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内陸水運と原始一向宗 ~山の民と川の民が結んだ戦国播磨のネットワーク~

三木合戦時の兵糧ルートを調べるうちに、国人や川衆・舟座など河川流通に携わる者、さらに僧や、いわゆる山の民に相当する鉱業従事者によって構成された、広大な内陸水運ネットワークが浮かび上がってきた。
 これは三木城の別所氏が支配したネットワークと見ることもできるし、また毛利氏に与した別所氏を支援するために、川の民や山の民、僧兵や一揆が、自らの持つインフラを貸与し、織田軍との戦いを側面から支えたと見ることもできる。 

丹生山を中心とした水運ネットワークと国人たちの居城

図に示す通り、宝塚・三田方面から有馬温泉を抜け、淡河、三木、加古川へと至る道が「湯の山街道」である。海沿いの道が未開発であった時代には、この「湯の山街道」こそが畿内と中国地方を結ぶ主要ルートであった。
 
北側が街道に面する形で丹生山(たんじょうさん)がある。正確には、丹生山上に「西の比叡山」と呼ばれた明要寺の伽藍群が存在し、それを取り囲むように、シブレ山、シビレ山、丹生山、帝釈山、稚児ヶ墓山、花折山、金剛童子山などを含む丹生山系の山々を総称して「丹生山」と呼ぶことが多い。戦国時代、この丹生山では僧を中心に数千人が生活していたという。
 「丹生」とは辰砂、すなわち朱や水銀の原料を指す。修験道や密教の修行を行う僧たちは、同時に水銀の採掘・流通にも携わっていた。密教の行者が即身成仏の際に水銀を飲む習俗があったが、水銀中毒は手足や顔面のしびれなど感覚障害をもたらす。そのことを思えば、シブレ山、シビレ山といった地名も、まさにそれを象徴しているといえよう。
 三木合戦や荒木村重の伊丹の戦いには、雑賀・根来といった山の民・川の民、さらには海の民による大勢の一揆勢が加わったが、基本的に丹生山系の人々も、彼らと同様の生業に従事していたのである。
 
これら山の民や川の民の中には、「タイシ」や「ワタリ」と呼ばれる者たちが多く含まれていたと考えられる。タイシは太子信仰を奉じた修験系の山の民であり、金・鉄・水銀などの鉱産物を採掘する人々であった。一方のワタリは、河川や海のほとりに住み、舟を操って交易や物流に従事した民である。彼らはいずれも農地を持たず、移動性とネットワーク性を持つ社会集団を形成していた。とくに中世後期の原始一向宗は、このワタリ・タイシのネットワークを基盤として発展したと言われており、太子信仰を中核に、山と川をつなぐ信仰と経済の共同体が成立していたとみられる。丹生山の宗教勢力や鉱山労働者、そして舟座による河川水運が結びついていた背景には、このような太子信仰を基盤にする原始一向宗の広がりがあったのではないか。

再度、図をご覧いただきたい。丹生山を中心に、三つの河川と一部摩耶越えの山岳ルートが確認できるだろう。これこそが東播磨から西摂津にかけて展開した内陸水運ネットワークである。もとは河川を利用した物流路であったが、三木合戦の折には、奇しくも兵糧ルートとして機能した。
 その内訳は、加古川とその支流を中心とするルート、明石川とその支流を中心とするルート、生田川上流から摩耶山を越えるルートの三つである。そして各ルートには、それぞれ流通を管轄した国人や座の存在が確認できる。
 
では、三つのルートを順に見ていき、その後で丹生山の起源や、秀吉による焼き討ちについても触れていきたい。

①加古川~美嚢川~志染川ルート

かつて加古川の大三角州の東側に高砂城が築かれ、その上流には右岸から左岸へと、野口城・神吉城・志方城と、国人衆による城塞ネットワークが形成されていた。正法寺山の麓で加古川は美嚢川に分岐する。美嚢川の上流は東へ向かい三木の盆地に入り、さらに志染川に分岐して丹生山の麓に至る。丹生山の正面は湯の山街道に面する北西側で、その水源を睨む位置に三津田城が構えられ、厳重に守りを敷いていた。
 三木合戦の際、丹生山の南側は志方衆、神木構主である高橋政純が守ったという。本来なら加古川河口付近に拠点を持つ志方衆が、なぜ丹生山城の守備に就いたのか。その理由は、加古川から丹生山へ至る水運を考えれば納得できる。志方衆が加古川水系の輸送・物流を掌握していた可能性は十分に考慮すべきである。
 現在の加古川市志方町は革製品の町としても知られるが、その系譜をたどれば、皮なめしや加工に従事する非農耕民の文化に行き着く。
 
