中学受験と地底人 正解を出す場所 正解がないもの | 書く私、描く私(3)
小6の頃、中学受験のために、1年だけ塾に通っていた。
私は小学生の間は、体育以外の授業で特別苦労したことはなかった。
母もそれは分かっていた。
ただ、私が小5の時、母が考えを改める出来事があったらしい。
私の友達が家に遊びに来たとき。
リビングに入ってきて早々、そこにある本棚の中の私の父の蔵書の一つを見つけ、
「あ、覇王の家」
と言ったのだそうだ。
私は全く覚えていない。
父は歴史小説が好きだったが、私は全く興味がなかった。
だから、そんな本棚の背表紙のタイトルなんて、目もくれたことがなかった。
パッと家に遊びに来た私の友達が、一瞬でそれを見つけ、覇王なんていう漢字をさっと読んだものだから、母は、当時の私とその子の「周りの世界へのアンテナの張り方」のような能力の差に、ハッとさせられたのだそうだ。
「うちの子は地頭は悪くないが、のほほんとし過ぎている。
このまま公立の中学校に行けば、自らどんどん知識を得ていくような同級生たちの間で埋もれてしまうのではないか」
そう思ったようだ。
そういう訳で、私は中学受験をすることになった。
「今、試験を受けておけば、このあと試験を受けなくてよくなるよ」
そんな言葉は、当時の私には甘い誘惑だった。
もちろん、「高校入試の試験」を1度パスできる、という意味でしかない。
「試験を受けなくてよくなる」
これは、今のように自分でなんでも調べられるネット環境もない時代の、幼く能天気な私の、大いなる勘違いだ。
中学校に入ってすぐの中間テストの存在を知り、
「試験あるじゃん…」
と自分の甘さに愕然としたことを覚えている。
そんなことを一ミリも知らずに、小6の私は、その一年を塾という場所で過ごしていた。
塾での勉強は、小学校の勉強とは全く違った。
入塾テストでは、国語はすぐに合格点を取れたものの、初回の算数の点は5点だった。
中学受験用の算数の参考書を買ってもらって塾に入るために勉強し、結果、今度は国語の点を上回って、無事入塾した。
塾は実家から電車で2駅行ったところにあった。
すぐに友達も出来た。
駅近くには買い物できるところがあって、塾帰りには、友だちとお菓子詰め放題300円のコーナーによく寄った。
私にとって、その世界はワクワクするもので、いつしか「塾に通う=勉強をしに行く」ではなくなっていた。
塾で仲良くなった友達は、小学校にはいないタイプだった。
何がきっかけだったかは忘れてしまったが、私たちは、交換ノートで順番にお話を作るようになっていた。
塾という場所で、私たちが当時夢中になっていたのは、地底人の話を一緒に作ることだった。
内容については全く思い出せない。
どうして地底人が出てくるのかも分からない。
ただ、地底人という存在が最低2人いて(当然友達同士である)、彼らの会話は全て、カタカナで書くことになっていた。
それははっきりと覚えている。
自分の番のときは、塾の宿題もさておきで、お話を書き、相手が持ってくるときは、続きがどうなっているのか、と楽しみでしかたなかった。
たぶん、その話にはテーマもなく、相手の発想を楽しみ、即興でその続きを作る、それだけだった。
そこに答えや正解などというものは一切なく、ただそれが続いていることが心地よかった。
最終的に、私は受験前の一か月、家で母に見守られながら「力の5000題」を解きまくり、滑り止めの女子校に合格した。
友だちは滑り止めを受けていなかったので、公立中学校に通うことにした、と言っていた。
最後に会った彼女も、いつも通り、笑顔だった気がする。
たぶんお互いにどこが第一志望だとか、どうしてそこに行きたいのか、とか、そんな話すらしたことがなかった。
そんなことに関心がなかったのだ。
塾が終わり、受験が終わり、私たちの交換ノートも終わった。
地底人の話は、終わらなかった。
最初から、スト―リー構想も着地地点もなかったのだから、悔いも残らなかった。
終わったものの中の、終わらなかったもの。
正解を出す場所で、正解のないものを作った仲間。
その後しばらく年賀状を出し合ったりはして、中学生で一度ぐらい会う機会を作ったような気もするけれど、それっきり。
彼女の人生の中で、私のことを思い出すことがあるのかも分からない。
でも、今私の頭の中には、小学生の二人が頭をつきあわせて一つのノートを見ながらワクワク、ニコニコしている景色がくっきりと見えている。
長い人生のたった一瞬でも、私と地底人が、彼女の中で蘇ることがあるといいな、そんなことを考えている。
