冷笑はもう古い。これからは「反骨」だ。
少し前までこの社会では、冷笑できることが賢さの証明のように扱われていた気がする。
何かに本気になる前に一歩引く。
夢を語る前に「まあでも現実は」と言う。
熱くなっている人を見れば「痛い」と笑う。
希望を語る声には、「どうせ無理」と先回りする。
その方が傷つかない。
期待しなければ失望しない。
本気にならなければ、負けてもそれは「本当の自分」ではないことにできる。
くだらないことに全力で生きる人から一線を引くことで、そんな愚かな人とは別だと思える。
冷笑は、防御としてはとても優秀だ。
しかし、だからこそ私は思う。
冷笑の時代はもう古い。
今この時代に必要なのは、もっと熱くて、もっと不器用で、もっと生きている態度だ。
それが、「反骨」である。
冷笑は、弱さのニヒリズムだ
冷笑文化は、一見すると知的で成熟した態度に見える。
全部を見抜いているような顔をして、何にも乗らず、何にも賭けず、何にも期待しない。
だが、その本質はむしろ逆ではないかと思う。
それは、無意味を見抜いた強さではない。
無意味を言い訳にして、意味を作る責任から逃げた弱さである。
(ここで言う冷笑は、哲学用語としてシニシズムを厳密に論じたいわけではない。
本稿では、何も信じず、何にも賭けず、賢そうに一歩引く現代的な態度を、弱さのニヒリズムの現れとして捉えている。)
ニヒリズムには、強い形と弱い形がある。
強さのニヒリズムは、価値が絶対ではないと知った上で、それでもなお何かを選ぶ。
保証のない世界で、自分の足で立つ。
意味がどこかから与えられるのを待たず、自ら引き受ける。
一方、弱さのニヒリズムは違う。
世界の無意味に耐えきれず、価値を作ることも、引き受けることもやめてしまう。
そのまま無気力に流され、まだ何かを信じようとする者を笑う。
それが冷笑だ。
価値を信じないところは良い線いっている。
実際世の中に絶対的に価値あるものなんてないに等しいのだから。
だが価値を作ろうとしない、そこが浅い。
何も信じないことを賢さと取り違え、何にも参加しないことを自由だと錯覚する。
人生が無意味な事実を知っているだけで、結局無気力に流されている。
冷笑は弱さのニヒリズムなのだ。
実際にはそれは、
永遠にも瞬間にも負けている態度でしかない。
ニヒリズムに勝つには、「今」を持ち出すしかない
ニヒリズムが強いのは、悠久を味方につけているからだ。
永遠の時間の前では、人間の営みはあまりにも小さい。
どうせいつか死ぬ。
どうせ文明も終わる。
どうせ歴史の中では誤差にすぎない。
そうやってニヒリズムは、「悠久」という尺度で今を押し潰してくる。
その視点自体を、私は否定しない。
実際そうなのだろう。
人間の情熱も苦悩も、宇宙規模で見ればほんの一瞬の塵かもしれない。
けれど、だからこそ思う。
ニヒリズムに勝つためには、悠久の相対として今を持ち出すしかない。
永遠は大きい。
だが、広いだけだ。
いま息をしているこの一瞬、その密度、その熱、その痛み、その決意までは奪えない。
虚無な悠久に対して、今この瞬間を差し出す。
「それでも私はここにいる」と言う。
「どうせ無意味だとしても、この一歩だけは私のものだ」と掴む。
その瞬間、人は確かに勝っている。
全部を救えなくてもいい。
永遠そのものに勝てなくてもいい。
ただ、虚無が今を飲み込もうとするその瞬間に、今を手放さないこと。
そこにこそ今この瞬間の勝利がある。
冷笑は、今にすら賭けられない
ここで、冷笑の弱さがはっきり見えてくる。
冷笑は、悠久の前で価値を立てられない。
「どうせ全部無意味だ」と言って屈する。
それだけでも敗北だ。
しかし冷笑は、それだけでは終わらない。
今この瞬間に対しても、賭けることができない。
本気になることを恐れ、熱くなることを恥じ、傷つく前に笑って距離を取る。
つまり冷笑とは、
永遠にも負け、瞬間にも負ける、二重の敗北なのだ。
