【創作大賞2025応募作品】みささぎ倶楽部【オールカテゴリー部門】
【壱 みささぎ倶楽部】
陵の淹れてくれるコーヒーは不味い。
いや、それはいささか乱暴な表現だが、龍之介は二十五年生きてきて、良く言えばこんな個性的で滋味深いコーヒーを飲んだ事がなかった。それ故に、初めてボーンチャイナのカップを唇が撫でた日の衝撃を未だ忘れられないでいる。
そうして、悪く言えば出涸らしのような、白湯のような、無味のような、ただ黒いだけの液体を今日も啜っていた。三度目のインパクト。
「結局、俺はみんなが通ったり悩んだりする……世間一般の当たり前と仲良くできないんです」
本でごった返している平屋を六月の風が不躾な顔で吹き抜ける。湿っていて、雨の匂いがする青いそれ。すると畳の上にジェンガよろしく積み上げられている山の頂きが軽く捲れた。
「龍之介君。一点、アカ入れいいですか」
「はい……」
ゆったり膨らむ気ままなコーヒー豆を自由にさせると、本を押し除けムギオを押し除け、陵はマグカップが落ち着けるスペースを一先ず確保する。
「当たり前というのはですね」
すると話へ割り込みたいのか、ムギオが人懐こくナーオと鳴いた。シロキジ柄で鼻の左側にヨゴレがある。七歳らしいが仔猫のような甘えん坊だ。
「……どうせ逃げ、って言いたいんでしょう。分かってますよ。いやでも、それは……理想論っていうか、屁理屈です」
「屁理屈ってそんな」
「陵さんのアカ入れって、その、そもそも問題解決にはなってなくないです?」
縮めた眉間の皺が僅かばかり深くなる。それはそれとして、御歳三十七歳の陵が年齢より上に見えるのは、おそらく白髪症のせいだろう。
黒髪の中、まだらに潜むそれはいっそメッシュだと言い張れなくもないが、残念ながら彼がそんな気を使ってるとは到底言えないせいで、初見では大凡実年齢より十は盛り越されるのが常だ。
しかしながら陵にとって外見の良し悪しなどは瑣末な事らしいので、他人の評価など殊更気に留める筈などない。
「……それで、龍之介君は瑠璃子さんに倶楽部のメンバーを派遣した事が遺憾であった、とおっしゃる?」
菓子盆の中へザラザラとぼうろを流す手つきが少し踊っている。陵は黒い汁を啜りながら口元を綻ばせた。目に、白いスジ状の光がゆるやかに軌跡を伸ばしている。
「いえ。瑠璃子の事は……すみません。俺がこんな態度だから、結局みんな不幸にするし拗れるんです」
「龍之介君が罪の意識を感じる事はありません。ただ、瑠璃子さんとの相性のお話です、これは」
あいしょう、と決して誰も咎めない舌触りのよい言葉を龍之介は鼓膜の奥で震わせた。
――なんで怒らないの。どうして、そんなほっとした目ができるのよ——
二ヶ月前。花冷えの四月はまだ寒さが冴えていた。
それだというのに、素足を彩る瑠璃子のペデキュアが責めるように光っているから、龍之介が静かに唇を噛みしめれば彼女の裸足が蠢く。灯りもない青い床板に白々しく肌が濡れている。
「仮にも自分の彼女が、いくらニセモノだったもしても、他の男に腰を抱かれて歩く背中を、どうして許せるの!」
「……それは」
化粧が剥がれ泣き腫らしていても瑠璃子は美しかった。いや、いっそこの矛盾した感情の吐口をなんとか整えようと嘆く唇にこそ、龍之介の心は生の匂いに震える。
「俺のせいだから」
「何よそれ……」
持ち上がった顎が作る影にようやく龍之介が瑠璃子を見つめれば、果たしてこんな化粧を。こんな派手やかな色を顔に塗りたくる女だったのかと、更なる自戒が追いかけてきた。
龍之介と瑠璃子は中学の吹奏楽部時代からの付き合いだが、世に言う交際という形に収まったのは高校二年の夏だ。
その頃、トランペットのピストンバブルを抑える指は絵筆を握っていたのだが、瑠璃子からの熱烈なアプローチを無視できる程、龍之介は鬼でも悪魔でもなかった。
しかし今から思えば、鬼や悪魔の方が余程優しかったやもしれない。少なくとも、瑠璃子にとっては。
***
「……とにかく、瑠璃子が規約違反をした違約金はお支払いします。その……もし可能なら分割でお願いできるとありがたいんですが」
龍之介の眼前には、二杯目の不味いコーヒーが夜の波止場よろしく瀬戸焼の中で揺れている。飲み口の厚さがまちまちで、使い勝手はさて置き龍之介は存外気に入っていた。
「ああそのカップ、わたしが窯に入れたんです。ようやく最近使えるモノが作れるようになりまして」
「へぇ……抹茶色がこう、こっくりとして何だか陵さんぽいですね」
「おや、わたしぽい。ですか?」
「ええ、ぽいです」
「瀬戸染付はいいですよ。やはり土が違う……良質な土地には文化が根付くし、繁栄がありますから」
暫し寄り道に油を売るのは、陵の癖だ。それは彼が、文筆という感情や事例の言語化を生業としているからとも捉えられるが、単にその場その場で思いつきを口にしている方が正しい。
「さて……それでは、龍之介君が何か勘違いされてるようなので、ひとつお話を」
「え、あ、はい」
そしてまた、これも思いつきで話の角度を九十度畳んでくる。
「当倶楽部は慈善事業をモットーにしておりますので、金銭授受の一切を容認致しません」
「そ、そうなんですか?」
「はい。人助けなのもので」
「ひとだすけ……」
陵は茶箪笥からいびつな器をあれこれ取り出すと、見てくださいと龍之介の前へ適当に並べる。単に自慢したいだけだろう。
「確かに、デートクラブと勘違いされやすいですし、稀にお心付けとして菓子や雑貨類を頂く事はありますが、誓ってお代金は頂きません。もっといえば、これも規約に書いておりますので……ええとちょっと待ってください」
ぬったり割り込んでくる夜風が煤けた色のカーテンを揺さぶる。するとその波に合わせて陵が動く。書籍の山脈、アンティークとは名ばかりの古めかしい家具が跋扈する室内はさながら迷路だ。しかし家主はその隙間をひょいひょいと気安く練りながら、状差しから三つ折りのコピー用紙をつまみ取った。
「良い機会ですし、龍之介君に倶楽部の事をきちんとご説明します」
みささぎ倶楽部。
名古屋市南区某所――縁側から見える公園は第二次世界大戦中に使用された防空壕があり、現在もその名残を色濃く落としているが、市民の生活に差し障りはない為、認知はゆるい。
風通しの良い南向きの平屋は緩やかな坂の中腹に建てられており、ここは陵の祖母が住み暮らしていたらしいが今は彼一人の城である。
陵、と書かれた墨の薄くなった表札の文字はいっそ趣があり、龍之介は初めてこの家の門戸を潜った際は、一体どんな偏屈な老人が住んでいるのかと失礼を思ったものだ。
