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3-14 山科本願寺焼失と法華一揆——信仰と武装する町衆(前編)


前節では、加賀一向一揆の90年間を追った。守護を倒した門徒と国人が、講と一門衆と国人の三者構造によって一国を運営し、やがてその内部に権力の集中が生じて戦国大名の領国支配と見分けがつかなくなっていく過程を見た。
 本節では、その加賀一向一揆と同じ時代に、京都という都市空間で起きたもう一つの一揆である法華一揆を見る。法華一揆は、一向一揆と敵対した集団として語られることが多い。事実、天文元年(1532年)の山科本願寺焼き討ちの実行部隊の一角を担ったのは法華宗の町衆たちであった。しかし、法華一揆を単に「一向宗の敵」として片づけることは、この時代に起きたことの本質を見誤らせる。
 法華一揆もまた、「象徴的中心はあるが権力的支配なき共同体」の一つであった。日蓮の教えを信仰の紐帯とし、京都の町衆が自発的に武装し、自治と防衛の組織を作り上げた。加賀の一向一揆が農村と地方都市を基盤としたのに対し、法華一揆は京都という中央の都市空間を基盤とした。両者はともに宗教的共同体であり、ともに一揆を結んだ。しかしこの二つの共同体は連帯することなく、管領(かんれい)細川晴元という権力者の手によって操られ、互いに衝突した。
 「自律的な一揆同士の相克」——これが天文年間の京都で起きたことの核心である。

もうひとつの一揆

天文法華の乱と呼ばれる一連の事件を扱った単行本は、今谷明の『天文法華の乱——武装する町衆』(平凡社、1989年)が刊行されるまで、一冊も存在しなかった。今谷はこの事実を率直に批判している。一向一揆については笠原一男、井上鋭夫、神田千里をはじめ膨大な研究が蓄積されてきたにもかかわらず、法華一揆の研究は極端に少ない。今谷は、歴史学界に「一向一揆=善、法華一揆=悪」という暗黙の前提があったのではないかと問いかけた。
この偏りには理由がある。一向一揆は「百姓の持ちたる国」を実現した民衆運動として、戦後歴史学の民衆史観と親和性が高かった。一方、法華一揆の担い手は京都の裕福な商工業者——町衆(まちしゅう)——であり、「ブルジョア的」な性格を持つと見なされた。階級史観の枠組みの中では、法華一揆は積極的に評価されにくかった。
 しかし、法華一揆もまた一揆である。一揆とは、共通の目的のために一味同心して結合する行為を意味する。加賀の門徒が講を基盤として守護を倒したように、京都の町衆は日蓮宗の信仰を紐帯として武装し、自治を獲得した。しかし、両者の基盤は異なる。一方は農村と地方都市、他方は中央の都市空間を基盤とし、武力を持ち、既存の権力と対峙したという構造は共通している。
 この対称性を意識しなければ、山科焼き討ちの意味は見えてこない。あれは単なる宗派対立ではない。二つの自律的共同体が、より大きな権力構造の中で操られ、互いに激突した事件だったのだ。

