個性かマンネリかトンチキか|横溝正史作品の頻出表現
はじめに
私は横溝正史作品が大好きです。
しかし、横溝正史はあくまで物語作りの名手であって、「指先にまで神経が行き届いた」タイプの文章家ではないと思っています。
横溝の悪癖と言えるのが、気に入った表現を繰り返し用いることです。
批判的な意図はないのですが、かなり気になるので、noteにまとめてみることにしました。
つらぬいて走る戦慄と鉄串
横溝作品には
脳天から焼けた鉄串をぶちこまれたような戦慄が貫いて走るのを禁じ得なかった
という趣旨のフレーズが頻出します。
典型的な表現は、以下のような感じ。
「こ、こ、殺されてえ……?」
金田一耕助は脳天から真っ赤にやけだたれた鉄串でも、ぶちこまれたような大きなショックをかんじた。
しかし、どちらにしてもそれが生首であると思うと、金田一耕助は背筋をつらぬいてはしる戦慄をおさえることができなかった。
同一作品の中にも、類似表現が頻出します。
『獄門島』から、背筋と脳天に関する表現を拾い上げるだけでも次の通りです。
金田一耕助はなぜかその光景が島全体の運命を暗示しているように思われて、冷たい戦慄が背筋をつらぬいて走るのを禁じえなかったのである。
この美しい、しかしどっか尋常でない、三輪の狂い咲きを眼のまえに見たとき、金田一耕助は、ゾーッと冷たい戦慄が背筋をつっ走るのを禁ずることが出来なかった。
金田一耕助は、突然、背筋をつらぬいて走る冷たいものを感じた。
耕助はガタガタふるえ出した。何かしら冷たいものが、背筋をつらぬいて走るかんじだった。
耕助はとつぜん、脳天から楔をぶちこまれたようなおどろきをかんじた。
お気に入りのフレーズだから多用するのか、癖として染み着いているから安易に出力してしまうのか。
あるいは楳図かずおの絶叫顔のように、作者の代名詞的な表現として読者サービスに用いているのでしょうか。
個性的な表現なので、多様は悪手だと思います。
あまりに頻出するので、作中人物の驚きの表現として素直に受け取るのが難しく、「また鉄串か」「また貫いて走ってるか」が先に来ます。
嫌ということではないのですけれども。
悪魔の○○シリーズ
1950年、横溝はタイトルに「悪魔」という単語を繁用しています。
悪魔が来りて笛を吹く(金田一耕助):1951年11月~53年11月『宝石』
悪魔の画像:1952年1月増刊『少年クラブ』
悪魔の富籤(人形佐七):1955年2月 読切小説集
悪魔の手毬唄(金田一耕助):1957年8月~59年1月『宝石』
悪魔の降誕祭(金田一耕助):1958年1月『オール読物』
悪魔の寵児(金田一耕助):1958年7月~59年7月『面白倶楽部』
悪魔の百唇譜(金田一耕助):1962年10月 東京文芸社刊
相当お気に入りだったのか? 流行語だったのか?
『悪魔が来りて笛を吹く』以降は「悪魔の○○」とネーミングもワンパターンで、さすがに安易に過ぎるきらいがあります。
嫌いということではないのですけれども。
悪魔としか表現し得ない、犯人の残虐性・非人間性を強調したいのだと思いますが、同じ単語を悪魔のように多用するという悪魔的所業。
おぞましい単語でも、繰り返しすぎると陳腐になります。
多作を求められる流行作家としての横溝の性質があらわれているように思います。
おまけ
登場人物が発言するときにやたらと「ああ、そう」から始めることも気になります。
金田一も等々力警部も佐七も頻繁に言うので、これは横溝自身の口癖なのでしょうか。
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