「当倶楽部に歴史なんて大層なモノはないのですが、まあ十年ほど前ですかね……最初は単なる交流場でした。ここいらは駅からも外れていますし、なんせ飲食店がないでしょう。そこのサクラ高校の教員や用務員に顔見知りがおりましてね。夜な夜な囲碁を打ったり麻雀や映画鑑賞を楽しみながら、好きな本の話をしたりする楽しみを共有する中で、自然輪が広がった」
窓の外を指差す先に見えるは、グラウンドのフェンス。龍之介は藍色のカーテンの向こう、箱庭のような景色を見つめた。小さいが古い柿の木が猫の額ほどの庭を飾飾っている。
「飲食って……陵さん、その、まさかコーヒー以外にも何か出来るんですか?」
三つ折りコピー紙のたたみ皺を見つめながら、龍之介は相伴に預かった特製コーヒーの味を思いだした。
「ええ。若い時分は喫茶店で給仕をしていましたので。こう見えて調理師免許も持っているんですよ」
「ええええッ」
「いやだな、そんな大それた物はできません。ああでも、此処で振る舞う料理に関してもお金を頂いたりはしてませんよ。サービスです、サービス!」
何を勘違いしたのか、陵は照れ笑いを滲ませながら後ろ頭をゆるく掻く。おそらくその様子からポジティブに捉えているであろう事は想像に容易かったが、龍之介にはこれ以上彼の料理について深入りする勇気を待ち合わせてはいない。
「ハハ、それで……いつから今のええと、倶楽部の形態に?」
「ああはい。明確な線引きは難しいですが、八年前には既にわたし、ミナト君、蓬生先生は在籍してましたね」
陵の丸い爪が紙の上をするする滑れば、沿革と書かれた文字の上で止まる。どうやら読み上げたこの三人が初期メンバーらしい。
「ミナトさん……そんな昔からいらしたんですね。失礼ながら、大学生かと思いました」
「彼はサクラ高の日本画科を主席で卒業した後、今は伏見の画廊を経営しながら絵画教室をしてますよ。確かに若く見えますねえ」
「いや、陵さんもとても四十過ぎには見えませんが……」
龍之介は一度だけ見たミナトの背中を思い出すと共に、また罪の意識を口内に燻らせた。ミナトは倶楽部から派遣された、瑠璃子の三日限りの恋人だ。
「まぁでも年齢なんてただの符号。重ねた時間を可視化しているに過ぎません」
頬杖をつく手首の白さがやけに際立って見えた。龍之介は陵の夏草のような初々しい目を正面から見つめれば、自然肩肘が強張る。
「そう、なんですかね。いや、会社でもお前はまだ若いからとか……新しいプロジェクトでも重要なポストになかなか付けなくて」
龍之介の口から思わず愚痴めいた弱音が溢れると、示し合わせたように陵の唇が開く。諭すような自愛の中に僅かな硬さが滑った。
「それが本当に年齢ゆえの壁であるならば、随分レトロなお考えをお持ちの企業さんですが……しかし、若さを犠牲にした根幹は貴方を傷つけない為の嘘だとしたらどうでしょう」
「え、なに、ちょ、どういう事ですか」
「優しい嘘、なんて舌触りの良い言葉を吐くつもりはありませんが、杓子定規で捉える前に少し視野を広くしてみても遅くないのかもしれません」
「それは……」
男の目が、ゆっくりと偏光する。
持ち上げた瞼の端に静かな情を感じるも、龍之介はその微かな尖りに息を飲んだ。否、喉が渇いて二の句がついて行かれなかった。
「……話を戻しましょうか。ミナト君や蓬生先生をはじめ、いつしか此処にはある感覚を有している面々が集うようになりました。それは家主であるわたしを筆頭に、本当の意味で話せる仲間を得たいと、許可されたいと願う心の顕れだったのかもしれません」
「ある、感覚?」
ふと思い出したかのように、陵は菓子盆を引き寄せるとぼうろを摘んだ。龍之介も何となくそれに倣う。するとムギオが背中を弓に逸らし、二人の間を横切って行く。
「先ほど龍之介君がおっしゃられた……当たり前。もしその言葉を借りるならば、わたしたちは社会が、世間が認識する当たり前から外れているのでしょう。しかしわたしはそれについて恐れていませんし、また疎んでもおりません。むしろこうして自然に、ありのままの自分で世界と向き合える幸福に感謝している」
ふいに、尖ったやわらかい物で殴られた気がした。
龍之介はいつのまにか噛み締めた唇をゆっくり解くと、渇いた呼気を飲み込む。舌の上でぼうろのザラ付きがくすぐった。
「他者に恋愛感情を抱く……それはありふれたごくごく自然な感情の動きだと一般には認められています。龍之介君も、これまでの人生において少なからず誰が誰を好きだとか、好意を示されたりなどの機会に触れた事もあったのではないでしょうか」
「ええと、その、まあ、ありました」
すこし、嫌な湿っぽさが首筋を通り過ぎる。龍之介は慌ててその滲んだ汗を手のひらで押さえつけると、目を伏せた。いつも人から押し付けられる好意に得も言われぬ恐れを抱く時、こうして行き場を失った発汗が現れるのだ。
(私、龍之介のコトが好き。ねえ、付き合わない? 龍も私が好きだよね)
耳の奥で瑠璃子の声が揺れた。今よりも十ばかり昔の、自信に満ちあふれた女の。
「恋人という名札を渡した時、自分も同じ感情にならねばならない。それこそが誠意だと思った事がむかし、ありました」
「え、陵さんもそんな事が」
あやふやな千切れ雲が思考の裏側で重なっては、離れていく。瑠璃子の事は決して嫌いじゃない。むしろ気の合う友人として誰よりも側に居られる幸福を噛み締めていたのに。
(友達のままでは駄目だったのか)
「本来、感情に比重なんてない筈なのに、人はすぐに自分と同じ持ち物を持たせようとする。それは自分自身にも言える事でしょう」
「はい……」
「誰もが当たり前に誰かを好きになる。これは優しい呪いだと理解する事で、一応の許可を自分に与えています」
瑠璃子の憤懣に気づかないふりをし続けた結果、彼女は龍之介を試した。みささぎ倶楽部から派遣されたミナトに恋人のふりをさせ、感情を波立たせるやり口は子どもの駄々に近かったが、結果分かった事は瑠璃子にとって残酷以外の何物でもなくて。
「俺は、陵さんが言う感覚をまだ……受け止められないかもしれません」
「ええ」
「正直……よくわからないというか」
「それはそうでしょう。突然そう言われて分かりました、なんて理解できるような簡単な話ではありませんよ」
「すみません」
一体何に対しての謝罪なのか、行き先の不透明な言葉が溢れる。しかし陵は口調を荒げる事なく、静かに、ただ真っ直ぐ龍之介を見据えた。
「でもわたし達は此処にいる。見えないものでも存在しないものでもありません。こうして、確かに君の前に居る輪郭を、今はまだゆっくりでもいいので、感じてください」
