「クロノス・フラグメント」第二話
「い!や!だ!」
佐治が語気を強めてそう言った。
「当初はあんなに陽凪さんと組みたがっていたのに……腰が落ち着かない人ですね」
陽凪達は佐治の事務所に居た。事務所では、黒猫・ケット・シーは人型に戻っていた。黒髪と黒目も相まって、オフィス街で働いているキャリアウーマンのような見た目だった。
「だって、セラ~。私は『クロノス・フラグメント』をいい感じの所で掠め取る作戦で行こうと思ってたんだよ〜」
「ハイエナみたいだね!凛ちゃん!」
黒いドレスを着た銀髪、赤眼の幼い少女が楽しそうにそう言った。
陽凪が緊張したように息を呑む。頬から冷や汗が一筋、流れ落ちた。
「…僕だってまだ受け入れられていませんよ…。まさか、自分の胸に『クロノス・フラグメント』が埋め込まれているなんて…」
陽凪がシャツの隙間から自身の胸を覗き見る。胸の中央には抉られて、その後、自然治癒したかのような傷跡。そして、傷跡の中心に埋め込まれていたのは、脈動を繰り返す青い宝石、『クロノス・フラグメント』だった。
刃が時を切り裂いた。
その数瞬、超越者の腹部に刻まれた裂傷からどす黒い血が大量に吹き出す。
しかし、まだ超越者は倒れない。
後ろを振り返り、陽凪を捉え直す。
陽凪も瞬転、『奪魔刃(エルバレスト)』でトドメの一撃を叩き込もうとする。
手刀と刃が交差した。静寂の時が訪れる。
超越者の胸部には、深くまで食い込んだ漆黒の刃。そして、陽凪の胸部にも深くまで食い込んだ手刀があった。
しかし、先に膝をついたのは、超越者。
体が灰となって宙に舞い、残ったのは金の刺繍が施された黒いローブだけだった。
「大丈夫かい!?陽凪君!」
佐治が急いで陽凪の元へ駆け寄った。
手刀を深くまで差し込まれた陽凪は、微動だにしなかった。
虚ろな目が宙を彷徨っている。
「ちょっと!おーい!」
佐治が陽凪の肩を大きく揺らす。
「はっ!」
陽凪の目に焦点が戻る。
「佐治さん!重傷者になんて事をするんですか!」
黒猫渾身の猫パンチが佐治の頬に炸裂した。
「いたい!」
「ホントだよ!えいっ!」
少女の硬いブーツで繰り出された渾身の蹴りが佐治のすねに炸裂した。
「本当にいたいよ、リーンちゃん!」
佐治がすねを抑えて悶絶する。
そして、陽凪の体が再度、水の膜で覆われた。
「体の調子は大丈夫ですか?陽凪さん」
「はい…それが以外に何ともなくて…」
「…まだ痛みが回っていないのでしょうね…。ここから、悠界一層を経由して、佐治さんのオフィスに向かおうと思います。それでも、大丈夫ですか?」
「はい…。あと、すいません…少し眠くて…」
「大丈夫ですよ。危険はありませんので、安心して眠っておいて下さい」
「分かりました…」
陽凪の瞼が静かに閉ざされていく。
そのまま、一行は早急に退散した。
そして、今に至る。
「いやだああぁぁ!!」
佐治が子供の様に駄々をこねる。
「良く考えてみてよ!セラ!あの神話級の遺物、『クロノス・フラグメント』なんだよ!ヴィルテノムが総力を挙げて取り立てに来るに決まってる!ていうか、なんでそもそも陽凪君の体に現れるのさ!」
「…………」
セラと呼ばれた黒猫の女は、口を噤むことしか出来なかった。
佐治にしては珍しく、至極真っ当な意見だった。それ程にヴィルテノムの研究機関としての規模は絶大であり、戦力に至っては個人でどうこうできるものではなかった。
「『ヴィルテノム』の雑兵共が来るならまだしも、『円卓十二席』の連中が来れば私達は簡単に捻り潰されてしまう…」
掠れた声でそう言い終えると、佐治は机に突っ伏して、動かなくなってしまった。
事務所にどんよりと重い空気が伸し掛かった。
「あのー、佐治さん」
陽凪がおもむろに顔を上げて、声を上げた。
「なんだい…」
絞り滓のような返事だった。
「百パーセントそうなると決まったわけではないのですが…多分、ヴィルテノムは傍観の立場を取ると思います…」
「……本当かい?」
「確実ではないんですけど…。僕は元々、ヴィルテノムの中でもかなり実験的な立場にいました。恐らく、あの機関は僕に埋め込まれた『クロノス・フラグメント』を観測するという方向で進むと思います」
佐治が机から顔を上げた。顔には少し疲労が溜まっていたが、先程よりかは緊張が解けていた。
「そうなのかい…。いや〜それならば、とりあえず一安心だよ」
「………いえ、まだです」
「え?」
「…まだ、ヴィルテノムからの勧告が出ていません」
「…というと?」
「恐らく、今夜は眠る事はできないでしょう…」
「そんなぁ…」
佐治が再び、机に突っ伏した。
「あの、少し質問よろしいでしょうか?」
「はい、どうかしましたか?セラさん」
「あの機関の情報収集能力の高さは噂で兼ね兼ね伺っております…。となると、それよりも早く情報を集められる者など本当に存在するのでしょうか…」
