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フロイスの沈黙──宣教師たちが見た法華宗・一向宗


「朱の大地」から始まった一向一揆についての論考だが、本格的に一揆の組織体のことを書く前に、一息小休止を挟んで、別の視点からの考察を差し込んでみたい。
 このあと、浄土真宗本願寺派ないしは一向一揆と、京都や堺の町衆を中心に組織された法華一揆との対立を書くつもりだが、これら二つの組織編制や対立構造は、現代人の目には非常に掴みづらい。加えて、法華一揆は一向一揆に比べて知名度が低いだけでなく、史料も少なく、先に実像を浮かび上がらせておきたかった、というのが正直なところだ。
 そこで試みたのが、法華宗と一向宗のいずれをも不俱戴天の敵と位置付ける当時の宣教師たちの視点を借りることだった。ただし、一点だけ注意を要する。彼らの記述は、けっして中立でも客観でもない。最大の理解者にして守護者であった織田信長と法華宗との「蜜月」は彼らにとって常に念頭に置いておくべき「課題」であった。その構造的で政治的なジレンマを念頭に置きながら、読み進めていただきたい。

宣教師たちが見た宗教都市・堺と京都の商人

天文十八年(一五四九年)にフランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸してから、イエズス会の宣教師たちは一六世紀の日本を精力的に記録し続けた。その筆が特に克明に動いたのが、堺と京都という二つの都市だった。
 ガスパル・ヴィレラは一五六一年八月の書簡で、堺を「イタリアのヴェネツィアのごとし」と形容した。自治的な商人共和国という印象は、ヨーロッパ人の目にはむしろ親しみやすく映ったはずである。しかし彼はその同じ書簡のなかで、堺の商人たちを「悪習に耽り、傲慢で、神の恩寵に値しない」と手厳しく批判している。これは矛盾ではない。商人たちが仏教や神道に精神的に依拠しながらも、宗教をきわめて実利的に運用していた実態への、苛立ちである。
 堺商人の代表格として名の挙がる日比屋了珪は、自らの屋敷を宣教師の宿所として提供した人物だ。彼は法華宗を背景とする堺商人でありながら、南蛮貿易の実益を見越してキリスト教の布教を支援した。ヴィレラが「恩寵に値しない」と感じた理由の一端は、こうした宗教的プラグマティズムにある。信仰は選択肢であり、商機と秤にかけられるものだったのだ。
 ルイス・フロイスが『日本史』のなかで繰り返し描いた京都の宗教風景も、同様の構造を持っている。町衆は複数の宗派に同時に帰依し、形式的な儀礼と私的な信仰を器用に使い分けていた。フロイスはそこに「世俗化」を見たが、実態はむしろ宗教の多層的な活用であり、その複雑さこそが宣教師を最も苦しめる壁となった。
 さらに、ジョアン・ロドリゲスは『日本教会史』のなかで堺の茶の湯を「禅的精神性と商業倫理を融合した準宗教的実践」と評している。茶室の清浄な空間とキリスト教的な聖域の感覚が、彼の目には重なって見えたのだろう。宣教師たちは、日本の商人文化に潜む宗教性の深さに、戸惑いながらも魅せられていた。

