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3-1 朱の大地


砕くと鮮やかな朱色の粉になる赤い石がある。辰砂(しんしゃ)、あるいは丹(に)と呼ばれる硫化水銀の結晶だ。
 この石は、縄文の昔から、ただの顔料ではなかった。土器の文様に塗り込められ、万葉集や風土記には「真朱(まそほ)」として登場し、古代中国では辰砂を加熱・変成させた丹薬が不老不死の霊薬とされた。顔料であり、薬であり、猛毒であり、死者の骨に施される呪物でもあった。朱とは、一つの物質が聖と俗、生と死の両義性をそのまま抱え込んだ、きわめて特異な存在だった。
 「信仰」は「心」だけで広がったのではない。物質があり、それを掘り運ぶ人がいて、その人たちの移動が道をつくり、道がネットワークになり、ネットワークが共同体の土壌になった。「信仰」はその土壌の上に成り立った。ここではまず、そのネットワークの出発点にある朱と水銀の話から始めたいと思う。

朱と水銀

松田壽男『古代の朱』によれば、辰砂の産地は青森から鹿児島まで365の地点に及ぶ。日本列島のほぼ全域だ。顔料としてだけ使うなら、これほどの産地は必要ない。朱がこれだけ広く、これだけ長く求められつづけたのは、それが単なる「色」ではなかったからだ。
 縄文期から弥生期にかけての埋葬遺跡では、遺骨に辰砂が付着した事例が複数報告されている。死者の身体に朱を施す行為は、死の穢れを封じる、あるいは生の側に引き留めようとする呪術だったと考えられている。朱は生者の世界でも死者の世界でも使われた。その両義性こそが、朱をただの鉱物から聖なる物質へと押し上げていた。
 辰砂を加熱すると液体の水銀が得られる。常温で液体になる唯一の金属だ。古代中国ではこれが不老不死の薬として珍重された。秦の始皇帝が不老不死に執着したことはよく知られているが、その始皇帝の命を受けて東方の海へ渡ったとされる徐福の伝説は全国に散らばる。なかでも紀伊半島には複数の着地の伝承地点がある。熊野の新宮には徐福の墓と伝えられる場所があり、周辺には徐福が薬草を探したという伝承が残る。紀伊半島は日本有数の辰砂の産地だ。不老不死の霊薬を求めた伝説の行き着く先が、水銀の産地と重なっているのだ。伝説の真偽はさておき、古代の人々が水銀と不老不死を強く結びつけていたことを、この地理的な符合はよく示している。
 真言密教においても水銀は丹薬——不老長寿の霊薬——の原料とされた。即身成仏を志す行者たちの修行はすさまじい。松田壽男によれば、まず五年間、五穀を断つ。次の五年間は十穀を断ち、木の実や野草だけで命をつなぐ。この過程で、修行地の土壌に含まれる水銀が野草などを通じて体内に蓄積されていったとも考えられている。弥勒菩薩が五十六億七千万年後にこの世に現れるとき、その聖業に立ち会うためなど、さまざまな宗教的動機のもと、自らの肉体を朽ちない形で留めおく。水銀はミイラの防腐剤としても機能した。十年の穀断ちを経た行者は、最後に土中の石室に入り、読経しながら絶命する。即身成仏とは、水銀という物質なしには成り立たない宗教的実践だった。
 密教や修験道の霊場の多くは朱の産地と重なっている。松田によれば、空海が高野山を信仰の一大拠点に選んだのも、大量の朱の埋蔵を知ってのことだという。

だいいち、空海が真言宗の本拠と定めた高野山は、全山が水銀地帯である。高野山の壇場、つまり中心地には丹生、高野の両明神の社がある。また空海の墓側にも、墓を護るかのように両明神が祀られている。高野明神は高野山の地主神であるが、丹生明神は後述のように水銀の女神にほかならない。私は高野山をいくどとなく調査してみた。壇場の土は水銀ヤケした赤色を呈している。附近のカッティングもまっ赤だ。ここから墓地にかけて0・002%くらいの水銀が含有されていることもわかった。この事実は、弘法大師が丹生明神を特別に尊重し、彼の墓側にまで祀りこんでいる理由を裏付けるであろう。

松田壽男『古代の朱』

 しかし水銀には猛毒としての顔もある。有機水銀は強い神経毒だ。無機水銀も、辰砂から蒸留する際に発生するガスが人体を蝕む。一方で、無機水銀には悪い細胞を殺して新陳代謝を促す作用も知られていた。癒しと破壊が同居している。水銀を日常的に扱うとは、その両義性のただなかに身を置くことだった。
 水銀の用途は呪術や宗教だけにとどまらない。伊勢国から産出された「伊勢白粉(いせおしろい)」は水銀を加工した軽粉(塩化水銀)を原料とする化粧料で、白い肌をつくるために広く用いられた。伊勢の射和(いざわ)や丹生の周辺は白粉の産地として知られ、近世に至るまでその生産がつづいた。朱の赤の色も、白粉の白の色も、どちらも同じ辰砂から生まれている。致死の毒といった「死との接吻」が、不老長寿、もしくは化粧という「生者の息遣い」と結びついている——水銀はあらゆる相反する用途を引き受けていた。