陵のぼうろを摘んだ指が微かに震えた。龍之介は何かを言いたがった唇を引き結ぶと、眼の前の男が発する言葉の裏側を探す手を固くする。何か行動しなければ、言いようのない不安と希望に膝が砕けそうになったから。
「愛に触れないわたし達が愛に寄り添い愛を与える……それが、みささぎ倶楽部です」
【弐 高見沢雛】
「おい見習い、チャキチャキ歩けよ!」
水っぽいゆるい坂の中腹からやや高い声が飛べば、今にも泣き出しそうな曇天を慌てて龍之介は見上げる。左足の履きなれない靴が、湿った空気にぶらんと情けなさを揺らした。
「っま、待ってください……革靴が足に合わなくって」
「はあ? 何ガキみたいな事言ってんだよ。さっさと来いって。タダでさえ時間遅らせてもらってんのに」
「す、すみません!」
慌てて痛む足を靴の中に押し込むと、龍之介はさっさと背中を見せて歩き出すミナトを追いかけた。口調は荒いが、その歩幅が緩くなっている優しさに龍之介が気づいているかは定かではない。
「もうすぐそこだから。ほら、頑張れよ」
身丈は龍之介より頭一つ小柄だが、ミナトはその尊大さも手伝ってか随分と大きく見える。
突如、ぬるい風が午後の空気を掻き回した。ミナトは栗色の髪を鬱陶しそうに耳へ引っ掛けるも、そこまで機嫌が悪い訳ではなさそうだ。
「はい!」
「返事だけは威勢がいいな……けど、陵サンもなんだって急に部員を追加するなんて言い出したのやら」
「すいません……」
「何回も謝ンな。悪いと思ったらほら、ダッシュ!」
龍之介は何とか坂道を駆け上がると、その場にしゃがみ込みたくなる甘えを叱咤すると共に顎を持ち上げる。鼻頭の汗が主張する暑さは否めない。龍之介は乾いた口内に、未だ正体の分からない白っぽい味を滲ませた。
三日前。
みささぎ倶楽部のあらましを聴き終えた龍之介に掛けられた言葉は、寝耳に水以外の何物でもなかった。
陵はまるで子どもにお使いを頼む気やすさで、人懐こさで、龍之介の負い目を逆手に取ったとまでは言わないが、限りなくNOと言い難い取引きを口端に乗せたのだ。
『そうだ龍之介君。ちょうど部員がひとり辞めてしまいまして。あなた、手伝っていただけませんか?』
『へ、え、て、手伝う?!』
ガス屋の店舗名が印字されている壁掛けカレンダーを捲りながら、陵はタスクを脳内で演算しているらしく指折り数えてはカレンダーにミミズを走らせていく。
『今週の土曜日……十五時はいかがでしょう』
『如何でしょうって、まだ俺返事してませんよね?』
『依頼者は高見沢雛さんとおっしゃる方です。倶楽部の常連でもありますので、畏まらなくてもよいかと。ああ、もちろん初回ですのでミナト君の付き添いをお願い致します』
取り付く島もないとはこの事で、陵はいともあっさりと龍之介の倶楽部への加入並びに初活動の日を決めてしまった。その間僅か十二分。
「……まああの人にそう言われちゃ、断れねぇよな」
坂を登り切った足は重い。龍之介は何とかミナトの歩幅に合わせて隣へ並ぶと、同情を憂う先輩の口ぶりに感謝する。閑静な住宅街は塀の高さがやけに目立ち、中世の要塞なんかを思った。
「けど、瑠璃子の事で迷惑を掛けたのは事実ですから」
結局、有無を言わせない入部ではあったが、瑠璃子の不始末をこれで詫びる事ができるという安堵は嘘じゃない。するとミナトは嗚呼、と突然目に光を浮かせた。
「そうか。お前瑠璃子サンの彼氏だったな」
「そう、ですけど」
流石にこの軽薄さにムッと唇を引き結ぶも、ミナトは全く動じる事なく乾いた笑顔で畳み掛ける。同時に、瑠璃子の濡れた瞳を思い出した。
あの日、ミナトに肩を抱かれ繁華街を歩く彼女の視線は、確かに龍之介を探していたのだ。自分を愛してくれない恋人に、最後の賭けだと信じて。
「瑠璃子サンとあの後何か話したのか?」
「……え、はい。とりあえず」
「そんで? 別れるの」
この不躾とも取れるミナトの声が何故か不愉快に思わない奇妙さに、龍之介は軽く咳を払う。本当は誰かに聞いてほしかったのかもしれない。飾りのない言葉で。
「別れました。俺、彼女をここまで追い込んでいたなんて知らなくて……だから、もう無理なんです」
「ふぅん。それなのに元カノのやらかした規約違反で心痛めてるなんて、優しいじゃん」
「……陵さんには迷惑をかけましたし、その、ミナトさんにも」
尻すぼみの言葉が湿った空気にとろける。いや、いつまでも溶け切らないでしつこく底に溜まった粉末スープのようだと、龍之介は言いかけた言葉を飲み込んだ。
「よくある事だよ」
「そう、なんですか」
「うん」
やはりミナトの声は龍之介を責めてはいなかった。瑠璃子の違反――それは派遣された部員に……ミナトに恋をした事である。
***
「そのシュークリーム、先週駅前にオープンしたお菓子やさんのよ。ふふ、多めに買っておいてよかった」
「すみません、てっきり話が通っているかと思ってまして」
白磁の上でおしとやかに乗せられたシュークリームには、たっぷりのカスタードと苺がサンドされている。ティーポットからは豊かな香りと共に温かさが立っており、慌てて中腰になる龍之介を他所にミナトはさっさとシュークリームを掴んでは、口に運んだ。
「雛さん、コイツ研修なんで気にしなくてイイっすよ」
ソファに腰を深く沈ませたミナトは、勝手知ったる口ぶりで紅茶を啜っている。
室内は生成りと僅かの差し色で纏められているヨーロピアン調で、大きな出窓からは白い光が差し込み室内を柔らかくさせていた。
家主の高見沢雛は、肩までまっすぐ伸びたチョコレート色の髪を遊ばせながら、マホガニーのテーブルを挟んだ二人の向かいに腰掛けると柔和な笑みを広げる。角度によっては少女のようにも見え、正確な年齢は推し量れない。
「あら、お二人もいらしてくださるなんて嬉しいわ。龍之介さん、でしたっけ。ミナトくんは粗野なトコロもあるけれど、こう見えて聞き上手で優しいのよ」
「ちょ、雛さん」
「あはは、ホントの事じゃない。あ、龍之介さんもシュークリーム召し上がって?」
「はい、ありがとうございます!」
どこか謎めいた喋り口は益々雛の正体を不透明にするも、嫌味のない態度は好感が持てた。龍之介は照れ笑いをくすぐったくさせると、勧められるままシュークリームに手を伸ばす。
「……どうせ、いきなり研修って言われたんじゃない? びっくりしたでしょう」
「え、あ、は、はい」
くすんだ空は、かろうじて雨の匂いを誤魔化している。一瞬雲間から覗いていた太陽もいよいよ隠されてしまうと、室内は途端光を失った。
