がすべて町組の地域的広がりとはずれた位置にあることを実証し、法華一揆が町組を末端組織として戦われたとする理解には直ちにつながらないと反論した。河内将芳はさらに踏み込んで、法華一揆と町とを異質な存在として捉えている。法華一揆がおもに信仰や宗教の結びつきによって成り立っていたのに対し、町はおもに地縁によって成り立っていたからである。
 つまり、法華一揆の4年間において、宗教的共同体と地縁的共同体は完全に重なっていたわけではなく、異なる原理によって結びついた集団が人々の中に併存していた。これは前節の加賀一向一揆においても見られた構造である。加賀では門徒の信仰共同体と国人の地縁的・軍事的共同体が三者構造をなしていた。京都では法華宗の信仰共同体と町の地縁的共同体が重なりつつもずれていた。宗教的紐帯と地縁的紐帯は常に一致するわけではない。
 しかし、法華一揆の自治が約4年間にわたって機能したことは事実である。町衆たちが自発的に武器を取り、自らの町を防衛し、年貢の免除を獲得し、刑事警察権まで掌握した。今谷はこれを「わが国史上に未曾有の市民による自発的武装化という注目すべき運動」と評価したうえで、こう続けている——「天文二年六月の大坂との講和以降、法華一揆が地子不払運動と洛中洛外の地下請を要求、展開したとき、この運動は権力の走狗たることをやめ、革命運動に転化したという見方もできる」(今谷『天文法華の乱』洋泉社MC新書版)。
 だが、町衆の自治は公家や荘園領主にとっては脅威であった。もともと「町」という同じ地域に生活する者として協力的であった公家たちも、町の防衛という本来の目的を超えた力を持ち、従来の社会の仕組みを変えて公家勢力の収入構造にも干渉するようになった法華一揆に対し、不満と恐怖を抱くようになった。比叡山延暦寺にとっては、京都における日蓮教団の発展は宗教的対立という観点からも深刻な脅威であった。
 天文5年(1536年)7月、比叡山延暦寺は六角定頼と結んで京都に侵攻した。直接の引き金となったのは「松本問答」と呼ばれる宗論であった。法華宗徒と天台宗僧侶の間で行われたこの宗教論争は決裂に終わり、延暦寺はこれを口実として軍事行動に踏み切った。山門と六角氏の連合軍は京都を襲い、法華二十一箇寺はすべて焼失した。京都は二日二晩にわたって炎上した。今谷によれば、その被害規模は応仁の乱を上回ったとされる。
 4年前に山科本願寺を焼き払った法華一揆が、今度は自らの寺院と町を焼き払われた。しかもその構図は酷似している。山科焼き討ちでは細川晴元が法華一揆を利用して一向一揆を弾圧した。天文法難では比叡山と六角定頼が法華一揆を弾圧した。いずれの場合も、自律的共同体が外部の権力によって動員され、あるいは弾圧された。共同体の武力は、それがどれほど自発的で自律的であっても、より大きな権力構造の中で操作される対象になりうる。

本願寺の金融力と大坂移転後の経済基盤

山科本願寺を失った本願寺は、大坂に拠点を移した。証如は大坂御坊を本拠とし、ここに本願寺の新たな中心が形成されていく。
 本願寺は比叡山や五山禅林と異なり、広大な荘園を持たなかった。経済基盤の中核は門徒からの懇志(こんし)——信仰的な動機に基づく金品の拠出——であった。「3-11 講の経済」で論じたように、懇志は講を通じて本願寺に集約され、本願寺の財政を支えていた。
 大坂移転後の本願寺の金融力を具体的に示す史料が『天文日記』である。天文5年(1536年)以降の証如の記録には、公家・武家への貸付が記されている。赤松政秀が使者を遣わして借金を請うた記事があり、細川晴元・三条公頼・青蓮院門跡尊鎮法親王・朝廷・公家・幕府など、畿内の主要な権力者たちが本願寺に接近していった。
 井戸裕貴は、証如が『天文日記』を記した目的そのものが「音信」——金品の贈答を通じた政治的関係の構築——の記録にあったことを明らかにしている。天文5年の冊子表紙識語には「天文五載丙申正月日、家内並諸家音信遣通、日記粗可書之云々」とあり、「家内(本願寺の一家衆・坊官)や諸家(公家・武家・寺社家)とどのように音信をやり取りしたのか、書き残すことが目的だった」のである。
 証如の贈答外交は、天文の一向一揆の鎮静化においても重要な役割を果たした。井戸論文が分析するように、本願寺と近衛家の音信関係は、享禄元年(1528年)の預物——近衛尚通が家記を本願寺に預けたこと——を契機に始まり、天文5年には近衛家を通じて将軍足利義晴との和睦交渉が行われた。   音信の取次を務めたのは坊官の下間上野であり、上野の母が細川晴元の側近である茨木長隆の縁者であったことも和睦を後押しした。金品の贈答、書状の往復、使者の派遣——これらの「音信」を通じた政治的ネットワークの構築こそが、山科焼失後の本願寺の生存戦略であった。
 本願寺の経済力の源泉について、一点の留保が必要である。かつての大荘園主である比叡山や京都五山が独占していた日明貿易や博多貿易の利権が、荘園制度の崩壊とともに本願寺や法華宗に移っていったとする見方がある。
 しかし、本願寺が対明貿易に直接関与していたことを示す確実な一次史料は、現時点では見当たらない。より正確に言えば、大坂という港湾都市に拠点を移したことで堺商人を介した間接的な経済的紐帯が生まれ、それが本願寺の財政的基盤を補強した可能性がある、という程度に留めるべきだろう。確実に言えるのは、『天文日記』の記録に見える公家・武家への貸付や金品の贈答が、本願寺の資金力を直接的に証明しているということである。