最大の敵──法華宗(日蓮宗)への眼差し

宣教師たちが「最も罪深い宗派」と断言したのが、法華宗(日蓮宗)であった。フロイスは『日本史』第一部第六六章でこう書いている。「法華宗の僧侶たちは、他のあらゆる宗派のうちもっとも罪深い連中である」。これは感情的な悪口ではなく、布教の最前線で叩きつけられた現実の裏返しだった。
 天文五年(一五三六年)の天文法華の乱は、延暦寺の山法師と一向宗の連合軍によって京都の法華宗寺院が焼き払われた事件であり、法華宗の教団組織は一時的に壊滅的打撃を受けた。しかし彼らはその後、堺へと根を下ろし、商人層との結びつきをいっそう強固なものにしていった。堺の有力商人の多くが法華宗の檀家であり、宣教師が布教しようとした相手は、ほぼそのまま法華宗の信者層と重なっていたのである。
 永禄八年(一五六五年)、将軍足利義輝が三好勢に暗殺されると、事態は宣教師にとって急転直下となった。
 松永久秀が実権を握るなか、京都の法華宗教団は朝廷に働きかけてバテレン追放令を獲得する。『言継卿記』の永禄八年七月五日条には「今日左京大夫、禁裏女房奉書申出、大うす逐払之云々」とある。「大うす」とはデウスのことであり、これは宣教師追放令を意味した。
 フロイスが松永久秀を永禄の変の首謀者として強調したのは、久秀が法華宗寺院・本圀寺の大檀越だったからだと指摘されている。日本史研究者の呉座勇一氏はこの点を的確に整理しており、フロイスの情報源が久秀に仕えていたキリシタンの結城山城守であったことから、久秀の権力が実態以上に巨大なものとして宣教師に印象づけられた可能性を示唆している。観察者の情報源が持つバイアスを、フロイスの記述はそのまま内包してしまっているのだ。
 永禄十二年(一五六九年)二月、信長は足利義昭のために二条城を築く普請を開始した。二万五千人を動員した突貫工事であり、石材が不足するや信長は都の寺院の石造仏像に縄をかけて引き倒し、工事現場へ運び込ませた。フロイスはこれを「都の人々に驚嘆と恐怖をもたらした」と記している。法華宗寺院・本圀寺の建物もまた解体されて城の資材へと転用された。フロイスはこの顛末を「かの傲慢にして悪魔的な寺院の幸いな結末」と喜んで書き記している。
 その普請現場の堀橋の上で、信長とフロイスは初めて直接対面した。周囲には「六、七千人」の人夫や家臣が働き、多数の僧侶たちが少し離れたところから非常に注意深く二人の会話に耳を傾けていたという。信長はフロイスに、出身地・年齢・来日の経緯などを尋ねたのち、核心に触れる問いを発した。「もしデウスの教えが当国に広まらなかったら、国に帰るのか」と。フロイスは答えた。「たとえ一人しかキリシタンがいなくとも、その人のために、いずれかの司祭が生涯ここに留まるであろう」と。信長はこの答えに満足すると、自ら仏僧批判を語り始めた。フロイスの書簡にはこうある。「国主(信長)は、仏僧らの恥ずべき生活といとも悪しき習慣について詳しく説き、仏僧らは金銭を奪い肉体を歓ばせること以外に求めていないと言った」。信長の声は、耳をそばだてていた僧侶たちのもとにも届いていたはずである。むしろ、信長は聞こえるように言った。宣教師の無欲と仏僧の堕落を対比して語るこの場面は、フロイスにとって信長がいかに「我々の側にいるか」を示す証拠として、書簡にくっきりと刻み込まれた。信長はその後、フロイスに都での滞在と布教を許可する朱印状を与えた。なお、この普請現場に立ち会っていた僧侶たちの宗派を明示する史料は現時点では確認されていないが、本圀寺が法華宗寺院であり、その建物が解体されてこの城の資材に転用されたという文脈を踏まえると、寺院を破壊され、恨めしそうにその場を見守る法華宗の僧侶であった可能性が高い。フロイスの勝ち誇った様子が、文章からも伝わってくる。
 永禄十二年(一五六九年)四月、フロイスと日本人修道士ロレンソ了斎は信長の面前で、宣教師追放を訴え続けてきた日蓮宗の僧・朝山日乗と論争に臨んだ。二時間に及ぶ問答の末、追い詰められた日乗は議論を捨て、部屋の隅に立てかけてあった信長の長刀へと突進し、鞘を外そうとした。信長は立ち上がって日乗を後ろから取り押さえ、和田惟政らが駆けつけてその手から長刀を取り上げた。信長は座り直し、「己の面前でそのようなことをするのは甚だ無礼だ」と日乗を叱責した。宣教師たちはこの一幕を、信長が自分たちの側にいることを証明するエピソードとして喜んで書き記した。
 そして天正七年(一五七九年)、信長と法華宗の間で大きな事件が起こった。
 安土宗論である。信長が設定した法華宗対浄土宗の宗論において、法華宗側は敗北を宣告され、僧侶たちは「他宗を誹謗しない」という誓約書への署名を強いられた。宗論の記録を偽造しようとした僧・普伝のほか、宗論を目論んだ建部紹智、大脇伝介らも処刑された。フロイスはこの顛末を詳細に書き留め、そのトーンは明らかに法華宗の敗北を祝うものだった。宣教師たちにとって、安土宗論は神意の証だったのである。