山科本願寺という都市

法華一揆らによる山科本願寺の焼き討ちが何を意味するのかを理解するためには、まず山科本願寺がどのような空間であったかを知る必要がある。
 文明10年(1478年)、蓮如は河内国出口から山科野村に移り住み、本願寺の再建に着手した。蓮如がなぜ京都の「洛外」に位置する山科を選んだのかについては複数の要因が指摘されている。草野顕之は早島有毅の教示として、本願寺は西方浄土の阿弥陀如来を礼拝するために通常、御影堂や阿弥陀堂を東面して建てるが、東方にある山科に建立された場合にのみ京都東山の大谷——かつての本願寺の地——を礼拝する形をとることができるという宗教的理由を挙げている。
 京都市埋蔵文化財研究所の発掘調査報告書は、山科盆地の地理的条件をより明確に示している。山科本願寺が建設された野村は、四ノ宮川と山科川の合流点の西側一帯にあたり、両河川によって形成された扇状地の先端部に位置する。扇状地は水田開発が困難な場所であり、当時は未開発の地域であった。寺域に広い敷地を必要とした山科本願寺にとって、この条件は好都合だった。山本朋輝が考察するように、明治中頃の地図においてすら本願寺があった野村周辺は水田開発が行われていなかった。本願寺は、山科七郷の郷民にとって利用価値の低い不毛な土地を造営地点として選定することで、自治意識の強い郷民の許可を得たと考えられている。
 約6年の歳月をかけて建設された山科本願寺は、三重の土塁と堀で囲まれた環濠城塞都市であった。中心に御影堂・阿弥陀堂を配した「御本寺」を第一郭とし、一家衆や坊官が居住する「内寺内」を第二郭、一般の門徒が居住し商業や手工業が営まれる「外寺内」を第三郭とする三重構造を持っていた。南北約1キロメートル、東西約0.8キロメートル。発掘調査によって土塁の構築方法が詳しく判明しており、堀側に水平に礫の多い層と粘性の強い均質な層を交互に積み上げて核となる部分を構築し、さらにその内側斜面に傾斜に沿って同様に土を積み上げるという、計画的で高度な技術が用いられていたことがわかっている。
 公家の鷲尾隆康は、この壮大な都市を自らの日記に記録している。

本願寺ハ四五代ニ及ビテ富貴ヲ誇リ栄花ヲ誇ル。寺中広大無辺ニシテ、荘厳サナガラ仏国ノ如シト云々。在家又洛中ニ異ナラザルナリ。居住ノ者各富貴、仍テ家々ノ嗜ミ、随分ノ美麗ト云々

(現代語訳)
本願寺は四代五代にわたって富貴を誇り、栄華を極めている。寺の境内は広大無辺にして、その荘厳さはさながら仏の国のようだという。寺の周囲に住む在家の者たちの暮らしぶりもまた洛中と変わらない。住む者それぞれが裕福であり、それゆえ家々の身なりや調度は、それぞれに美麗を尽くしているという

『二水記』天文元年8月24日条

 仏国の如し——ただしこの記事は、隆康が山科本願寺の焼き討ちという暴力的な破壊の報に接した日に書かれたものである。「今日一時滅亡、併是天道也」と続くその筆致には、本願寺の「栄花」に対する嫉視と、その「滅亡」を「天道」と見なす冷ややかな感情が交錯している。一方、近衛尚通は山科本願寺の焼き討ちを「時節到来」と歓喜すらしていた(『後法成寺関白記』天文元年8月24日条)。京都の公家にとって、山科本願寺の繁栄は自分たちの経済的地位を脅かす存在でもあったのだ。