陽凪がそれを聞いて苦虫を噛み潰したような顔になる。
「普通はいません……。けど、一人だけいるんです…」
「大丈夫だよ!私がちゃんと結界張ってるから!」
机の上に乗るリーンが元気よくウィンクとサムズアップをした。
「普通はそれで大丈夫なんですよ…けど、あいつは本当に…」
「おいおい、ちょっと待ってくれよ、自分で言うのも何だけど、陽凪君が加わった今の私達は相当、強いはずだよ。それなのに、たった一人をそんなに怖がるなんて…」
確かに異常だった。佐治は上位精霊を二体も連れる極めて優秀な『契約者』であり、陽凪にしても特殊技能はないが、『深域観測者』として一段抜けた成果を保持している干渉者だ。
その『干渉者』として優秀な二人が集まれば、余程の例外がない限り、負けるはずはなかった。
「『葉隠』って知ってますか…?」
「ん?忍者の末裔かい?」
「そうです…。そいつはその家系の中で一段飛び抜けた怪物です…」
「……………」
「そして、『両次干渉』の天才でもあります。そいつは悠界八層から、精神ではなく肉体に直接攻撃する事ができます」
「…冗談ではないよね…」
佐治が引き攣った笑みを浮かべながら、尋ねたが、陽凪の表情は硬いままだった。
「武装は拳銃、クナイ、鎖鎌…なんだって使ってきます。隠密はもちろん、真正面から戦ってもまず負けます。……僕の知る限り、彼女は最強の暗殺者です。結界が破られ次第、急いで悠界八層に潜って固まって下さい」
緊張の膜が部屋を覆った。誰もが動くことも喋ることも出来ないような空気だった。
その中で、黒ドレスの少女、死精霊(バンシー)のリーンが恐る恐る手を上げた。
「ごめん…。リーンの結界、とっくの前に破られてたみたいで…」
「「「……………」」」
沈黙の帳が降りた瞬間、陽凪の頭には拳銃が当てられていた。その女は灰色の髪に灰色の目。背は高く、口元にガスマスクを着けていた。瞳は氷のように冷たく、生気を全く感じさせないような立ち居振る舞いだった。抑揚のない声が耳に届く。
「死ね」
拳銃のトリガーが引かれ──────
─────破られてたみたい……うええぇっ!!」
陽凪が背後に向けて回し蹴りを見舞わした。すると、何もないはずの虚空から女の姿が現れた。女は回し蹴りを軽く往なし、背後に少し下がった。
「『巻き戻し』……。でも、これで、もう陽凪はろくに動けない……」
「うっせぇ、和葉(かずは)────ゲボッゴハアッ!!」
悠界外での時間操作、それは自殺行為に等しい所業だ。陽凪の口から滝のように血が吐き出され、四つん這いのような姿勢で和葉を睨み付ける。
「っ!zoudecken!(覆い隠して!)」
黒いヘドロのような膜が陽凪達を灰色の女、和葉と分断する形で覆い尽くした。
黒色のドームは悠界二層において広げられ、佐治の事務所よりも遥かに拡張されていた。
そして、陽凪達の周りを更に水の膜が覆った。
「…申し訳ありません。私も結界を張っておくべきでした」
黒猫の姿に戻ったセラがそう言って、陽凪の体に手を当て、癒やした。
陽凪の体に爽やかな魔力が流れる。
それでも、陽凪はもう動くことが出来なかった。仰向けになり荒い呼吸を繰り返す事しかできない。
「あわわわわ…どうしたら良いんだよこんなの…」
「っ!陽凪さんの仰っていた通り、できる限り固まりましょう。敵がいつどこから現れるか分かりません!」
黒猫が臨戦体勢を取る。そして、ブツブツと詠唱を続けていたリーンが
「E Besuch vun der Ënnerwelt, schnufft et eraus, bréngt et eran,schwaarz Hond!(黄泉からの来訪、嗅ぎ分けて、手繰り寄せて、ブラックドッグ!)」
泥の中から、二匹の黒犬が現れる。獰猛な黒犬は水の膜の外を徘徊し始めた。
リーンも限界が近かった。白い肌から汗の粒が何滴も流れ落ちる。
「………セラさん…」
「陽凪さん!あなたはもう喋らないでください!」
「……一度だけ、『クロノス・フラグメント』を使います…」
「!!」
「恐らく、あいつはもう強行突破してきます…そして───────」
陽凪が辿々しく作戦を説明する。
「了解しました!いつでも用意──────」
「ブラックドッグが倒されてる!」
リーンが悲鳴のような叫び声を上げる。
数十メートル先には血を流し、結界内で倒れ伏すブラックドッグ。誰一人として殺害の現場に気づくことのできない、暗殺者としての圧倒的技量。
そして、正面には小刀を握りしめ、疾走する和葉の姿。幾重にも分裂を繰り返し、『本線』を巧妙に隠していた。
「っ!今です!」
陽凪の『クロノス・フラグメント』が妖しく発光した。その直後、
「!?」
和葉の思考が驚愕に染まる。まだ二十メートルは距離があったはずだ。その距離が一瞬で埋められた。そして、目の前には氷槍を宙に構える黒猫の姿。
『時間の誘引』。それが陽凪の能力だった。