「ルターと一向宗は同じ」──一向宗への複雑な眼差し

法華宗が宣教師にとっての「最大の敵」であったとすれば、一向宗(浄土真宗)は「最も不思議な鏡」だった。
 最初にこの奇妙な類似に気づいたのはフランシスコ・カブラルである。彼はイエズス会本部への報告書のなかで「ルターと一向宗は同じだ」と書いた。「信仰のみによって救われる」という一向宗の教義が、宗教改革がヨーロッパを揺るがしていたまさにその時代に、遠く日本の東国や北陸で数百万人の民衆に根づいていた。これは宣教師たちにとって、単なる驚きを超えた神学的難問だった。
 一向宗とキリスト教の教義上の類似性は、宣教師に二重の意味で頭を抱えさせた。まず、すでに「信仰のみによる救済」を説く宗教が存在するなかで、キリスト教は何が違うのかを説明しなければならなかった。宣教師たちが整理した答えはおおよそ三点に集約される。阿弥陀は創造神ではないこと、一向宗には霊魂の不滅という概念が明確でないこと、そして浄土は天国とは異なること、の三つである。
 しかし興味深いことに、宣教師たちは一向宗の門徒が他宗派の信者に比べてキリスト教に改宗しやすいという傾向も記録している。「信仰のみ」という構造がすでに内面化されているため、阿弥陀仏をデウスに置き換えることへの抵抗が相対的に小さかった可能性がある。教義の類似が布教の障壁でもあり、同時に入口でもあるという逆説を、彼らは現場で体感していたのだ。
一方、一向宗の政治的力量は、宣教師たちを別の意味で震えあがらせた。石山本願寺を拠点とする顕如率いる門徒集団は、信長と10年にわたって戦い続けた。フロイスはその激しさを『日本史』に記録しており、念仏を唱えながら鉄砲をものともせず突進してくる門徒たちを「戦いの常識が通用しない相手」として描いている。
 信長が一向一揆を激しく弾圧したことは、布教の障害を取り除く力として、宣教師の目には好意的に映った。長島一向一揆では約二万人が殺された。フロイスの筆がこうした信長の行動を「プロビデンス(神意)」として解釈しがちだったことは、否定できない。

