50歳で人生は終わると思っていた ─新卒の手帳に書いた目標が、気づけば全部叶っていた話
子供のころから、私は「自分は50歳で人生が終わる」と本気で思っていました。
その50歳に、明日なります。
それにしても、50歳。20代のころには遠い未来だと思っていた年齢に、こうもあっさり到達してしまうとは、いまでも少し信じられません。気づけば、新卒で社会に出てから25年が経ち、人生の折り返しと言われる年齢を迎えています。年を重ねるほど時間が早く感じるとはよく言いますが、本当にあっという間でした。
そして、新卒のときに手帳に書いた目標は、気づけばすべて達成していました。せっかくですので、軽く振り返ってみたいと思います。
「50歳で人生が終わる」と思っていた子供時代
はっきりしたきっかけは覚えていないんですが、子供のころから「自分は50歳くらいで人生を終えるだろう」という、不確定なくせに確信めいた人生観を持っていました。
当時、町中で見かける50代って、今と違って杖をついたお年寄りといった風情の人が多かったように思います。世の中的にも定年は55歳だった時代です。私が小学校に上がるかどうかの頃に、努力義務として60歳に引き上げられたのを覚えています。そういう景色の中で育った影響は、きっとあったんだと思います。
ともかく「50歳で人生が終わる」と思い込んでいたので、自分のライフプランも、行動も、それを前提に組まれていました。今振り返ると、この思い込みに少し縛られていたとも言えるし、逆に、有限を強く意識できたことが行動を駆動してくれたとも言えます。締切のないプロジェクトが進まないのと同じで、人生にも締切があったほうが、私の場合は動けたのかもしれません。
人生に「終わりが見えている」と思って生きるのは、悪くない。残された時間を真剣に使おうと考えるようになるから。
情報処理技術者になると決めた日
幼稚園くらいからゲームやマイコンに興味があって、小学生低学年の頃には「情報処理技術者になる」と決めていました。
運がよかったのは、早めにパソコン(当時はマイコンと呼ばれていました)やパソコン通信に触れられたこと、そしてDTMブームに傾倒できたこと。アーケードゲームも好きだったし、家庭用ゲーム機もFC以前から変遷を体感できました。雑誌のリストを延々と打ち込んだり、パソコン通信で見知らぬ大人たちと議論したり。今振り返ると、まだインターネットもなかった時代に、テクノロジーが日々の生活と一緒に進化していく様子をリアルタイムで体感できた世代だったのかなと思います。すべてが「情報処理技術者になる」という意思を強くする方向に効いていたように思います。
学生時代はかなりアウトローに生きたし、サブカル方面にも寄り道はたくさんしました。それでも軸がブレなかったのは、子供のころに自分で決めた「なる!」という意識の強さだったんだと思います。頑固というか、なんというか、自分でも呆れますね。
新卒の手帳に書いた、5つの人生目標リスト
そうこうして2002年、新卒で日立グループに入社しました。「情報処理技術者になる」という子供のころの目標は達成してしまったので、じゃあ残りの約25年をどう生きるか、ということになります。
当時の人生観はこうでした。
50歳で人生は終わる
たぶん結婚はしないだろう、子供もいないだろう
でも、人生を終えるときに、にっこり笑って逝きたい
これをベースに、50歳までに達成したいことを手帳に書き出しました。今でも残っているその手帳を見返すと、こう書いてあります(いわゆるバケットリスト、人生でやりきりたいことのリストですね)。
とにもかくにもエンジニア人生を走り切る
自分で技術を生み出して、技術書を1冊書く
エンジニアとして、大きなイベントで基調講演をする
最初の会社にこだわらず、いつかは独立して、業界全体に貢献する
みずからコミュニティを作り、弟子と言える人を5人作る
そして、言霊ってあるものだなと思うんですが、結果として全部達成できてしまいました。
これらをひとつずつ簡単に振り返って見ようと思います。
① エンジニア人生を走り切る
最初にお世話になった日立グループには、情報通信から医用、オートモーティブと主要ドメインを変えながら18年ほど在籍しました。1人プロジェクトの小規模案件からインフラグレードの大規模案件まで経験させてもらえて、本当にありがたかったです。