当時の陸路の整備状況は不明だが、船が重要な交通手段であったことは間違いない。陸路は多くの国人領を通過する必要があり、手間も危険も伴った。その点、河川輸送は特権を持つ舟座に委ねればよく、効率的でもあった。川船は現代でいえば高速鉄道のようなものかもしれない。加古川河口付近の志方や神吉から乗れば、一気に丹生山の麓まで到達することができたのだ。
 志方衆の関わりは明らかではないが、加古川上流には、丹波で収穫された米を運ぶ水運業者として、本郷舟座・滝野舟座・田高舟座などが存在していたことが確認できる。

②明石川~木津川ルート

明石川の河口付近には、この地を代々支配してきた明石氏の居城・枝吉城がある。そのすぐ上流で東に分かれる伊川の先には、衣笠氏の端谷城があり、もう一方の明石川をさかのぼると、玉津には間島氏の福中城がある。さらに神戸電鉄栄駅付近で明石川は木津川と名を変え、シブレ山の麓へと至る。
 私は、このルートには衣笠氏が関与していたのではないかと考える。その理由の一つは、丹生山北側を流れる美嚢川のほとりに、衣笠氏の同族が城主を務めた衣笠城が存在する点である。衣笠氏がいわゆる「川の民」であったとすれば、この明石川水系を管轄していた可能性は高い。また衣笠氏は、志方衆の櫛橋氏や明石の明石氏と同様、赤松家の年寄衆に列しており、陸上水運を任されても不自然ではない。なお、明石氏や、加古川河口の高砂城を拠点とする梶原氏は水軍を率いる家系であったため、ここでの考察からは除外している。

③生田川~六甲山系ルート

河川架け替え以前の旧生田川は、現在のフラワーロードにあたり、その河口はちょうど神戸税関付近に位置していた。生田の森のすぐ西側には荒木一族の居城・花隈城があり、生田川の上流、布引の滝周辺には滝山城があった。新神戸駅のすぐ東には「野崎通」という地名が残るが、かつてその一帯には「野先衆」が住んでいたと伝えられる。私は、この野先衆こそが生田川の水運を担い、さらに山の民として丹生山の掘削にも関わっていたのではないかと考えている。
 いずれにしても、滝山城から多々部城を経て摩耶山を越えれば、そこはすでに箕谷であり、丹生山の麓へと至るのである。

 こうして、3つのルート、すべてが丹生山とつながっているのだ。

丹生山明要寺の成り立ち

神戸市北区にある丹生山明要寺は、古代より霊山として信仰を集めてきた丹生山に位置する真言宗の古刹である。その由来には、百済の王子にまつわる伝説が伝わっている。
 伝承によれば、百済の王子・琳聖太子(りんしょうたいし)が渡来してこの地に仏法を広め、丹生山に登って伽藍を開いたとされる。太子は明要寺の開基とされ、持参した仏像を本尊とした。以後、山中には堂塔伽藍が営まれ、修験や祈祷の道場として栄え、丹生山全体の信仰の中心となった。
 また、寺の創建には水神であり修験道の守護神でもある丹生都比売神への信仰が深く関わっている。琳聖太子が丹生山を選んだ背景には、この地が古くから水源の神を祀る聖域であったことが大きいと考えられる。こうして山岳信仰と仏教が融合し、明要寺は修験の霊場として発展していった。
 中世には高野山とも関係を結び、多くの修行者が参籠した。特に戦国期には寺勢が最も盛んで、山内には数十の堂塔伽藍が立ち並び、一説には僧侶・修験者・信徒や従事する人々を合わせて二万人が山中に暮らしていたとも伝わる。実際に常時そこまでの人数がいたかは不明だが、少なくとも千人規模の僧俗が活動していたことは確かであり、周辺の村々も寺を中心に栄えた。山全体は一つの宗教都市の様相を呈し、祈祷や修験の力を求めて武将や民衆が集まることで、経済的にも大きな影響力を有した。