「改めてまして、高見沢雛と申します。よろしくね、東龍之介さん」
「こ、こちらこそ。よろしくお願いします! 至らない所もあるかと思いますが何卒ご贔屓に……」
「お前、武士かよ」
うっかりその場に土下座でもやりそうな龍之介の首根っこを掴むと、ミナトの呆れた声が立つ。すると同時に、雛の愉快な笑いが空気を包んだ。
「アハハハハ、そんな畏まらなくっても……それより武士って、ミナトくん、アハハっ、お腹痛い」
「あ、あの、すみません」
カラカラとさっぱり笑う雛に対して、申し訳なさを滲ませる龍之介のアンバランスたるや。
しかしこういった意識せず投げられたフックは、存外よい方向に作用をもたらす事もある。
「ふふ……それよりも龍之介さんは、一体何の為にココに呼ばれたのか気になるわよね? ミナトくん、説明してあげたのかしら」
「いや?」
「どうせそんな事だと思った! なんて薄情な先輩なの」
雛は龍之介の心中を見透かしているかのように、先回りして疑問をひとつずつ剥がしていく。これではどちらが倶楽部のメンバーか分からない。
「雛さんは……」
ちら、と一瞬ミナトと雛の視線が絡む。それから二秒待って逸らされた。恐らく許可を雛が与えたのだろう。
「だいたい二ヶ月に一度くらいの間隔で、こうして近況報告をしてくれる。基本、俺が伺ってるかな」
「近況、報告?」
龍之介が隣を見やると、珍しくミナトは何かしら言葉を選びながら視線を彷徨わせていた。するとそこへ助け舟よろしく、雛の声が割り込んだ。
「ああ、私から説明した方が良かったかな……実はちょう五年前に主人を亡くしたの。その時ね、陵くんが本当に心配してくれて。それで今もこうして私が、ちゃんと生きてるか確認に来てくれてるというワケ」
「ちょ、雛さん!」
「あら。嘘じゃないでしょ」
「そ、そうだったんですか」
突如雛の身の上を知れば、龍之介はざらついた味が口内に広がる憐憫に口端をきつくさせた。確かにミナトが言い淀む理由もわかる。
「あ、ごめんなさい。そんな顔しないで……私のコトなら本当に大丈夫なのよ。仕事もやっていけてるし、寂しくないと言えば嘘になるけれど。でも、生きていかなくちゃ」
「その、陵さんとは……お友達なんですか?」
ぬるくなった紅茶で唇を湿らせると、龍之介は雛から立つ淡い影の正体をすこし、理解した。
「彼とは大学時代からの付き合いなの。私の方がひとつ上なんだけれども、主人を交えて四人で卒業してからも暫く頻繁に会ったりしたわ」
「四人……?」
「陵くん、主人、私。それから蓬生くん」
ここに来て、まだ龍之介が顔を見ていない蓬生の名前が上がった事に驚くも、その予想外の関係の深さは逆に興味を深めた。
「私と陵くんは心理学科、主人と蓬生くんは人類学を選考していて。仲良くなったのは、陵くんの家で定期開催されてた麻雀大会かな」
「そんな昔からの付き合いだったんですね」
「龍之介はまだ蓬生サンとは会ってねぇよな。あのヒト、気まぐれだから滅多に顔出さないし」
足を組み替えながらミナトは跳ねた前髪を手持ち無沙汰に弄る。
「そうそう。蓬生くんといえばさ、あの陵くんの料理を美味しいっていうんだからちょっと驚き以前の話よね」
「え! やっぱり陵さんのその……料理そんなに、何ですか」
何とか言葉を選んで当たり障りなくを心がけた龍之介を前に、一瞬顔を見合わせた雛とミナトは大いに吹き出す。特に雛は笑いのツボに嵌ったのか、手を叩いて天井を仰いだ。
「もう、もうね、特にカレーがほんっとに不味くって! あれはいっそ芸術よ」
「陵サンの事は尊敬してるし、恩義もあるケドありゃ確かに凄いぜ」
コーヒーの味に不満を持った事が自分だけではなかったのだと知れば、龍之介は少しばかりの安寧に胸を撫で下ろした。雲が流れ、室内が再び白く開かれる。
「ふふ、今頃彼くしゃみしてるわね」
「いいか? このコト、陵サンに言うなよ」
「そ、それは、もちろんです!」
共通認識とはある種仲を深める為の手頃なキッカケづくりには最適だ。しかしその裏には行き過ぎたヘイトが存在するのも事実で。しかしこの二人の根底にある陵への信頼が、そうさせない。
***
「さて……それじゃあ」
おもむろにミナトの声が立ち上がれば、会話が区切られる。龍之介は慌ててカップをソーサーに戻すと、口元を拭った。
「え、もう帰るんですか?」
「バッカ、そんなワケあるかよ。今からがお前を連れてきた意味があんの。さあ、働いてもらうぜ」
背伸びをしソファから腰を上げるミナトの言葉を理解する前に、腕を引かれた龍之介は淡い浮遊を覚える。外を見れば雲間から光が帯状に差し込み、庭木を青々と輝かせていた。
「雛サン、今日は草刈りと剪定でよかった?」
「いつもごめんね。雨の季節はじゃんじゃん草が元気になっちゃうから」
ミナトは龍之介を顎でしゃくると、窓の外の庭へ視線を投じる。なるほど、確かに一人で請け負うには骨の折れるボリュームだ。
そうして龍之介はあれよという間に外に連れ出され、タオルを首に引っ掛けられると草刈り鎌と剪定ハサミに対峙させられた。
「どっちがいい?」
「え、あ、ああ、と、じゃあ鎌で」
剪定の経験がない、という単純な理由で選んだ草刈りであるも、その希望はあっさり却下される。
「ダメだ。お前の方が背ェ高いんだし剪定な」
「そ、それじゃあ何で聞いたんですか」
至極真っ当な抗議を思わず上げてしまったが、ミナトもそれは理解しているらしく照れ隠しに鼻を擦った。
「ばぁか、無理やり押し付けたらパワハラとか言われるだろ」
「それは。まあ」
庭の片隅から踏み台を持ってきて、渡されたハサミを片手に龍之介は自分の身丈より高い庭木を見上げる。名前のわからない木々の生命力を思いしれば、家の中から雛も顔を出した。
「思ったよりジャングルでしょ?」
「いえ、ハハハ……大丈夫ですよ」
剪定の方法をミナトに聞いても、イイ感じでカットして。と美容師を困らせる客のような事しか言わないので、龍之介は諦めて自己流で挑む事にしたのだが、方方に好き勝手枝を伸ばしている樹木はなかなかどうして、手強い。
「旦那の趣味だったの。ソヨゴ、オリーブ、アオキ……広葉樹の好きな人で」
「すみません、浅学で。俺、こういうの疎くって」
庭木と言えば松や杉を思っていただけに、高見沢家の庭を茂らせる木々は龍之介にとっては物珍しさしかない。そうして近くで見れば、葉の色は近しくとも全くの別物だと分かった。
「ソヨゴは今龍之介さんが剪定してくれているヤツね。真っ直ぐにスラっと伸びる木で、秋になると赤い実が付くの。一般的にはどこに植えても問題ないんだけど、敷地外からの目隠しとしても使われてるかな」