入社時は設計者(開発者)として組込みの世界にいたんですが、3年目に「もっと顧客に近いフェーズで仕事がしたい」と思って、自分から異動を志願してテストの世界に飛び込みました。当時は「テストエンジニア」という言葉すら社内にほとんどなかった頃です。テストは設計の付録のように扱われがちで、専門職として認知されているとは言いがたい状況でした。それでも、開発したものが本当に価値を届けられるかどうかは、最終的にはテストの場面で試される。だったら、そこに腰を据えるのも面白いかもしれない、くらいの感覚で動いた気がします。当時はそんなに大きな決断のつもりじゃなかったんですが、今思えば、人生の大きな分岐点でした。
日立グループを卒業してからは、ビズリーチ、マネーフォワードと、SaaSの世界をスタートアップ・ベンチャーで経験させてもらいました。
いちエンジニアから経営ボードまで、縦も横も、ひととおり体感させてもらいました。技術ドメインも幅広く触れさせてもらえました。ご縁にも恵まれ、本当にラッキーだったと思います。
当然、大変なこともたくさんあって、心が折れたことも何度もあります。それでも周りに支えられ、結果として骨太になれた気がしますね。独立した今でも、ありがたいことに現役のエンジニアとして動けています。
自分から動いた瞬間が、後から振り返ると人生の分岐点になっています。
② 自分で技術を生み出して、技術書を1冊書く
これは「たぶん子供はいないだろう」という人生観がスタートでした。子供は残せないけれど、生きた証を何か残したい。エンジニアなのだから、技術書だろう、と。
もともと文章を書くのは好きでした。学生のころは日記サイトやニュースサイトを運営していて、毎日ネタを探して文章を書く癖がついていたので、その延長で、自費出版でもいいから何か書こうと思っていました。
結果として、共著・共訳という形で何冊かに自分の名前を残させてもらえました。最初に書いたのは、共著の『マインドマップから始めるソフトウェアテスト』(技術評論社、2007年)。趣味で使っていたマインドマップをテスト設計に応用するという、当時としては少し変わったアプローチをまとめた本でした。ありがたいことに評判をいただき、12年ぶりの改訂となる『[改訂新版]マインドマップから始めるソフトウェアテスト』(同、2019年)まで続けさせてもらえました。
そのほかにも、ソフトウェア品質や工学の分野で、共著・共訳の機会をいくつかいただいています。『SQuBOK Guide』には初版から策定部会のメンバーとして関わらせてもらっていますし、『実践ソフトウェアエンジニアリング 第9版』では翻訳プロジェクトに加えていただきました。どれも一人では絶対に成し得なかったもので、共著者・共訳者の皆さんに引っ張ってもらいながらの仕事でした。
書くという作業は、想像していた以上に苦しいものでもありました。自分の頭の中にある曖昧な理解を、他人にも伝わる言葉まで詰めていく作業は、ときに数日寝ても答えが出ないこともあります。それでも、書き終わったあとには「これでひとつ、後ろの誰かが立ち上がるための踏み台ができたかな」と思える実感がありました。
エンジニアの皆さんに広く読んでいただけているのは、本当にありがたいです。これもラッキーだったなと思います。
生きた証は、自分で書かないと残らないのです。
③ 大きなイベントで基調講演をする
これも、幸運なことに達成できてしまいました。
きっかけは、個人で趣味的に使っていた「マインドマップ」を、ソフトウェアテストの設計手法として面白がってくれた人たちがいたことでした。テスト設計の思考過程を可視化する道具として注目されて、気づけば「マインドマップとテスト設計の人」と呼ばれるようになっていました。
技術書を書いたこと、コミュニティに参加していたこと。そのふたつもきっかけになって、JaSST(ソフトウェアテストシンポジウム)の各地区を中心に、全国のソフトウェアテストの集まりで登壇させていただく機会に恵まれました。最初の発表となったJaSST'06 Osakaから始まって、気づけば北から南まで全国を回らせてもらっていました。海外でも、2007年にソウル、2008年に天津で英語講演させていただく経験までいただきました。そのうちのいくつかは基調講演や招待講演という大きな役回りでお声がけをいただいて、新卒のころにはとても想像できなかった経験をさせてもらいました。