一揆同士の相克から中央集権へ

天文元年の山科焼き討ちと天文5年の天文法難は、一つの対称的な構図を描いている。
 1532年、法華一揆が六角定頼・細川晴元の軍勢と連合して山科本願寺を焼き払った。1536年、比叡山延暦寺が六角定頼と結んで法華一揆を壊滅させた。わずか4年の間に、京都という都市空間において二つの宗教的自治共同体が相次いで破壊された。いずれの場合も、武力を持つ自律的共同体が外部の権力——管領細川晴元や比叡山延暦寺——に操られるか、口実を与えられるかして、一方が他方を焼き払った。
 加賀の一向一揆は、農村と地方都市を基盤とした共同体であった。法華一揆は、京都という中央の都市空間を基盤とした共同体であった。両者はともに、講や寺院を結節点とする信仰的紐帯と、世俗的な経済的利害を複合させた組織であった。両者はともに、武力を持ち、自治を獲得し、既存の権力と対峙した。しかし、この二つの共同体は連帯することがなかった。連帯するどころか、権力者の手によって互いに衝突させられた。
 なぜ連帯できなかったのか。最も表層的な理由は教義の違いである。法華宗は題目——南無妙法蓮華経——を唱え、一向宗は念仏——南無阿弥陀仏——を唱えた。法華宗は現世における法華経の護持を説き、一向宗は来世の浄土往生を説いた。この教義的な差異は、単なる神学的論争にとどまらず、信仰を紐帯とする共同体の存立基盤そのものに関わる。同じ念仏を唱える者は同朋であり、異なる題目を唱える者は他者である。宗教的共同体の凝集力は、その裏面として排他性を伴う。
 しかし、より構造的な理由がある。法華一揆の基盤は都市の商工業者層であり、一向一揆の基盤は農村と地方の非農業民であった。湯浅治久が指摘するように、法華宗は金銭の価値を尊び利益を追求することに一定の理解を示す教義を持ち、それが商工業者の信仰に繋がった。一方、一向宗は山の民・川の民と呼ばれる漂泊民や、農耕に従事する百姓層に浸透していった。両者の社会的基盤は重なることがほとんどなく、したがって利害も一致しなかった。
 細川晴元はこの構造的な断絶を利用した。晴元にとって、一向一揆も法華一揆も、利用可能な軍事力であると同時に、放置すれば自らの支配を脅かす存在であった。一向一揆が暴走すれば法華一揆をけしかけて弾圧し、法華一揆が強大になれば比叡山を使って潰す。「共同体同士の相克」は、権力者にとって好都合な構図だった。自律的共同体が互いに消耗し合えば、管領権力の優位は保たれる。
 しかし、この構図は長続きしなかった。二つの共同体が相次いで壊滅した後の京都には、もはや自律的な武力を持つ集団が存在しなくなった。今谷が指摘するように、天文法難の後には「織田信長の入洛によって京都の町は次第に新しい封建的専制支配のうちに組み込まれてしまう」。共同体同士が相互に衝突して消耗した跡に、一元的な中央集権の力が入り込む余地が生まれた。
 加賀で「百姓の持ちたる国」が内部矛盾によって戦国大名の領国支配へと変質していった過程と、京都で二つの自律的共同体が権力者に操られて相互に壊滅した過程は、別の経路をたどりながら同じ帰結に向かっている。分散的で自律的な共同体は、外からの軍事的圧力か、内からの権力集中か、あるいは相互の衝突によって、一元的な権力に道を譲る。
 なお、この二つの共同体の相克を、まったく異なる立場から観察した者たちがいる。天文18年(1549年)以降に来日したイエズス会の宣教師たちである。彼らにとって法華宗は布教の最大の障壁であった。堺や京都の商人層——宣教師たちが改宗させたい相手——の多くが法華宗の信徒だったからである。一方、一向宗は「信仰のみによる救済」を説く点で「ルターと同じ」と映る不気味な鏡像であった。すでに数百万の民衆にその教えが根づいている以上、キリスト教は何が違うのかを説明する必要があった。そして、のちに彼らの最大の庇護者となる織田信長と法華宗の間に張り巡らされた深い紐帯は、宣教師たちにとって構造的な難問であった。ルイス・フロイスは信長を「形だけは当初法華宗に属しているような態度を示した」と書いたが、信長の旗指物に「南無妙法蓮華経」の題目が翻っていた事実(「長篠合戦図屏風」)を見れば、その関係は「形だけ」とは言い難い。
 そしてこの相克を最も大きなスケールで引き受けることになるのが、大坂に移った本願寺と織田信長との十年戦争——石山合戦——である。次節でそれを見る。