丹生山城の焼き討ち

丹生山城は、明要寺と一体となった大規模山城で、戦国期には僧兵や信徒を抱え強大な勢力を誇った。天正6年(1578)、播磨の別所長治が織田信長に反旗を翻し、三木城に籠城すると、丹生山勢はこれに呼応した。険阻な丹生山は播磨と摂津を結ぶ交通の要であり、僧兵たちはその地の利を活かして三木城への兵糧搬入を行ったと伝えられる。兵糧攻めを戦略とする秀吉にとって、補給路を支える丹生山の存在は看過できないものであった。
 このため、秀吉軍は三木城包囲作戦の一環として丹生山城を攻撃し、徹底的に焼き討ちにした。山内に立ち並んだ数十の伽藍や坊舎は灰燼に帰し、僧俗の多くが討たれたという。宗教都市さながらの繁栄はこのとき壊滅した。


【参考】
三木合戦から一国一城に至るまでの経緯

水色…織田方
オレンジ…毛利方
ピンク…徳川時代

①天正5年(1577)10月 羽柴秀吉播磨に出陣

毛利方は、毛利水軍が入り込んだ高砂城のみで、周辺の諸城はすべて織田方に属し、両者はにらみ合った。天正四年(1576)6月には、荒木村重の支援を受けた別所長治によって高砂城が包囲されている(釈文書)。

②天正6年(1578)2月 別所長治、織田に反旗を翻す

加古川の糟屋氏の居館(加古川城)で行われた毛利攻めの会議に、別所長治自身は参加せず、叔父の別所吉親を名代として送った。会議の場で吉親と秀吉が口論になり、もの別れのまま吉親は三木城に引き返した。これを受け、別所長治はすぐに反織田の旗を翻し、東播磨の諸城のほとんどが別所方、すなわち毛利方に転じた。

③天正7年(1579)3月 加古川下流域の支城の各個撃破と荒木の謀反 

西播磨において、織田方の臣下となった尼子勢が籠る上月城を取り囲む毛利軍は6万とも言われ、遠巻きにそれを見守る秀吉に勝ち目はなかった。単身安土に上り、信長に指図を求めた秀吉は、上月城の放棄と三木の支城の各個撃破を命ぜられた。
 秀吉に代わって戦の総指揮を執ったのは織田信忠である。上方の3万の兵を率いた信忠は上月城の陣を解き、明石方面へ進軍した。そして加古川方面に向かい、織田方に残る別所長治の叔父・別所重棟の居城である別府城付近に陣を張った。
 この時、山間部である播磨・美作国境付近にいた三万の大軍が、周囲を敵勢に囲まれ、街道も未整備な状況下で、わずかの間に瀬戸内の海辺へと移動できたのは、河川を利用した以外に考えられない。上月城の東を流れ、姫路の西を通り瀬戸内へと注ぐ揖保川の流域には、太子町の地名が残る。まさに「タイシ」の地であり、この川筋こそが、古くから山の民と川の民が結んだ物流と信仰のルートであった可能性が高い。
 そして、この行軍を統率し、河川ネットワークを使いこなしたのが、黒田官兵衛であったと見ることもできる。黒田家は代々、姫路の広峰山と深いつながりを持ち、山麓には「御師屋敷」が立ち並んでいたという。御師は修験道に起源を持つ祈祷師であり、鉱山採掘や金堀りとも関わる「タイシ」の民に連なる存在である。官兵衛自身が播磨の地理と宗教的ネットワークに通じ、ワタリ・タイシの民の協力を得ていたとすれば、信忠軍の異例の迅速な移動も理解できる。私は、黒田官兵衛こそ、西播磨におけるワタリ・タイシの元締め的存在であり、だからこそ秀吉のもとで軍師として抜擢されたのではないかと考えている。
 官兵衛の掌握していたインフラを基盤に、播磨南西部を固めた秀吉は、播磨東部の制圧に乗り出した。三木城を孤立させるため、真っ先に狙われたのは、三木の表玄関とも言える加古川下流域の国人が支配する支城群である。
三木の支城である、高砂城、神吉城で攻城戦が進む中、天正6年(1578)10月、摂津の荒木村重が織田信長に反旗を翻した。これにより、天正7年(1579)3月には摂津は毛利勢の支配下となった(図参照)。
 また、織田方の枝吉城主・明石則実が端谷城の向城である前畑城に移ったことで、明石川河口の守りは手薄となった。この結果、船上城や毛利水軍が籠る魚住城への陸揚げ兵糧を運ぶ明石ルートが開設されたのは、この頃でないかと考察している。 