「へえ……あ、でも葉っぱが下を向いちゃってるのは、日陰にいるからなんですか?」
よく見れば、青々した葉はやや小ぶりで輪郭の波が細かく垂れ下がっている。龍之介はその細枝に不釣り合いな葉を間引いたり、折れて切なくしている端を切り落とした。
「ううん、こういう木なの。ソヨゴは成長がゆっくりだけど病気に掛かりにくいし育てやすいのね」
「へえ。そういえば、実家にもこんな木あったかも……これまで興味なかったけど、ソヨゴって名前も初めて知りました」
「じゃあひとつ、覚えて帰れるね」
木や草花にも名前はある。しかし知らなければ、それらは名称未設定という箱の中に入れられてしまうのだ。
「おい、喋ってないでチャキチャキ手、動かせよ!」
ぱちん、とハサミが小気味よく鳴れば龍之介の足元に葉が散る。すると紫陽花の花壇で草をむしっているミナトから抗議が昇った。
「あらごめんなさい。私が邪魔しちゃったの」
いたずらっぽく笑う雛に、ミナトは小言を吐き出そうとする唇をひとまず結ぶ。恐らく思ったよりも雑草の脅威が凄まじかったのだろう。
「……倶楽部活動って、こんな、コトもするんですね」
「ウチは、利用者が求めれば大方なんだってやる。人助けがモットーって陵サンに聞かなかったか?」
ゴミ袋に刈り取った青臭い雑草を入れる片手間に、ミナトが顔を上げる。懐かしい夏の匂いがした。
「ええと、こういう意味だとは思ってなくて」
「買い物代行に電球交換。一緒に映画へ行ったり……ああ、お孫さんの運動会で写真係を頼まれた事もあるぜ」
「お、お孫さん!?」
一体利用者の年齢層は如何ほどなのだろうか。龍之介は、てっきり瑠璃子くらいの世代が多いのではないかと勝手に想像していただけに、軽い驚愕を覚えた。
「アハハ、あったわね! 陵くんとミナトくんの二人で運動会。写真見せてもらったんだけどまんざらでもなく、楽しんでたじゃない」
「オレ、あの時借り物競争に飛び入り参加して優勝したんだぜ」
突然過去の栄光を自慢するミナトがおかしかったが、龍之介は何も言わずハサミを光らせる。確かに人の手を入れてやると、自然な生育の中に整った美しさが投じられた。
「お、龍之介さん、センスいいよ」
「そうですか? でもいいですね。こうやって整えていくの……少しの手入れでさっきと全然印象が違う」
「ええ、メンテナンスは大切だわ。人も、木も」
踏み台を抱え、今度はオリーブの前に立つ。細長い葉が特徴なのでこれは龍之介も馴染みがあった。
「じゃあ私、買い物に行ってきてもいいかな。一時間もかからないと思うんだけど」
「ああ、しっかり留守番しとくからごゆっくり」
遠慮を知らない雑草と戦いながらミナトがサムズアップをやるので、龍之介もはにかみながら真似をする。すると雛も同じように笑いながら返してくれた。眩しさに照らされる横顔は美しさと、僅かな寂しさを残して。
「こっちは大方終わったぞ」
「あ、はい。俺の方も」
調子が出てくると自然、手の動きも加速する。二人は結局ゴミ袋三つ程の草葉を刈り取ると、それらを纏めて片付けに入った。なるほど、散髪を終えたような樹木がすっきりとした佇まいを見せている。
「キレイになりましたね。最初は少し驚きましたけど、雛さんのお役に立ててよかった」
此処に来るまで名前も知らなかった木々達の存在を、龍之介ははっきり認識できるまでになっていた。そうして誰かの為に何かできたという事実は、地につく足を強くする。
「みささぎ倶楽部はまあ、どちらかと言うと便利屋って方が近いかもな」
「あの、ひとつ疑問なんですけど……倶楽部の事ってどこで情報を得るんです?」
まさか日常的な痒い所に手が届くサービスをしているとは思わなかっただけに、純粋な疑問が持ち上がった。ボランティアで請負うにしては少々ウエイトが大きすぎる。
しかしミナトはあっけらかんとした口で、ゴミ袋を縛った。
「SNSだな」
「え……えすえぬ、えす」
「まあでも、最近は紹介が殆ど。だから瑠璃子さんは稀だよ。なんのツテもなく、更新の止まってるホームページ見つけて連絡してきたんだから」
「そう、だったんですか」
またすこし、罪悪を龍之介は覚える。
瑠璃子は果たしてこんな行動力のある質であっただろうか。そう思えば、自分の知らない元恋人の一面を見せつけられた気がした。
「ミナトさん、瑠璃子はどんな事をしゃべりましたか。そして、どんな顔で……みささぎ倶楽部にやってきましたか」
「瑠璃子サンは……てか、聞きたいのかよ。お前」
「はい。……聞いておかないといけない気がして」
躊躇いもなく瑠璃子の事を問えた事にすぐに後悔が追いかけてきたが、龍之介は怯む事なく静かに首を縦に動かす。意外にもミナトの方が唇を指の腹で擦り、淀みを見せた。しかし短い息を吐き出すと、降り出した雨のように言葉を落とす。
「……彼女は話好きで、色々しゃべってくれたよ。最近インド映画にハマってること、猫を飼いたいこと、知り合いのジャズバンドに誘われたこと」
すべてが真新しい世界であった。龍之介にとって瑠璃子は瑠璃子でしかなく、彼女はいつも背を正しトランペットを吹いていたから。正しい音、張りのある、美しい音を鳴らして。
「それから中学時代から好きだったヤツと高校でようやく告白できて……勇気出してよかったって」
隣にいた筈の彼女が分からない。
どんな顔で笑っていたのか、どんな声で名前を呼んでくれていたのか、龍之介はもう、瑠璃子の事をなにもしらない。
「……知らなかっただろ」
「はい」
龍之介は素直に認める事で、踵を返しそうになる足を何とか食い止めた。
否、もう今さらだ。今更瑠璃子の何を知ったとしても、それは知ったつもりにしかなりはしない。
「あの人が俺に好意を抱いたのは、ある種の吊橋効果だ。言い方は悪いが、誰でもよかった……誰かに恋をしたかったんだろうな」
***
「ただいまー! わ、ええ、すっごくキレイになってるじゃない」
きっかり一時間で戻ってきた雛は、ぱっと明るい向日葵のような笑顔で二人を労った。見違える程美しくなった庭には、心地よい風が吹き抜けていく。
「あ、高見沢さんおかえりなさい」
「ちょうど今終わりましたよ」
買い物、と行って出ていった割に雛の手には物品らしい何かが見当たらない。恐らく彼女なりに何らかの気を効かせたのだろう。
「ふふ、二人で何のお話してたのかしら」
丁寧に整えられたアオキの低木を眺めながら、雛は細身のパンプスを鳴らした。アオキは日当たりのやや悪い場所に植えられているも、成長を遠慮しない。