法華一揆の成立——武装する町衆

山科本願寺が京都の洛外に壮大な宗教都市を築いていた同じ時期、洛中では法華宗(日蓮宗)が急速に勢力を拡大していた。
 応仁の乱後の文明13年(1481年)にはすでに「法華宗の繁昌は耳目を驚かすものなり」(『宣胤卿記』文明13年3月26日条)と記され、天文元年(1532年)頃には「京中大方題目の巷なり」(『昔日北華録』巻中)とまで言われるほどの隆盛を誇っていた。洛中には法華二十一箇寺と呼ばれる日蓮宗寺院が存在し、妙顕寺、本国寺、妙覚寺、頂妙寺、本満寺、立本寺、本能寺、妙蓮寺など、広大な敷地と城砦的な防御施設を持つ大寺院が京都の町の中に林立していた。
 法華宗がこれほど京都で信仰されるようになった背景について、河内将芳は複数の要因を指摘している。一つは女性信仰の側面である。近衛政家の日記『後法興院記』には、政家の娘と思われる「奥御所」と呼ばれる女性が本満寺において題目を唱えながら臨終を迎えたという記述がある(『後法興院記』明応5年〔1496〕閏2月8日〜3月5日条)。河内はこの記事に着目し、法華信仰による女人成仏の教義が女性の信仰に繋がった可能性を指摘するとともに、それまでの顕密仏教が決して関わることのなかった葬送に法華宗が積極的に関わったことの重要性を論じている。
 もう一つは経済的な親和性である。湯浅治久は、法華宗寺院が応仁の乱後に復興できた背景に有力な町衆たちの帰依があったことを述べ、当時の法華宗寺院が祠堂銭(しどうせん)の貸出しを広く行っていた事実を指摘している。祠堂銭とは、先祖供養のために寺院に寄進される金銭であり、これが金融に回されていた。慶長10年(1605年)の妙覚寺日奥の記録には「来年から自分の持ち分の銀八目以外は、日蓮聖人へ進上せよ。(それをもとでに)人に貸すならば一割の利子を取り聖人へ戻すように」(『万代亀鏡録』)と定められている。日蓮自身も「金と申すもの国主も財とし、民も財とす。たとへば米のごとし、一切衆生のいのちなり。ぜに又かくのごとし」(『上野殿御返事』)と、金銭の持つ力をなかば肯定している。湯浅はこの金銭に対する積極的な態度が、商工業者を中心とした町衆たちの信仰に繋がったと推測している。
 町衆(まちしゅう)とは何か。林屋辰三郎の定義によれば「南北朝の内乱、応仁の乱を経て都市生活の前面に進出し来った『町』に據って、地域的な集団生活をいとなむ人々」である。齋藤宣裕はこの定義を踏まえつつ、町衆の形成過程を次のように整理している。鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて発達した商業区域で生活する人々が「町」を形成し、自治を高めつつあった。応仁の乱後、土倉衆や没落貴族をも吸収して地域的集団生活を形成し、公家や貴族たちから「町衆」と呼ばれるようになった。土倉・酒屋などの経済的な力によって成長した都市民である。
 応仁の乱後に続く戦乱や各地で蜂起する土一揆、そして一向一揆の脅威に対抗するため、日蓮宗徒を中心とした町衆たちは自衛のために法華一揆という武力を持った組織を構成するようになった。天文元年(1532年)には、法華一揆は一向一揆の本拠地であった山科本願寺を攻め落とし、その後も勢力の衰えぬ一向一揆の集団から京都の町を守り続けた。有力な町衆信徒を中心として年貢や地子銭(じしせん)の免除・半済(はんぜい)を獲得し、さらに検断権——刑事警察権——までも手中にして自治を強めていった。
 ここで重要なのは、法華一揆の構成員についてである。齋藤は、法華一揆が「法華宗信徒を中心とし、それに加えて信徒・未信徒混在の京都町衆、さらには細川政権からの報酬が目的であった野武士や地侍などが加わっていた」と推測している。つまり、法華一揆は純粋な宗教的共同体ではなく、信仰と経済的利害と軍事的動機が複合した存在であった。これは加賀一向一揆の構造——門徒と国人と講という三者の複合——と対称をなしている。宗教が異なり、基盤が異なり、都市型と農村型という違いがあるが、信仰を紐帯としつつ世俗的な利害が絡み合うという構造は共通しているのだ。
 冠賢一の研究は、この共通性をさらに広い射程で捉えている。冠は、天文法難の際に山門側の攻撃に対し動員された京都日蓮宗側の加担者が、洛内の僧俗信徒だけではなかったことを明らかにした。若狭国の長源寺の一党、下野国の妙金寺の一党、さらに摂津国高槻の本澄寺一党など、京都諸本山を本山と仰ぐ諸国の末寺僧侶信徒が京都防衛に駆けつけていた。天文法難は洛内の一事件にとどまらず、全国的な規模を持つ事件であったのだ。

