3-8 他阿弥陀仏真教——念仏と密教・修験道の交差点
丹生山の朽ちた堂——朱の山に上った行者、丹の川からの訪問者
正応2年(1289年)8月、兵庫の観音堂(のちの真光寺)で一遍は生涯を閉じた。聖教はすべて焼き捨てられた。弟子の一部はそのまま兵庫の津から入水して師の跡を追った。一遍の一番弟子とも言える他阿弥陀仏真教は、摂津と播磨の国境にある丹生山に分け入った。彼は彼なりの考えがあって、師の後を追おうとしたのだ。
丹生山は標高500メートルほどの山だが、その名は山の性格をそのまま語っている。「丹生」——丹が生まれる山。丹とは辰砂、すなわち硫化水銀の鉱石を指す。山腹には辰砂を含む赤い土の露頭が露出している。松田壽男『丹生の研究』が報告する地質調査では、表層土壌から水銀が検出されている。同じ山系にあるシブレ山、シビレ等の地名は水銀中毒の「痺れ」に由来するとも思われる。水銀の服用——道教由来の仙薬思想が密教的修行と習合する中で、即身成仏を志向する行が試みられた可能性を示唆している。「朱の大地」のところで述べたように、丹生という地名はそこに辰砂の採掘・精製を担った人々のネットワークと修験者の回峰ルートとの重なりを意味していた。真教が死に場所に選んだのが、まさにこの「朱」の山だったことは記憶しておいてよい。
山頂には明要寺があった。真言宗の大寺院である。百済の聖明王の王子・恵の創建と伝わり、中世には七堂伽藍130坊を擁した。山全体が一つの宗教都市だった。護摩の煙と辰砂の赤い土。この山では、大地そのものが修行と同質であった。
一遍の周囲に集まった人々は「時衆」と呼ばれた。念仏の時を共にする衆、という意味である。のちに教団として制度化されたあとの名称が「時宗」であり、本稿では一遍・真教の時代については「時衆」、教団成立以降については「時宗」と表記する。
真教ら数名の時衆は、山中に朽ちかけていた堂——極楽浄土寺——にこもり、念仏を唱えながら死を待った。師の後を追うことだけが、このとき真教に残された行為だった。
ところが、山を登ってくる者があった。丹生山を下った先にある淡河(おうご)の領主であった。淡河の「淡(タン)」は「丹(タン)」と同源である可能性が高く、淡河とは「丹生の川」を指す名称だったのではないかと私は考えている。和泉国の南端に淡輪(たんのわ)という地名があるが、『信長公記』で「丹和」と記されている。中央構造線上にあるこの場所からは「丹の和歌山」という意味が浮き上がる。また、中央構造線に近い淡路島の「淡」も同系統と見てよいと思っている。そして、淡路島にも直接的に「丹」の名が付く地名が存在している。いずれも私の独自調査に基づく推測なので何とも言えないが、丹生山から淡河へ続く一帯が、古くから「丹生=辰砂=水銀」をめぐる信仰と産業が重層していた土地であることは間違いない。百済の王子伝説があるとおり、「鍛冶と片目の神」で述べた渡来人たちが開いた土地でもあったのだ。
その淡河の領主の女房は、一遍から念仏札を受けた最後の人物の一人であった。一遍の死後、夫である淡河の領主が丹生山に念仏札を求めて分け入ってきたのだ。真教は、自分は師の後を追って死ぬ身であり、念仏札を渡す立場にない、と断った。しかし領主は、
「故上人の滅後、その御志を継ぎて、衆生を利益せらるることこそ、真実の供養にて侍るべきに、かやうに縁をむすび奉るべきものの侍る上は、只給はらむ」(『遊行上人縁起』より)
つまり、
「亡き一遍上人がお亡くなりになった後、そのお志を継いで人々を救い導くことこそが、真の供養というものではございませんか。このように縁を結ばせていただく運命にありました以上は、どうか、ただ念仏のお札を私に授けてください」
と言って、引き下がらなかった。真教はやむなく、一遍から受けた念仏札をその領主に渡した。
この出来事が、真教を変えた。念仏札を渡したからには、後を追って死ぬことに意味はない。札を渡した以上、自分は念仏を伝える側に立ってしまった。死の決意が、一枚の札によって覆された。
真教が山を下りたことが、結果として時衆の教団化の出発点になった。一遍の念仏は一人の武士の願いによって命脈を保ったのだ。丹の山に上った行者と丹の川の領主。古代から続く地下水脈的な朱の構造が、まるで二人を結びつけたかのようだ。
修験と念仏の交差点——高野聖・白山信仰・鉱山の道