「あー恋バナっス」
「ちょ……ミナトさん!」
唐突に不用意が投げられると、龍之介はぎょっとおどけてみせる。しかし雛はその言葉を聞き逃さず、果敢に追随させた。
「いいじゃない恋バナ。私も混ぜてよ」
「コイツの元カノ、中学の頃からの付き合いだって」
「ミナトさんっ」
売り言葉に買い言葉とはよく言ったもので、慌てる龍之介を置いてきぼりに話は紙芝居よろしく進んでいく。
「学生時代かぁ。青春だねぇ……実は私、大学の頃陵くんと少しだけお付き合いしていたの」
「え、ええっ!」
「そんなにびっくりしなくても」
「すみません……そういうつもりじゃ」
オリーブの葉が擦れる音に混じって溢れた雛の声は、どこか懐かしさとひと掬いの哀しみを孕んでいる。しかし龍之介はこの瞬間、何故陵が雛を【常連】と呼ぶ一方で気にかけているのかを理解した。理解してしまった。
「陵君は今でもどこかで……責任を感じてるのかな。わたし、フられたの」
いくら時間が経とうとも、過去の傷口が塞がる事はない。忘れる事はできても、かさぶたの張った下は今もなお鮮やかに呻いている。
(愛に触れないわたし達が、愛に寄り添い愛を与える)
龍之介の鼓膜の奥で、陵の声が震えた。
「あの、陵さんは……贖罪とかそういう気持ちだけで高見沢さんを気に掛けてるワケじゃないんだと思います」
「おい龍之介」
ミナトに呼ばれた声で、龍之介は弾かれたように顔を持ち上げた。一体何の根拠があって、この未亡人の言葉を遮ってしまったのか。手の平が湿った熱で濡れている。
「すいません。俺はお二人の事、全然知らないのに口出して。でも……」
柔らかい空気が膨らんだ。微かに震えた唇は身勝手さを置いてきぼりにしているも、それでも龍之介は声を上げたかった。上げねばならないと、見えない何かに背を押されたのだ。
「龍之介さん……」
「はい」
「ありがとう。そしてごめんなさい。なんだか、卑屈っぽい事言っちゃって」
雛は龍之介をなじるでもなく、ただ自分の不甲斐なさを詫びると何か言いたげなミナトに優しくかぶりを振る。
「彼は昔からずっと優しかったわ。そうしてその親切が他者を傷つける事も知っていて……人の情が織りなす形の先は愛や恋だけじゃないって今なら分かるのにね」
はじめて龍之介が陵に会った日、彼は庭の紫陽花に水をやっていた。振り返った表情に疑念はなく、瑠璃子の事で予約もなしに押しかけた龍之介を追い返す所か、温かく歓迎してくれたのだ。確かにあの日見た彼の瞳のまろやかさと清らかさに、龍之介は一瞬で囚われてしまった。陵あゆむという、絶望と幸福から悦ばれている男を。
雛の家は、どこか陵の平屋に似た匂いがした。それは物理的な芳香というよりも、甘さと少しばかりの寂しさを孕んだ、そんな色。
「すみません、すっかり長居してしまって」
「いいのよ。龍之介さんとのおしゃべり、とても楽しかった。庭もすっごくキレイになったわ。いつもありがとうねミナトくんも」
いつの間にか風の匂いが変わった。太陽の色が徐々に淡く、白く、淀む。
「じゃあ、また。たまには倶楽部にも顔出してくださいよ」
「ええ。陵くんと蓬生くんによろしくね」
「そうだ、龍之介さん。最後にひとつだけ教えて?」
「え、はい」
三時間三十分を過ごし、雛の輪郭が初めより随分はっきりしてきたかのように思える。それは恐らく彼女の心の内側に少しだけ触れる事ができたから。それは恐らく、雛にとっても同じであろう。やさしい匂いがした。
「あなたは」
龍之介は雛の唇があたらしい音を紡ぐまでを、じっと待つ。否、動けなかったと言う方が正しい。
「あなたはどうして倶楽部に入ったの? 陵くんに引っ張られたんでしょうけれど、キッカケは何だったのかしら」
***
「ミナトさんも……人を好きになったり、しないんですか?」
「ん? ああ。しないな」
行きはただ登り切る事だけに力を賭していた坂を、今は重力に任せてゆっくり降りていく。住宅街を抜け、地下鉄に続く一本道がどこか果のない世界の幕切れを思わせた。
帰り際に引き止めるよう投げかけられた雛の言葉こそが、聞きたかった真意であったのかもしれない。龍之介は瑠璃子との事、倶楽部への切っ掛けについてを包み隠す事なく雛へ話した。いや、打ち明けたいと思ったのだ。
「愛はまぁ、わかるよ。広義の意味で猫がすき、赤ん坊がかわいい、近しい人間に対する愛。けど、恋はわかんねぇな」
(それは龍之介さんのギフトよ)
龍之介は夜に溶けていく陽の残滓を眺めながら、雛の声を鼓膜の奥で反芻させた。
好き、きらい。の感情の不可思議さに気づいたのは小学生の頃だったか。しかしあの頃はその二つの境界に恋だの愛だのという絡まった言葉が挟まっていなかったから幾らか楽であったような気がする。
「ギフトって、高見沢さんは言ってくれましたが」
「ああ」
「……自分の性質に気づいていたら瑠璃子のコト、あんなに傷つける事にならなかったんじゃないと思ったら」
地下鉄の入口に吸い込まれると、二人は無機質な匂いを嗅ぐ。帰路を急ぐ仕事人や、友達とのおしゃべりに興じる若者でホームは混雑していた。ミナトと龍之介は電光掲示板に記された数字の羅列を見つめる。
「お前さ、全部自分のせいにして考えるコト、やめてるだろ」
「え?」
「瑠璃子サン、お前が人を愛せないっていうコト多分気づいてたぜ」
電車到着のアナウンスが流れると、空気が膨らむ。熱っぽさに紛れて人が動いた。龍之介は喉の奥にひゅっと熱風が差し込んだ錯覚に、思わずむせ返す。
「人が好きになれないから、恋愛感情が抱けないから仕方ない。俺が悪いからもうそれでいいだろうって、そういういじけた感情っていうのは、存外伝わったりするんだよ」
「じゃあ……どうすればよかったんです」
「しらねぇよ。そんなコト。自分で考えろ」
箱詰めの地下鉄は駅に滑り込むと、人間を吐き出してはまた人間を吸い込み去っていった。二人は地平線のような向かい側のホームを眺めるばかりで足を動かそうとしない。
「……自分で答え、見つける為に陵さんは倶楽部に誘ったんだと思うケド」
朝も夜もない、閉鎖された地下鉄のホームがやけに眩しく思え、龍之介は薄く瞼を落とした。何か言葉を吐き出したら涙まで溢れてしまいそうで、恐ろしかったから。
「あのさ」
「はい」
ミナトはぽっかりと開いた暗い穴の向こうを見つめたまま、スニーカーの爪先を曲げたり伸ばしたりと忙しなくさせる。静かな世界に地鳴りがやってきた。
「陵さんが雛さんに詫びたいと思ってんのは、たぶん……過去に付き合ってたからとかじゃない」
「え?」