山科焼き討ち——交渉途中の炎上

天文元年(1532年)の京都周辺の政治情勢は、複数の権力が入り乱れる混沌の中にあった。
 この混乱の起点を理解するために、やや遡って経緯を追う必要がある。享禄5年(1532年、同年4月に天文に改元)7月、奈良において一向一揆が蜂起した。彼らは縦横無尽に奈良の町中を放火し、東大寺・興福寺をはじめとする寺院も多大な被害を受けた。公家の近衛尚通はこの報に接し「南都江本願寺一揆令蜂起、諸坊放火打破云々」と記し、「言語道断驚嘆無極者也」と憤激した(『後法成寺関白記』享禄5年7月17–19日条)。
 この奈良一揆が、山科焼き討ちに至る直接的な導火線となった。ただし、本願寺と一向一揆の関係は単純ではない。井戸裕貴の論文が指摘するように、本願寺の証如は一向一揆の蜂起を主導していたわけではなく、むしろ門徒の行動を把握・制御できずにいた。藤井学は奈良一揆を本願寺とは連絡なく蜂起した自主的な一揆と論じ、一方の神田千里は本願寺による一向一揆の破門などの処置が見られないことから、本願寺が一揆の意向を是認していたと論じた。両者の見解は分かれるが、いずれにしても奈良一揆が蜂起したことと、本願寺が弾圧されたことの間にどこまで因果関係があったのかは、なお検討の余地がある。
 管領細川晴元は、この一向一揆の軍事力をまず利用しようとした。晴元は自らの被官である木沢長政の政敵であった河内守護畠山義堯(よしたか)や、それを支援した三好元長を討つために、本願寺の証如に一向一揆の蜂起を訴えた。しかしこの策は暴走した。本願寺門徒は奈良でも蜂起し興福寺を攻めた。堺においても三好元長は門徒の大軍に攻められて自害した。晴元が「使った」はずの一向一揆が、制御不能な軍事力として畿内を席巻し始めたのだ。
 ここで晴元は手のひらを返した。一向一揆の軍事力の大きさに恐怖を覚えた晴元は、今度は本願寺を弾圧する側に回った。細川晴元の奉行人である茨木長隆が堺の念仏寺に宛てた奉書にはこうある——「本願寺事、別儀なき旨申さるるも、一揆等恣(ほしいまま)に造意歴然なり。然る上は諸宗滅亡此の時か」(「細川晴元奉行人奉書」『堺市史第四巻資料編第一』所収)。本願寺は自分たちに敵対する意図はないと弁明しているが、一揆の勝手な行動は明らかだ、諸宗の滅亡がこの時に迫っている——だから立ち上がれ、という呼びかけである。
 天文元年8月23日、六角定頼の軍勢と法華一揆が山科本願寺を包囲し、翌24日早朝から攻撃を開始、放火した。
 順興寺実従の日記『私心記』は、焼き討ちの最終局面を記録している。

朝早々ヨリ諸勢取出候、取マワシセメ候、四時也。昨日ヨリ今日ニ至マテ城中静ニ乄強也。然処兵庫介和睦之噯トシテ人質ニ出、源次郎内へ取時、諸勢水落ヨリ乱入乄火ヲカケ候間、一時之間ニ寺中御坊等焼失候

『私心記』天文元年8月24日条

 朝早くから諸勢が攻め立て、本願寺を取り囲んで攻撃した。城中は昨日から今日に至るまで静かに持ちこたえていた。しかし和睦の交渉が行われ人質が出されたまさにその時、諸勢が水落から乱入して火を放った。一時の間に寺中の御坊はすべて焼失した——。
 井戸裕貴はこの記事から重要な点を指摘している。山科本願寺の焼き討ちは、和睦交渉の最中に前線兵士が暴走した結果だという可能性である。細川晴元と本願寺の間には決定的な対立関係があったわけではなく、晴元に本願寺を壊滅させる意図はなかった。実従らは脱出でき、追撃を受けた形跡もない。前線兵士は逃げる者たちを討つよりも、本願寺の「栄花」を物語る金品の渉猟に集中していた。
 ここにおいて確認すべきは、山科焼き討ちの加害者側の構成である。三万から四万とされる攻撃軍の主体は、六角定頼の近江勢と法華一揆の連合軍であった。細川晴元の政治的意図によって動員されたこの連合軍において、法華一揆は自発的に参加したとも、晴元に利用されたとも言える。齋藤が指摘するように、「法華一揆という組織が、共通の敵を持っていた細川晴元政権によって利用されていったと考えるのが妥当」であるが、京都の町の自衛という点において法華一揆成立の目的は果たされていた。一向一揆を山科で打ち破ったことで、法華一揆は京都防衛に成功したのだ。
  山科を焼き払った法華一揆は、その勢いのまま大坂へと向かった。天文2年(1533年)、法華一揆は細川晴元の軍勢とともに大坂の本願寺を包囲している。鳥居小路経厚の日記(『経厚法印日記』)には「馬上四百騎」という記述があり、武装した町衆が騎馬で進軍した様子が伝えられている。その兵具はきらびやかで、武士たちも驚くほどであったという。山科を焼かれ大坂に退去したばかりの本願寺は、追撃を受けた形になる。結果として大坂本願寺は持ちこたえたが、法華一揆が城外に南無妙法蓮華経の旗を翻して包囲したという経験は、門徒たちの記憶に深く刻まれたはずである。
 しかし、法華一揆の側から見れば、山科の焼き討ちも大坂の包囲も、細川晴元の軍事戦略の一環として遂行されたものであった。一つの共同体を破壊するために動員された別の共同体が、そのこと自体によって権力者への従属を深めていくという構図がここに成立している。法華一揆は自律的な共同体であったが、晴元の戦略に組み込まれた瞬間から、その自律性は浸食され始めていた。
 一方、山科本願寺の焼失は、近江の宗教地図をも塗り替えた。六角定頼は近江における一向宗を厳しく禁圧し、この圧力のもとで近江南部を中心に法華宗への宗派替えが進んだとされる。 