特に印象に残っているのは、出身地の長崎で開催されたJaSST'18 Kyushu、それから2024年のJaSST'24 Kyushuの基調講演です。地元で講演させていただくのは、やっぱり格別でしたね。
講演というのは良いものでして、都度、その時点での自分や技術を整理して振り返るきっかけになります。誰かに話すために考えを整理し、質問を受けて自分の理解の穴に気づく。その繰り返しで、自分の技術観もキャリア観もアップデートされてきた気がします。ベースラインを引きながら人生を送れる、と言ったらいいでしょうか。これがあったから迷わずに来られた、という側面もあります。
好きで使っていた道具が、いつのまにか自分のラベルになっていた。
④ 独立して、業界全体に貢献する
最初に入社した日立グループには、ドメインを変えながら18年ほどお世話になっていました。家庭の事情もあって、卒業させていただくことになりました。
正直、独立する勇気はそれほどありませんでした。安定した環境を捨てる怖さもあったし、1人で食べていけるのかという不安もありました。それでも、その旨をSNSで共有したところ、ありがたいことに、すぐにお声がけいただきました。だったら個人事業主として独立しようと決めて、「クオリティアーツ」として動き始めました。背中を押してくれたのは、これまでに築かせていただいたご縁そのものでした。
独立して本当に良かったなと思うのは、「冠がないから、これまで競合だった企業ともコラボレーションできるようになった」ことです。仕事には期間があるし、話がなくなることもあります。生活の不安はあります。それでも、それ以上に多くの方と会話がしやすくなったという実感が大きくて、独立は選択して正解だったと思っています。
冠を外したら、世界が広がった。
⑤ コミュニティを作り、同志を得る
学生時代からLinux関係のコミュニティ(当時はメーリングリストベース)に参加していたので、入社してからもそれは続けるつもりでいました。ただ、テイカーになってはいけませんよね。受け取ったものに利子をつけてお返ししたい。そう考えました。それと、これも人生観からですが、自分の子はいないだろうから、別の形で次の世代に何か渡せたらと思いました。
結果として、大きく2つの技術者コミュニティを立ち上げることになりました。2007年に立ち上げて初代実行委員長を務めたWACATE(Workshop for Acceleration of CApable Testing Engineers)と、2015年に立ち上げて代表として10年続けてきたNaITE(長崎IT技術者会)です。WACATEは現在は後進に引き継いでもらっていて、2027年12月には20周年を迎えます。
WACATEを立ち上げた動機は、シンプルでした。当時、私自身が若手のテストエンジニアとして悩みながら成長していて、同じように悩んでいる若手の仲間と、合宿形式で集中的に学べる場が欲しかったんですよね。一日や二日の単発の勉強会だけでは深い議論ができない。だったら、泊まり込みで朝から晩まで議論できる場を作ってしまえばいい、と。最初は数人の発起人で始めて、毎年夏と冬に開催を続けるうちに、参加者がどんどん増えていきました。NaITEも同じで、長崎にもITエンジニアのつながる場が欲しいと思って始めたら、だんだんと仲間が集まってきてくれました。どちらも最初は数人から始めて、気づけば多くの仲間が集まる場になっていました。
「弟子を5人」というのはおこがましかったですね。実際には、弟子というよりは同志をたくさん得ることができました。彼ら彼女らが業界でどんどん活躍していく姿は、まぶしいくらいです。これは目標達成というより、目標の意味そのものが書き換わった項目だと思っています。
コミュニティに通った時間は、結局のところ、出会ってきた人の顔で残っていく。
振り返って思う、効いたこと