大仏の金と水銀

奈良の大仏は、建立当時、全身が金色に輝いていた。金アマルガム法による鍍金(めっき)だ。金を水銀に溶かして合金をつくり、銅の表面に塗り、加熱して水銀だけを蒸発させる。金の薄膜が残る。
 谷川健一『青銅の神の足跡』に引かれた記録によれば、この鍍金に使われた資材は錬金(こながね、金の粉末)10,436両、水銀58,620両、木炭16,650両。水銀が金のおよそ五倍半にのぼる。一両をおよそ42グラムとすれば、水銀だけで約2.3トンだ。そもそも大仏の本体は銅である。その銅もまた各地から集められた。たとえば摂津の猪名川町にあった多田鉱山は、大仏建立のための銅を産出したと伝えられている。金も水銀も銅も、一つの巨大な仏像のために列島の山々から掘り出された。
 これだけの量を一カ所から調達することはできない。列島各地の辰砂産地から集め、山道や川筋を伝って都へ運ぶ必要があった。大仏建立とは、信仰の事業であると同時に、全国規模の鉱物動員を伴う巨大な物流事業だった。
 平安時代には水銀が中国への重要な輸出品でもあった。それほどの産出量を誇った日本の水銀資源も、室町時代には枯渇に向かう。裏を返せば、古代から中世にかけての数百年間、列島の山々で辰砂は掘られつづけ、精錬されつづけ、運ばれつづけた。
 その作業を担ったのは誰か。中世において鉱山採掘は修験者や僧侶が経営に関わるところだった。鉱脈の在処を知り、人を集め、精錬の技術を持っていたのは、山中を行場とする宗教者たちだ。そして実際に坑道に入り、辰砂を掘り出し、それを都や港まで運んだのは、いわゆる「山の民・川の民」と呼ばれるような非農耕民だった。
 ここには一つの構造がある。奈良時代の大仏建立時にはまだこうした構造は成熟していなかったが、中世になると大規模な寺社建立や仏像の造営において、勧進僧は資金を集め、事業を統括するコントラクター(元請け)の役割を果たした。彼らは国家から公共事業を請け負うディベロッパーでもあるのだ。その下には鉱物を掘り出す山の衆、それを運ぶ川の衆、木を伐り炭を焼く杣人(そまびと)たち、いわば請負の職能集団がいた。「聖」の領域に属する事業発注者と、それを物質的に支える非農耕民のあいだに、宗教と労働が分かちがたく結びついた関係が成り立っていた。

丹生——地名に刻まれた鉱脈

水銀の産地を示す地名がある。「丹生(にゅう・にう・たんじょう)」——丹が生まれる土地、の意だ。「新田」という地名の一部は「丹生田(にゅうた)」が訛ったものだとされる。丹生の名を冠する神社や集落は、中央構造線の上に、紀伊半島から大和盆地、そして伊勢の周辺に集中している。奈良の大仏に水銀を供給したと思われる地域が、そのまま地名として刻まれている。
 ただし、丹生の地名は中央構造線上だけにあるわけではない。たとえば神戸市北区の丹生山には丹生山明要寺があり、欽明天皇の頃、百済の聖明王の王子恵が明石川を遡ってこの地に至り、寺を建てたと伝えられている。恵王子は聖明王の第二王子だ。聖明王は仏教公伝で知られる百済の王だが、554年、新羅との管山城の戦いで戦死している。恵王子の来日は、父の戦死を同盟国である大和朝廷に報告し、救援を求めるという軍事外交上の使命を帯びていた。帰国の道が絶たれたのか、あるいは別の事情があったのか、王子はその地にとどまり、開墾、治水、鍛冶、織物などを普及させたという。丹生の地名が、辰砂の産出だけでなく、渡来人による技術の伝播拠点でもあったことを示す例だ。
 この丹生山には、もう一つの逸話がある。一遍の弟子であり時宗の基礎を築いた他阿弥陀仏真教は、兵庫で一遍を看取った後、師の後を追って念仏のうちに臨終を迎えるために、真言系の修験霊場であるこの丹生山に上ったという。
 水銀の山が、渡来人の技術拠点であり、修験の霊場であり、念仏者が死に場所に選ぶ土地でもあった。朱の産地には、時代を超えて人が吸い寄せられている。徐福伝説が根を下ろした紀伊半島の南端、白粉を産出した伊勢の射和、大仏に水銀を送った大和周辺——丹生の地名をたどると、水銀という一つの物質が古代から中世にかけて列島のなかでどう動いていたか、その流通の輪郭が浮かび上がってくる。

戸籍の外の人々

朱は、掘り出され、精錬され、運ばれ、塗られ、輸出された。そのすべての工程に、土地に縛られない人々が関わっていた。彼らは農民ではなく、武士でもなく、既存の秩序のなかに収まらない存在だった。
 そして、こうした人々の規模は想像以上に大きい。平安時代の記録になるが、延喜年間、三善清行は朝廷への上奏文で「天下人民。三分之二。皆是禿首者也」と、天下の民の三分の二は禿首の者、つまり、出家を装った者だと述べている。出家すれば戸籍を外れ、在家の公民ではなくなる。延喜二年の阿波国の戸籍では、550人中、男性はわずか67人しか記載がなく、残りはすべて女性として届けられていた。朱を掘った者だけではない。鉄を鍛えた者、炭を焼いた者、川で荷を運んだ者、山で木を伐った者——戸籍の外側に、膨大な数の非農耕民がいた。
 その人々が、やがてどのような神を仰ぎ、どのような共同体をつくっていくのか。次の節では、土の中から金属を取り出す者たちが信仰した鍛冶の神——片方の目を失った神——の話をする。


参考文献

  • 松田壽男『古代の朱』

  • 谷川健一『青銅の神の足跡』

  • 井上鋭夫『山の民・川の民——日本中世の生活と信仰』

  • 段煕麟『兵庫の中の古代朝鮮』

  • 出口治男『一向一揆余話』

  • 喜田貞吉『差別の根源を考える』

 


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小林範之 最後まで読んでいただいて、どうもありがとうございました。