「信長は無神論者だった」──フロイスが構築した物語の政治学

ここで、いよいよ本稿の核心に触れなければならない。
 宣教師たちは信長を深く愛した、という言い方が許されるなら、フロイスはその最たる者だった。背が高く、顎鬚が少なく、声が高く、合理的判断に長けた天下人。フロイスが描いた信長像は、現代の私たちが信長について持つイメージの多くを形づくった。しかしその像は、はたして客観的な観察の産物だったのか。
 フロイスは『日本史』第一部のなかでこう書いている。「彼(信長)は善き理性と明晰な判断力を有し、神および仏のいっさいの礼拝、尊崇、ならびにあらゆる異教的占卜や迷信的慣習の軽蔑者であった。形だけは当初法華宗に属しているような態度を示したが、顕位に就いて後は尊大にすべての偶像を見下げ、若干の点、禅宗の見解に従い、霊魂の不滅、来世の賞罰などはないと見なした」。
 この一節を読むとき、二つのことを同時に考えなければならない。
一つは、信長と法華宗の関係が実際に「形だけ」だったのかという問題だ。信長の軍旗には「南無妙法蓮華経」が掲げられていた。彼の菩提寺は臨済宗妙心寺派の総見寺だったが、本能寺の変の舞台となった本能寺は法華宗本門流の寺院であり、織田家と法華宗の縁は儀礼的慣行をはるかに超えた深さを持っていた。信長が本当に「形だけ」の関係だったとするなら、なぜ彼はその法華宗の寺院に繰り返し滞在したのか。
 もう一つは、フロイスがなぜこのような記述を選んだかという問題だ。呉座勇一氏が指摘するように、来日した宣教師は本国のイエズス会に対し、信長がキリスト教に好意的であり、かつ日本の既存宗教に否定的であると報告し、日本での布教に大きな期待が持てるとアピールする必要があった。これは、布教という仕事の構造が必然的に生む歪みだった。
 つまり、「信長は無神論者だった」という物語は、フロイスが積極的に構築した布教報告のための枠組みだった可能性が高い。信長の法華宗との「蜜月」は、フロイスの筆によって「表向きの政治的慣行に過ぎない」と処理された。「内面的には無神論者」と描くことで、不都合な事実を叙述の外へと押し出した可能性がある。

ジレンマはあったか、なかったか

では、宣教師たちは信長と法華宗の蜜月関係に対して、ジレンマを感じていたのか。結論から言えば、「ジレンマはあったが、積極的に解消された」というのが最も正確な答えだろう。
 フロイスの構築した「信長=反仏教の合理主義者」という像は、ジレンマを認識論的な次元で無効化するための装置だった。フロイスはその著書『日本史』のなかで信長を「善き理性と明晰な判断力を有し、神および仏のいっさいの礼拝、尊崇、ならびにあらゆる異教的占卜や迷信的慣習の軽蔑者」と記している。そして続けて、信長の法華宗との関係を「形だけは当初法華宗に属しているような態度を示したが」と規定することで、「なぜ我々の庇護者は最大の敵と蜜月にあるのか」という問いへの答えを、宣教師たちは自ら封じた。
 ただし、この「信長像」には宣教師のバイアスがかかっていることを見落としてはならない。フロイスら宣教師の信長評は客観中立なものではなく、日本での布教への大きな期待をイエズス会本国にアピールする意図を含んでいた。「信長=反仏教の合理主義者」という像は、宣教師自身の欲望が投影された構築物でもあったのだ。
 さらに言えば、天正七年(一五七九年)の安土宗論は、このジレンマを事実の次元でも解消した。信長は法華宗を公開の場で打ち負かし、恥辱を与えた。蜜月はここで明確な対立へと転じ、宣教師たちは喜んでこれを記録した。
 しかし歴史の皮肉は、信長との関係が終わったかに見えた瞬間に訪れる。天正十年(一五八二年)六月二日(新暦六月二十一日)、本能寺の変。本能寺は法華宗本門流の寺院だった。宣教師から見て「形だけ」だったはずの関係性の舞台で、信長は最期を迎えたのである。
 フロイスはこの事件を詳細に書き留めた。しかし彼はほとんど論評していない。本能寺の変後ですら、フロイスは信長を「極めて稀な優秀さ、大いなる賢明さをもった統治者であったことは否定できない」と記してはいる。しかしそれは冷静な評伝の筆致であり、この死の意味を神学的・宗教的文脈から語ることへの躊躇いが、その筆致の背後に透けて見える。
 この沈黙について、私はふたつの次元から考える。
 ひとつは、物語の崩壊という次元である。フロイスたちが積み上げてきた「信長=反仏教の理性人」というストーリーは、本能寺の変によって根底から揺らいだ。もしそのストーリーが虚構であったとしたら、彼らはその虚構をヨーロッパの本部に報告し続けてきたことになる。書けば自らの語りの綻びを認めることになる。その自信の揺らぎと、それを悟られまいとする沈黙——これがフロイスの筆を止めた一因であったかもしれない。
 もうひとつは、神学的枠組みの喪失という次元である。こちらはより深く、より根本的な問いである。
 宣教師たちの眼には、法華宗という存在はどのように映っていたか。堺や京都の商人たちが法華宗を「実利的に運用」して権力に取り入る姿を、フロイスは「悪習に耽り、傲慢で、神の恩寵に値しない」と評した。法華宗の僧は「あらゆる宗派のうちもっとも罪深い連中」であり、宗派そのものもまた「最も罪深い宗派」であった。寺院も、僧侶も、それらを奉ずる人々も、すべて金と権力のために成り立っている——宣教師たちの苛烈な倫理観を通して見れば、それらはまるで忌避すべき腐敗として映っていた。
 だとすれば、本能寺の変がもたらした衝撃は、単なる庇護者の喪失ではなかった。フロイスが「善き理性と明晰な判断力を有し、神および仏のいっさいの礼拝・尊崇ならびにあらゆる異教的占卜や迷信的慣習の軽蔑者」と描いた信長が、まさに法華宗という「腐敗の只中」で息絶えた。彼が形式的にすぎないと規定していたはずの法華宗の寺院が、最期の舞台となったのである。