逆方向の電車が人を攫っていく。永遠に終わらない旅を繰り返しているような、映画だ。龍之介は雑踏の中でミナトの声にだけ耳を傾けた。
「雛さんのご主人は、久しぶりに四人が集まった食事会で……陵さんを迎えに行って交通事故にあったんだ」
【参 陵あゆむ】
「どうでした? 初めての倶楽部活動は」
「いや、その……お話しをしておやつを頂いただけで」
なめらかな雨がガラス窓を流れていく軌跡は、幾重にも枝分かれした人生の道行きのようにも見える。薄紫色の紫陽花に雨粒が弾け、小さな庭の緑は瑞々しい。雛と会ってから二日が過ぎていた。
「いいんですよ、それで。雛さんは在宅仕事ですので、外からの新しい風に喜ばれたと思います」
「ええ。とても優しくて話しやすい……素敵な方でした」
今日も今日とて本の山を片付けている陵の手が一瞬、止まる。しかしそれはまばたきの間で、陵はそうですか。と少しばかりの他人行儀とまろやかさで龍之介へ労いの声を立たせた。
「さて、百聞は一見に如かず。率直な今の気持ちを聞かせてください」
陵はいつものコーヒーを振る舞う。流石に龍之介もそろそろこの無味簡素に慣れてきた。しかしだからと言って、許諾している訳ではない。
「俺が誰かの助けになるかは、正直まだ分かりませんが、会話とコミュニケーションは切っても切り離せない……大切なものだという事を改めて知りました」
「ええ……言葉とは不思議なものですね。人を幸せにもする反面傷つける刃にもなる。いっそ、言語のない時代の方が余程平和だったと思いませんか?」
煩いくらい静かな雨音は、鼓膜が引っ張られるような違和感が軋み龍之介は薄く唇を噛む。そうしてカップを持ち上げ、ひとくちコーヒーを啜った。
「……それでも」
「はい」
「それでも、俺は言葉を大切にしたいです。会話を放棄した先に傷つけてしまった人がいるから」
鉛を飲んだような重さが胃を責める。けれども龍之介は挫けない。
「おや」
「瑠璃子を絶望させたのは、俺が愛せない人間だったからじゃない。対話を放棄して人をぞんざいに扱う姿勢にです」
今更分かったからと言ってどうにかなる物でもないし、瑠璃子の傷口が塞がる訳ではないが、ミナトに刺されたトゲは龍之介の背を少しだけ正す手伝いを担ったらしい。
「でもね龍之介君。自分を開示したが故に、背負うリスクというのもあります。ではだからどうすればいいのか、なんてマニュアルがある訳じゃない」
いつもより強い陵の口ぶりは、何も龍之介を責め立てたい訳ではない。あくまで一般論と自身が見聞きしてきた経験則だ。
「けれど、初回でもう欠けたピースを見つける目に気づけたならば、それは素晴らしい事だと思います」
「陵さんも……」
(これまで、そういうことがあったんですか)
おもむろに龍之介の口から言葉が溢れかける。しかし次の瞬間、そんな事を聞いてどうしようと思ったのか——と有耶無耶に首を左右に振り絞れば、落雷の嘶きが平屋に響き渡った。
「アユーおるかぁ? タオル貸してくれ!」
ガラガラッ、ピシャ、ドダ、ドダドダッ。
一瞬のさんざめきに龍之介は目を丸くしたまま視線を陵に注ぐも、家主はさして慌てるでもなく呆れた顔で小さく息を吐き出す。
「み、陵さん……だ、だれか、来ましたよ?」
「ああ。ちょっと待っててください」
眉間に皺を刻ませ立ち上がった陵は、平素よりも粗雑な歩みで床を蹴った。いや、もしかするとこちらが本来の姿なのだろうか。
(やっぱりふしぎな人だな……)
遠ざかっていく足音に鼓膜を遊ばせながら、龍之介は天井を仰いだ。
陵の家は奥に長い、所謂うなぎの寝所で、玄関の引き戸の嘶きがこれほど大きく聞こえるのは、それだけ力任せに開いた証拠だ。つまり、その乱暴を許された仲だという事で。
「流石に……ミナトさんじゃ、ないよな」
暫く待つ事十分。初めこそ遠くに喧騒を聞いたものの、突然水を打ったように凪が広がる。龍之介は好奇心から腰を持ち上げれば、廊下に身を乗り出した。すると、地鳴りのようなけたたましさが、突如古い長廊下を軋ませる。
「あ? あンれ、お客さんかねっ!」
「こ、こ、こんにちは」
ゆるい癖毛の前髪と後頭部を景気良く刈り上げた大柄の男は、龍之介に気づくとひょいと頭を下げた。すると慌てて陵が巨大を追い越し、龍之介とのあいさに割り込む。
「え、っと……こちらは。というか、アユって」
「んあ? コイツの事だけど。陵あゆむだから、アユ」
「龍之介君、彼は蓬生先生です。一応、倶楽部のメンバー」
文豪さながらの着流しという出居で立ちは時代錯誤を感じるも、不思議と違和感がない。しかしその頭髪は濡れて無惨に崩れているから、身なりに頓着しない質なのかもしれない。
「おお、お前がウワサの新人か。オレァ、蓬生。えーと龍之介……か。よろしくな、リュウ!」
「あ、は、はいっ! こちらこそ、よろしくお願いします」
立板に水の如く畳み掛けられた龍之介は、つられて声のボリュームが盛り上がる。
陵に蓬生と紹介された男は、その声色とさっぱりとした物言いが表す通り、腹の無さそうな好漢であった。
「蓬生先生はそこのサクラ高校で非常勤講師をしてましてね。まあ、学生の頃から蓬生先生と仲間には呼ばれてまして、あだ名ですよ」
「今はガチで教師じゃけどなあ!」
カラカラと蓬生が笑う度に家屋が軋む。そうして巨漢に昭和造りの家屋は窮屈なのか、どかりとスプリングの悪いソファへ沈むと勝手にその辺の本をめくり始める。湿った雨の匂いが男の背中から立った。
「リュウ、倶楽部はどうや。アユは人づかいが荒いけん、嫌になったらワシに言うとよかよ」
「え、あ、ありがとうございます」
「……龍之介君はつい先日、初めての活動を終えたばかりですよ。それにしても、方言を好き勝手ミックスさせる蓬生弁をいつまでやってるんですか」
平素は肩に小動物でも乗せているような陵が、まるで別人のように顔面筋をできるだけ動かさないように話す口ぶりは飾り気なしに愉快だ。しかし蓬生が一々そのぶっきら棒を気にする筈はない。
「そうか! そりゃお疲れさんやったな。どこへ行ったんじゃ?」
「はい。高見沢さんの所へ。ミナトさんの補佐として付き添わせて頂きました」
いつの間にか弄っていた書籍を傍へやり、蓬生は龍之介が気になるのか生徒に促すよう言葉を繋げる。無邪気な目は慈愛だけではない複雑な色を湛えていた。
「おお、ヒナ子は元気しとったか? アイツにも久しく会ってないからのぉ」
「じゃあ今度は先生が行ってあげてください。雛さんも喜びますよ」
「ハハハ、ヒナ子がいっちゃん喜ぶんは、アユじゃろ」
ふいに、嫌な汗が手のひらを濡れさせる。