④天正7年(1579)10月 丹生山城、淡河城陥落。三木城包囲網は最終段階。

荒木村重の花隈城から滝山城を経て丹生山ルートで兵糧を運び込む経路は、池田恒興によって滝山城が攻略されることで途絶えた。そして、丹生山城が焼き払われると、淡河城主・淡河定範は自らの城に火をかけ、三木城に合流した。
 ここで少し地名について触れておきたい。和泉国の南端、紀伊国との境付近に淡輪(たんのわ)という地名がある。この場所は『信長公記』では「丹和」と記されており、「丹生の和歌山」を意味すると考えられる。したがって「淡河(おうご)」の「淡」は「丹」と同源であり、淡河とはすなわち「丹生の川」を指す名称であった可能性が高い。中央構造線上に位置する淡路島の「淡」も、同系の「丹」に由来すると見てよいだろう。
 このように見てくると、丹生山から淡河へと続く地帯は、古くから「丹=水銀」をめぐる信仰や産業が発達していたことがうかがえる。
 いずれにせよ、この頃になると、丹生山ルートだけでなく、明石ルートの要であった船上城も蜂須賀正勝に落とされ、別所方の城は三木の本城以外では、衣笠範景の端谷城と魚住城のみとなった。
 三木城の周囲には数十の付け城が築かれ、柵が何重にもめぐらされ、美嚢川には逆茂木が立てられた。毛利軍が兵糧を陸揚げし、三木城の包囲網を突破しようとしたことで始まった、天正7年(1579)9月の大村合戦以降、恐らく三木城に兵糧が運ばれることはなくなった。
 落城が迫ったことに自信を深めた秀吉は、織田の宿老たちに完全包囲の状況を誇示する手紙を何通も送った。自らの手柄を誇張するためである。宿老たちは返信に困り、「鳥になって空でも飛べない限り城の外には出られませんなー」と、一同の連名でどうでもよい手紙を出し、とりあえず秀吉の労をねぎらった。 

⑤天正8年(1580)7月 毛利方すべて落城

天正8年1月三木城、同2月端谷城、同7月花隈城が落城し、一連の三木合戦は終了。

⑥元和3年(1617) 一国一城

徳川時代に入り、花隈城などの部材を使い、兵庫城が、三木城や船上城、端谷城などの部材を使い明石城が完成した。

まとめ

丹生山明要寺が「西の比叡山」と呼ばれたのは、単なる宗教勢力の大きさゆえではない。そこには、「山の民」と呼ばれる鉱業従事者と、「川の民」と呼ばれる河川交易従事者による、民衆信仰を基盤としたネットワークが存在していた。
 元来、太子信仰を通じて互いに結びつき、山で鉱を掘り、川で舟を操ったワタリ・タイシの人々は、やがて念仏を中心とする阿弥陀信仰に同調し、一向宗の形成母体となっていった。一向宗が巨大な教団へと発展できたのも、このワタリ・タイシの広大な交易圏と流動性によるものといってよいだろう。山岳信仰と密教の聖地である丹生山の下で、そのまさに「太子」であるワタリ・タイシの人々が内陸水運ネットワークを築いていったのである。
 三木合戦の頃、山の民と川の民が別所氏を支援した背景には、単なる地縁ではなく、信仰と生業を共有する精神的共同体としての結びつきがあった可能性が高い。別所氏の「別所」とは、姫路市別所町に由来するといわれるが、本来「別所」とは修験道や密教における修行場・別院を意味する語である。別所氏自体が丹生山や広峰山など、宗教ネットワークの支援を受けて勢力を拡大し、戦国大名化していった可能性も考えられる。
 いずれにしても、水銀をめぐる採掘と流通、太子信仰、そして一向一揆——そのすべてが交わる地点に、まさに中世的世界観の象徴としての丹生山があったと考えられる。
 

(参考文献)
井上鋭夫『山の民・川の民』(平凡社選書1881年)


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小林範之 最後まで読んでいただいて、どうもありがとうございました。