なぜ、あの信長が、よりによって、そこで死んだのか。

 この問いは、宣教師たちが積み上げてきた「日本理解」の枠組みそのものを打ち砕く問いであった。合理主義者として描いた人物が、彼ら自身が「非合理の象徴」と断じていた場所で滅びた。
 この問いに対し、フロイスは神学的な解釈を与えることができなかった。洗礼を受けずに死んだ「善き理性の持ち主」を、カトリックの救済論はいかに扱うべきか。信長は「神を知らなかった」にもかかわらず「善き理性と明晰な判断力を有する」者として称えられてきた。その人物が洗礼なきまま、しかも法華宗の寺院という最も象徴的な場で命を落とした。フロイスはこの死を「摂理」とも書かず、「神の審判」とも書かなかった。書けなかった、というより——書くための枠組みを、彼は持ち合わせていなかったのかもしれない。
 フロイスは書かなかった。書けなかったのか、書かなかったのか。

【主要出典・参考文献】

一次史料

  • ルイス・フロイス『日本史』
    本文中の引用箇所は以下の通り
    —信長の宗教観に関する記述:第1部
    —松永久秀と法華宗に関する記述:第1部第54章、第1部第66章
    —安土宗論に関する記述:第3部第51章
    —信長の人物描写(「形だけは当初法華宗に……」):第1部

  • ルイス・フロイス書簡(1565年6月1日付、 フロイスよりベルショール・デ・フィゲイレド宛) — 収録:松田毅一 監訳『十六・七世紀 イエズス会日本報告集 第Ⅲ期 第三巻』
    —信長との初対面(二条城普請現場・堀橋上)の場面、 仏僧批判の発言、朱印状授与の経緯を含む

  • ガスパル・ヴィレラ書簡(1561年8月17日付)  — 出典:『耶蘇会士日本通信』

  • 『言継卿記』永禄八年(1565年)七月五日条

  • 『お湯殿の上の日記』永禄八年七月五日条

二次文献・研究

  • 呉座勇一「ルイス・フロイス『日本史』を読みなおす⑦」
    — 松永久秀と法華宗の関係、フロイスの情報源(結城山城守)に関する考察

  • 呉座勇一「ルイス・フロイス『日本史』を読みなおす⑧」
    — 信長の「無神論者」像とフロイスの叙述バイアスに関する分析

  • 神田千里「ルイス・フロイスの描く織田信長像について」
    — 信長と法華宗の関係に関する史料批判

  • 天野忠幸「大阪湾の港湾都市と三好政権──法華宗を媒介に」

 ※扉絵は『南蛮屏風』。荒木村重の家臣・池永重元の息子と言われる狩野内膳の筆によるもの。

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小林範之 最後まで読んでいただいて、どうもありがとうございました。