ここまでがバケットリストの振り返りです。じゃあ、これらが全部叶った要因は何だったのか。今あらためて考えると、3つくらい、効いたことがあった気がします。
いちばん大きかったのは、軸を1本に絞れたことかもしれません。情報処理技術者になる、と子供のころに決めて、そこから動かさなかったことですね。寄り道や脇道はたくさんしたんですが、戻る場所が決まっていました。軸が1本あると、目の前の選択肢に迷ったときに「これは軸に近づくか遠ざかるか」で判断できる。判断のコストが下がる分、行動量が増えます。25年という長い時間で見たときに、この差はけっこう大きかったように思います。
次に効いたかなと思うのは、コミュニティに身を置き続けたこと。技術書も、講演も、独立後の仕事も、ほとんどがコミュニティとの関わりの中から生まれました。「業界に貢献する」と思って参加していたんですが、実際にはずっと与えてもらう側だった気がします。社内だけにいたら、たぶんこの25年は半分以下の景色しか見えていなかったと思います。コミュニティは、社内では得られない情報・人脈・刺激を運んできてくれる窓のような場でした。
そしてもうひとつ、受け取ったものに利子をつけて返すというスタンスでしょうか。これは具体的には、コミュニティに参加するだけじゃなくて、自分でも書く・話す・主催するというアウトプット側に回ること、という意味で意識していました。誰かが書いた本を読んで学んだら、自分も書く。誰かの講演を聞いて学んだら、自分も話す。誰かが作ったコミュニティに参加して学んだら、自分でもコミュニティを立ち上げる。これを意識していたから、テイカーにならずに済んだし、結果としてさらに多くのものが返ってきた気がします。今思えば、ここが一番効いていたのかもしれません。
とはいえ、これらも結局は周りに恵まれた結果です。自分の力で叶えた、とはとても言えないですね。
言霊はあった、ただし周りの方に支えられて
自分語りになってしまいましたけれど、新卒のときに立てたエンジニア人生の目標は、結果としてすべて達成できてしまいました。
言霊ってあるね、というのが正直な感想です。
ここでいう「言霊」は、ただ願えば叶うという意味ではないと思っています。目標を言葉にして書き出すと、自分の行動がそれに引き寄せられるし、人に話すと支援が集まってくる。手帳に書いた5つも、私一人で抱えていたら絶対に達成できませんでした。書き出して、口に出して、まわりに伝えたから、たくさんの方が手を貸してくれた。それが「言霊」の正体だと思っています。
頭の中で漠然と思っているだけだと、目標って自分でもよく分からないままになりがちです。でも、書き出してみると、輪郭がはっきりして、行動の選択肢が「目標に近づくもの」と「そうでないもの」に整理されていく。さらに人に話すと、その人が「あの人、こういうことやりたがってたな」と覚えていてくれて、思いがけないところから機会を運んできてくれることがあります。私の場合、本当にこれの繰り返しでした。
自分が想定していた50歳までの人生を、思い描いていたイメージのまま、明日迎えることができる。そのことに幸福を感じています。
このような人生を歩ませていただいた、周りのすべての方々に、心から感謝しています。自ら生きたというよりは、生かしていただいたというのが、実際のところです。本当に、ありがとうございました。
50歳からの人生は、ノープランから始まる
さて、明日から50歳。人生の目標が、なくなってしまいました。完全に想定外でノープランです。どうしたものか……。
とはいえ、目標なく生きるのもつまらないですよね。50歳からを第二の人生として、新しい目標と考えを、明日の誕生日に宣言できたらと思っています。これまでのエンジニア人生25年に比べれば、小さな目標になるかもしれないし、大したものではないかもしれません。それでも、言霊は二度三度と効くものだと信じて、大切に書き出してみたいと思います。
ひとつだけ、今の段階で言えることがあるとすれば、これまでとは少し違う軸でも考えてみたい、ということです。情報処理技術者として走り切った25年があるからこそ、その先には、もう少し違う景色が見えるかもしれません。
そういうわけで、目標の50歳まで走りきって、お疲れ様でした、俺!