引用文献

書籍

  • 今谷明『天文法華の乱——武装する町衆』(平凡社、1989年。改題版:『天文法華一揆——武装する町衆』洋泉社MC新書、2009年。改訂新版:『天文法華の乱——戦国京都を焼き尽くした中世最大の宗教戦争』戎光祥出版、2024年)

  • 河内将芳『日蓮宗と戦国京都』(淡交社、2013年)

  • 湯浅治久『戦国仏教——中世社会と日蓮宗』(中央公論新社、2009年)

  • 井上鋭夫『本願寺』(至文堂〈日本歴史新書〉、1962年)

  • 神田千里『一向一揆と真宗信仰』(吉川弘文館、1992年)

  • 草野顕之『戦国期本願寺教団史の研究』(法藏館、2004年)

  • 林屋辰三郎『町衆——京都における「市民」形成史』(中央公論社、1964年)

  • 上念司『経済で読み解く織田信長——「貨幣量」の変化から宗教と戦争の関係を考察する』(ベストセラーズ、2014年)

論文

  • 齋藤宣裕「中世における京都町衆研究の課題」(『現代宗教研究』第49号、2015年)

  • 井戸裕貴「天文の一向一揆と証如の音信戦略」(『愛知県立大学大学院国際文化研究科論集(日本文化編)』第16号、2025年)

  • 冠賢一「天文法難の一考察——京都町衆と諸国末寺信徒の動向」(『京都町衆と法華信仰』山喜房仏書林、2010年所収)

  • 西尾和美「『町衆』論再検討の試み——天文法華一揆をめぐって」(『日本史研究』229号)

  • 平尾政幸「天文法華の乱の遺跡」(第255回京都市考古資料館文化財講座資料、2014年)

  • 山本朋輝「山科本願寺に関する一考察」(丸田博之ゼミ研究報告)

  • 西川幸治「都市史の中の中世寺内町」(『国立歴史民俗博物館研究報告』第8集、1985年)

史料

  • 『二水記』(鷲尾隆康日記)

  • 『言継卿記』(山科言継日記)

  • 『天文日記』(本願寺証如日記。真宗史料刊行会編『大系真宗史料』8–10、法藏館)

  • 『私心記』(順興寺実従日記。同上)

  • 『後法成寺関白記』(近衛尚通日記。大日本古記録所収)

  • 『後法興院記』(近衛政家日記)

  • 『宣胤卿記』

  • 『昔日北華録』

  • 「細川晴元奉行人奉書」(『堺市史第四巻資料編第一』清文堂出版、1966年所収)

  • 『万代亀鏡録』

  • 『上野殿御返事』(日蓮書簡)

  • 京都市埋蔵文化財研究所『山科本願寺跡』(京都市埋蔵文化財研究所発掘調査報告2005-3、2005年)

  • 『経厚法印日記』(鳥居小路経厚日記)


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小林範之 最後まで読んでいただいて、どうもありがとうございました。