真教は一遍と出会う前、どのような人物だったのか。
生年は嘉禎3年(1237年)。一遍より2歳年長である。出自は豊後とも京都とも伝わり、確定していない。浄土宗鎮西派の流れを汲んでいたとする説もあるが、出口治男は修験道の行者であった可能性が高いと指摘している。建治3年(1277年)、九州を遊行中の一遍に出会い入門し、以後12年間、一遍の最側近として随逐し、調声役——念仏の音頭取り——を務めた。
真教が修験の出身であったとすれば、彼が念仏に向かったことは、個人の回心としてだけではなく、修験と念仏が交差する当時の宗教環境の中に位置づけることができる。
五来重が描いた高野聖の実態は、この交差を端的に示している。高野山もまた真言の山である。そこから出た聖たちが、念仏を配って歩いた。高野聖の多くは修験道的性格を持ち、水脈や鉱脈を卜占する力を持っていたと伝えられる。高野聖が開発したと伝えられる鉱山は各地にある。同時に、彼らは一遍が始めた念仏札の配布を盛んに真似し、念仏札を配りながら勧進して歩いた。南北朝から室町期にかけて高野山の時宗化が進行し、密教側も浄土信仰を拒否すれば勧進が成立しないため、これを黙認せざるをえなかったというのは、先の節で述べたとおりだ。聖は密教を信仰する立場でありながら、同時に念仏聖であり、修験者であり鉱山経営者でもあった。これらは矛盾する役割ではなく、山を歩き、民衆と接触し、呪術的サービスを提供するという一連の行為の中で混じり合っていた。一遍も聖であれば、真教も聖であった。
つまり、修験道と念仏の習合は不思議なことではなかった。修験者はすでに山を歩き、民衆と接触し、密教的・呪術的なサービスを提供する存在であり、そこに念仏が流れ込む水路はとうに開かれていた。
北陸の道を歩く——越前・加賀・越後への布教と平泉寺の迫害
丹生山を下りた翌年、正応3年(1290年)、真教は越前国府に入った。最初の遊行先として北陸を選んだのだ。
なぜ北陸だったのか。北陸には白山信仰圏という巨大な修験の土壌があった。白山信仰の聖は越前の平泉寺、美濃の長滝寺、加賀の白山本宮を本拠とし、祀神の菊理媛神は生と死の境界を仲介する巫女的な神とされた。死と浄土の境界領域に修験と念仏が共存する土壌が、この地にはすでにあった。加えて、修験道的山岳信仰と太子信仰を伴った原始的な浄土信仰も根を張っていた。修験者である真教にとって、北陸は未知の場所ではない。
越前国府で真教は府中総社に七日間参籠し、佐々生、瓜生などを遊行した。歳末には別時念仏会を厳修している。翌年には加賀国の今湊、藤塚、宮越を賦算した。
しかし、布教は順調には進まなかった。白山信仰の拠点であった平泉寺は僧兵を擁する一大勢力であり、真教の念仏は自分たちの信仰圏を侵食する脅威と映った。大橋俊雄はこの迫害について、逆に、真教の布教が順調であったことの証左だと指摘している。布教が振るわなければ、迫害する必要もないからだ。修験と念仏は浸透し合うこともあれば、こうして正面から衝突することもあった。

しかし真教は北陸を離れなかった。加賀から越後へ、さらに越前に戻り、布教を続けた。
正安3年(1301年)、敦賀で「砂持ち」が行われた。気比社参道に堆積した土砂を人力で運び出す土木作業である。遊行聖の呼びかけに応じ、僧俗・貴賎の別なく人々が集まり、念仏を唱えながら砂を運んだ。一遍の「信不信をえらばず、浄不浄をきらはず」という原則が、念仏の場だけでなく公共的な労働の場にまで拡張されている。踊り念仏が身体の実践であったように、砂持ちもまた身体の実践だった。ただし踊りが個の法悦に向かうのに対し、砂持ちは共同の事業に向かっている。身体の使い方が、個から集団へと移行している。
越前においては、坂井郡長崎に称念寺が創建された。正応年間に真教の教化を受けた「有徳人」の兄弟によるもので、これが越前における時衆の中心道場となっていく。また、近江の小野社からも招かれ、牛頭天王を奉する秦(羽田)の一族とも結縁している。小野社と秦氏——「鍛冶と片目の神」で追った渡来人と鍛冶のネットワークが、淡河の領主に続き、ここでも真教と接触しているのだ。