引用文献

書籍

  • 今谷明『天文法華の乱——武装する町衆』(平凡社、1989年。改題版:『天文法華一揆——武装する町衆』洋泉社MC新書、2009年。改訂新版:『天文法華の乱——戦国京都を焼き尽くした中世最大の宗教戦争』戎光祥出版、2024年)

  • 河内将芳『日蓮宗と戦国京都』(淡交社、2013年)

  • 湯浅治久『戦国仏教——中世社会と日蓮宗』(中央公論新社、2009年)

  • 井上鋭夫『本願寺』(至文堂〈日本歴史新書〉、1962年)

  • 神田千里『一向一揆と真宗信仰』(吉川弘文館、1992年)

  • 草野顕之『戦国期本願寺教団史の研究』(法藏館、2004年)

  • 林屋辰三郎『町衆——京都における「市民」形成史』(中央公論社、1964年)

  • 上念司『経済で読み解く織田信長——「貨幣量」の変化から宗教と戦争の関係を考察する』(ベストセラーズ、2014年)

論文

  • 齋藤宣裕「中世における京都町衆研究の課題」(『現代宗教研究』第49号、2015年)

  • 井戸裕貴「天文の一向一揆と証如の音信戦略」(『愛知県立大学大学院国際文化研究科論集(日本文化編)』第16号、2025年)

  • 冠賢一「天文法難の一考察——京都町衆と諸国末寺信徒の動向」(『京都町衆と法華信仰』山喜房仏書林、2010年所収)

  • 西尾和美「『町衆』論再検討の試み——天文法華一揆をめぐって」(『日本史研究』229号)

  • 平尾政幸「天文法華の乱の遺跡」(第255回京都市考古資料館文化財講座資料、2014年)

  • 山本朋輝「山科本願寺に関する一考察」(丸田博之ゼミ研究報告)

  • 西川幸治「都市史の中の中世寺内町」(『国立歴史民俗博物館研究報告』第8集、1985年)

史料

  • 『二水記』(鷲尾隆康日記)

  • 『言継卿記』(山科言継日記)

  • 『天文日記』(本願寺証如日記。真宗史料刊行会編『大系真宗史料』8–10、法藏館)

  • 『私心記』(順興寺実従日記。同上)

  • 『後法成寺関白記』(近衛尚通日記。大日本古記録所収)

  • 『後法興院記』(近衛政家日記)

  • 『宣胤卿記』

  • 『昔日北華録』

  • 「細川晴元奉行人奉書」(『堺市史第四巻資料編第一』清文堂出版、1966年所収)

  • 『万代亀鏡録』

  • 『上野殿御返事』(日蓮書簡)

  • 京都市埋蔵文化財研究所『山科本願寺跡』(京都市埋蔵文化財研究所発掘調査報告2005-3、2005年)


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小林範之 最後まで読んでいただいて、どうもありがとうございました。