親心子知らず
一番近くにいる人は、やっぱり会話も多いし言動が目に毎日のように合えば過ごせば過ごすだけ入ってくる。
それってすごく相手を理解するのに役に立つことに当たり前すぎて忘れたと思う。
夫婦として生きてきて、まだそんなにうん十年一緒にいた老夫婦の気持ちやその境地がどんなものなのか理解することはとっても難しいけれど、
自分の生きてきた経験は経験なりにしっかり降り積もっている。
新しい家族をもって、それは自分で選んで、覚悟をもって決めたとしても、気づいたら一緒にいたとしても、流されて一緒になったとしても、変わらずしっかりとした一緒にいるという貴重な時は流れていく。
そんな毎日を積み重ねている間に、すっかり実の親の気持ちがわからなくなっていく自分に気づいた、いや、本当は見えてるし分かっているし、表面上の都合や生活背景がおぼろに見えている以上、今までのその生きてきた年数分付き合ってきた人物である親の気持ち言わんとしていること考えや意思、私への伝えたい真意はつたわってくる。それは本音だけれど、その伝わってくる理解できるがゆえに、新しい家族と過ごしている間に開いた親との理解のズレというものに気が付くことが増えた。見えるようになってきた。
子供のころ、親が祖父母に一生懸命話している姿を見てきた。まぁ親の時間だからと子供ながらに割り切って、休日を楽しんで遊びに行っていたが、今思えばあの記憶のあの中の親の心とはこのような感じだったのではないか。
嫁ぎ先の常識は親には伝わらない。そして自分がどれだけ成長しているか親はちゃんと感じ取ってくれるのか、加味してくれるか。
雑音を排除して会話してコミュニケーションをとり、相手を見つめるということをしなくなったら、あるいはどちらかが辞めてしまったら、きっと親と話すことは、自分の成長を引き留める足かせになっていく。
だから足が重く向かなくなっていくのかもしれない。
この現実を受け止めて認めて、それは我慢するところなのか、それとも解き放たれるところなのか。私だって、変わるんだよと、これだけ言動で示しても、それを受け取るよりも、現実にそばにいる人に引っ張られていく誰よりも血を分けている家族の視線に悲しみを覚えた。
いいたいことがわかるのは子の心。
将来私も、子供に同じ境遇を体験させるのだろうか。そして親心を知るのであろうか。
いや今日から気を付けてやらねばならないのかもしれない。信じてやらなければならないのかもしれない。