出口治男は、室町期以降に浄土真宗として広がっていく北陸の念仏信仰の土壌を総称して「古真宗」と呼んだ。親鸞の布教根拠地は関東であり、北陸ではなかった。にもかかわらず、のちに北陸が浄土真宗の最大の拠点となるのは、真教ら時衆による念仏の先行的浸透があったからだ。出口は、鎌倉期以降「遊行」によって広まった念仏が真宗弘通の基礎をなしている事実を見るべきだ、と記している。真教は未開の地に乗り込んだのではなく、念仏がすでに浸透しつつある土壌の上を歩き、同時にその土壌をさらに耕したのだ。
「残さない」から「残す」へ——一遍との決定的な違い
一遍は何も残さないことを選んだ。「一代の聖教みな尽きて南無阿弥陀仏になりはてぬ」——この言葉のとおり、著作を焼き、寺を建てず、弟子を取ることに消極的だった。
真教は逆の道を歩いた。一遍の言葉を記憶の中から再構成し、弟子の持阿に筆記させて『播州法語集』を成した。一遍が焼いた言葉を、真教は拾い上げて文字に戻したのだ。各地に念仏道場を建立し、「他阿弥陀仏」の法号を以後の遊行上人が名乗る制度を作った。これは単なる名前の継承ではない。遊行——列島を歩き続け、念仏を届ける——という行為そのものを、一人の人間の寿命を超えて持続させるための仕組みだった。
ただし、真教が教団の設計図を描いたという証拠はない。真教のもとで、結果として時衆は形を持ち始めた。一遍が蒔いた種を、真教の足が踏み固めたというほうが近い。
嘉元2年(1304年)、真教は相模原当麻の無量光寺に独住し、以後15年間、全国の道場を統率した。文保3年(1319年)、83歳で示寂している。
一遍の「捨てる」は生き方を通じた個の放棄であった。すべてを手放すことで、念仏が身体を通過する瞬間——踊り念仏の法悦——が生まれた。しかし一遍が死ねば、その瞬間は一遍とともに消える。真教の「残す」は、その瞬間を一遍個人から切り離し、集団の中に定着させる行為だった。
ただし、真教の「残す」は制度的なものではなく、遊行という移動のネットワークそのものだった。定住する本山に権力を集めるのではなく、歩き続ける道の上に念仏を載せた。道場は遊行者が立ち寄る結節点であり、それ自体が権力の中心になることは意図されていなかった。一遍が「捨てる」ことで個をあらゆる存在へと解放したとすれば、真教は「つなぐ」ことによって、時衆を持続する集団へと変えたのだ。
結び——踊る身体から、講の組織へ
真教が敷いた時衆のネットワークは、念仏の道を物理的に列島に張り巡らせた。越前、加賀、越後、相模——真教とその弟子たちが歩いた土地に、念仏の道場が点々と建っていった。
しかし、時衆はあくまで「踊る集団」であり続けた。遊行し、踊り、念仏を唱え、また歩く。その身体性こそが時衆の核であり、真教はそれを捨てなかった。一遍の踊り念仏を組織の上に載せることはできたが、踊りという身体的実践そのものを別の原理に置き換えることはしなかった。真教は踊りを残した。しかし、踊りだけでは共同体は維持できない。その限界を突破したのは、真教ではなかった。
出口治男は、もっと端的な言葉で「一向一揆が激化した土地は、真教の布教地と重なる」と記している。真教が北陸に蒔いた念仏の種は、二百年の時を経て、一向一揆という形で噴き出すことになる。しかしその間に、決定的な転換が一つ起こる。踊る身体から、座る場へ。遊行から定住へ。時衆的な身体性を「講」という組織原理に置き換え、定住型の共同体を築いた人物がいる。浄土真宗本願寺派の中興の祖、蓮如だ。
遊行から定住へ、身体から組織へ。その転換を、次の節で見ていく。
引用文献
書籍
栗原康『死してなお踊れ——一遍上人伝』(河出書房新社、2017年)
大橋俊雄『一遍聖』(講談社〈講談社学術文庫〉、2001年)
五来重『高野聖』(角川書店〈角川新書〉、1965年)
井上鋭夫『山の民・川の民——日本中世の生活と信仰』(平凡社〈平凡社選書〉、1981年)
出口治男『一向一揆余話』(方丈堂出版〈方丈叢書〉、2002年)
松田壽男『丹生の研究——歴史地理学から見た日本の水銀』(早稲田大学出版部、1970年)
一遍『一遍上人語録 付 播州法語集』(大橋俊雄校注、岩波書店〈岩波文庫〉、1985年)
史料
『遊行上人縁起絵』(宗俊本)
※扉絵は、臨終するため、丹生山に分け入る真教ら
(『遊行上人縁起絵』より)
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最後まで読んでいただいて、どうもありがとうございました。