龍之介はそのあまりにもあっけらかんとした蓬生の言葉の中から、ミナトにあの日聞いた一連を否応なしに思い出した。
(雛さんのご主人は、久しぶりに四人が集まった食事会で……陵さんを迎えに行って交通事故にあったんだ)
結局核心に触れぬまま、ミナトとはあの日以来会っていない。しかし興味本位で聞くような話ではない事は分かるから、龍之介は事の真相を知っているであろう当事者達を静かに見つめた。
ソファの背もたれにはムギオが丸くなって眠っており、窓の外は相変わらずの雨だ。
この家は、初めて訪れた時から時間がゆっくり流れている気がする。もちろんそれは龍之介の錯覚ではあるが、カップを持ち上げる手や本をめくる空気の膨らみは置き去りにしてきた、本当は大切だった何かを思い出させてくれる。
「龍之介君、これからも倶楽部をお願いできますか?」
ふいに川の流れに投じられた一石は、龍之介の意識を持ち上げた。すると今の今まで機関銃の如く喋くっていた蓬生も、いつのまにか口を結び向き直っている。
龍之介は躊躇う事なく、混じり気のない声で答えた。
「はい。俺でよければ」
本心だ。初めこそ絶望の沼から引っ張り上げられた腕に屈服させられた戸惑いはあれど、ミナトに会い、雛に会い、そうして今日蓬生という男の佇まいに触れた時、龍之介はひとつ欲をかいた。
自分を知りたい。ここに集うひとたちを知りたい――もちろん、陵の事も。
「それじゃあ、改めて。ようこそみささぎ倶楽部へ」
***
「生真面目そうなボンじゃのぉ」
夜になっても止まない雨は、しとしとといじらしさを窓に貼り付けている。二十一時を過ぎると、ここいらは街灯だけが道標になるから、こういった雨の夜は平素よりもずっと頼りない。
「龍之介君はああ見えて、なかなか芯の強い子ですよ」
「昔のアユに似とる。堅っ苦しい頭でっかち」
「……そうですかね」
「ああ、そうじゃ」
卓上には男二人の、なんということの無い夕飯の残りが転がっている。
炙ったフグの一夜干しに胡瓜の浅漬け。春雨サラダとイカリングという何とも取り繕う島もないメニューだが、昔話を語る口には丁度良い。陵も蓬生もザルだが、最近は焼酎の水割りを好んでいる。ビールは高くつくからだ。
「頂き物の真桑瓜。食べるでしょう」
「おお、好物じゃ」
洗い物を片付けた足で、陵はあらかじめ切って冷やしておいた真桑瓜を持ってきた。湿った夜に夏の匂いが爽やかに立つ。年代物の掛け時計がじきに二十二時を過ごそうとしている。
「……今度はいつまでこっちに居られるんです」
「夏休み前までは代理授業がいくつか入っとるでな」
瑞々しい真桑瓜をフォークで突くと、汁気がじわと湧き上がる。まだ熟しきっていない果実は、甘すぎず媚びない所が良い。陵はちら、と目の前に座る蓬生を見やる。黙っていればそれなりに先生らしくもあるのだ。
「部屋は一応片付けて風は通してありますけど、帰るならせめて一日前には連絡くださいよ」
「悪い。急に長野での仕事が早くに終わってのぉ」
「だから、連絡をしろと言ってるんです。予定変更の言い訳じゃなく」
二人は同居人であるが、東へ西へと飛び回り一年の内三ヶ月もじっとしていない蓬生は、最早居候のような立場であった。加えてマメに予定を伝える質ではないので、陵の塩対応の所以はこういった日頃の燃え滓の集まりだ。
「アユは冷たい。久しぶりに会った親友じゃけ、こうもっとな、親切に……」
口の周りを氷菓で濡らしながら、蓬生は相変わらずの調子でおどけてみせた。いや、いっそこれは取り繕わない本心か。
「……こっちに居る間に、後回しにしてた事ちゃんと片付けてってくださいね」
「ああ。ヒナ子の顔も見たいし、マサナリの墓参りも行かんとな」
ふっと突如冷えた青い空気が流れ込む。
カラになった皿にフォークを残すと、蓬生は焦点の不確かさで陵を見た。
「なあアユ。マサナリもヒナ子もなんも、なんも恨んどらん。知っとるじゃろ」
「知ってますよ。何年一緒にいると思ってるんですか」
こういう雨の夜、陵は弱った。心をざわざわさせて覚束ない指先で本をめくり、ひたすら朝になるのを待つ。だから、今夜、蓬生は帰ってきた。孤独を恐れない男が本当は何に身を震わせているかを知っているから。
「あん夜は、本当に不慮の事故やった。マサナリはヒナ子の代わりに行ったワケじゃなかぞ。アイツはお前さんの……」
「先生、お説教ならやめてください」
抑揚のない声は、いっそ泣いているようであった。
「ワシは、心配しとるんじゃ」
「わたしは大丈夫です」
その言葉がいかに信憑性の薄いものかを知っているだけに、蓬生は駆けてきたのだ。あの頃から随分時間は経ったが、こういう初夏の雨が降りしきる日は決まって思い出すから。そうして心を寂しくさせ、静かに己を責め、そして生きる。
「じゃあなしてそない……能面みたいな顔しとんのや」
「こういう顔ですから」
「……ああーもう、そうじゃねぇ! 今年はマサナリがいなくなって五年になるだろ。そんで幸か不幸か、リュウという新しい風がやってきた。奇しくも昔のお前によく似た悩みを持つ」
次第に大きくなる声に、起きてきたムギオが八の字を作りながら蓬生の足元へ絡みつく。二人が喧嘩でもしていると思ったのか、仲裁にやってきたらしい。
「すみません、心配をかけましたね」
ムギオを優しく持ち上げれば、陵はようやくいつもの調子で笑った。確かに蓬生が来てから、ひりひりとしていたのは否めない。それは甘えからの苛立ちである事は、二人とも知っている。
人を愛せない陵を雛は好きになった。そうしてその凪いだ海のような慈悲が静かに錆びはじめている事を、マサナリ――高見沢正成は気づいていた。雛の事を見ていたからこそ分かる、小さなほころび。
だからこそ半ば強引に雛を自分へ向き直らせた正成は、雛と陵に罪を抱いていた。そうして罰せられるべきだとも。
「本当に大丈夫です。わたしにはミナト君や新人の龍之介君。それに……あなたがいる」
ムギオを撫でる手は優しく、温かい。これもまた、ひとつの愛に違いない。
陵は置いていかれた子どものような目の蓬生に愛猫を手渡す。短毛種だが生え変わりの時期はよく毛が舞った。
「そうじゃ。ワシはお前の隣におる」
「ええ。あの日、あなたに告げた言葉は今もずっと、変わりません」
「ああ。恋愛感情をもたなくても、私は誰かと共に人生を歩きたい……一日たりとて忘れた事はなか」
陵は舌の上で遊ばせていた青い果実をようやく読み下す。
「先生」
「おう」
もう一度、音にならない声で陵は大丈夫。と念を押した。
「わたしは、こうやって世界の愛に救われているんですから」
終