何かに期待し何かに賭けて失敗することは、たしかにイタい。
だが、何にも賭けずに生きることは、それ以上に空虚だ。
なぜならそこには、敗北すらない代わりに、勝利の可能性も、生の当事者性もないからだ。
冷笑は痛みを避ける。
しかし、その代償として熱も失う。
傷を防ぐ代わりに、鼓動まで弱くしてしまう。
だから私は、冷笑の時代はそろそろ終わっていいと思っている。
たとえば、松岡修造を冷笑してみる
ここで一つ、わかりやすい例を挟みたい。
たとえば、ここに松岡修造が全力で寝ようとする動画がある。
これを冷笑できるだろうか。
さて。上手に冷笑できただろうか。
うまく一歩引いて、無意味さを指摘できただろうか。
(正直冷笑以前に滑稽通り越して面白い動画だったんじゃないだろうか。)
だが、ここで一度立ち止まって考えたい。
無意味な世の中でも全力で今を生きている松岡修造と、
その無意味を安全圏から笑っている傍観者のあなた。
この瞬間、どちらがより楽しい人生を送っているだろうか。
どちらが世界に参加しているだろうか。
どちらが、自分の熱をちゃんと生の側に投げ込んでいるだろうか。
冷笑は、その場ではスマートに見える。
でもそれは、熱のあるものを笑うことで、自分が熱を持たずに済む位置に逃げているだけかもしれない。
松岡修造は、テニスプレイヤーだった頃から痙攣などの苦痛に苦しみながらも、それでもコートに立つことをやめなかった。
倒れるほど追い込まれてなお前に出るその姿は、何も知らない無謀な根性論ではない。
むしろ無意味なものすら、全力で生きる側に変えてしまう。
そこにこそ、冷笑では絶対に辿り着けない強さがある。
苦痛も敗北も無意味も知った上で、それでもなお生の側に立とうとする、反骨そのものだったのだろう。
冷笑は意味のなさを見抜く。
だが反骨は、意味のなさごと燃料に変える。
だから言いたい。
もっと熱くなれよ!
次の時代は「反骨」だ
では、冷笑の次に来るものは何か。
それが反骨だ。
反骨とは、単なる逆張りではない。
世の中に文句を言うだけのポーズでもない。
反抗的なキャラを演じることでもない。
反骨とは、
全てが不条理であることを知った上で、それでもなお抗う意志である。
世界は公平ではない。
努力は報われないことがある。
善人が勝つとも限らない。
意味は与えられず、未来も保証されない。
それでも、「だから降りる」ではなく、
「だが降りない」と言うこと。
「だから笑って流す」ではなく、
「ふざけるな」と歯を食いしばること。
それが反骨だ。
冷笑が守りの快楽なら、反骨は攻めの快楽である。
冷笑は体温を下げる。
反骨は体温を上げる。
不条理に対して斜に構えるより、
不条理そのものに牙を剥く方が、ずっと気持ちいい。
ここで言う「気持ちいい」は、安易な快楽ではない。
安全でも、効率的でも、賢そうでもない。
むしろ傷つくし、消耗するし、馬鹿に見えることもある。
それでもなお、冷笑より反骨の方が気持ちいい。
なぜならそこには、今その瞬間自分が世界の中にちゃんと参加している感覚があるからだ。
虚無に飲まれながら、それでもなお立ち上がる感覚があるからだ。
反骨は、ニヒリズム通過後の肯定である
ここで大事なのは、反骨が単なるポジティブ思考ではないということだ。
世界は素晴らしい、と信じているわけではない。
頑張れば全部うまくいく、と思っているわけでもない。
不条理を知らないから明るいのではない。
むしろ逆だ。
反骨は、不条理も虚無も、敗北も無意味も見た後に出てくる。
全部見た。
全部知った。
世界に希望がないことに気付き絶望した。
それでも、なお、抗う。
その意味で反骨は、
ニヒリズムを通過した後の生の選び直しだと思う。
「どうせ無意味だ」と一度は思ってしまう。
「全部終わる」と知ってしまう。
「努力や希望なんて幻想ではないか」と疑ってしまう。
そこを通った人間だけが持てる、二度目の意志。
それが反骨だ。
だから反骨は軽くない。
明るいだけでもない。
そこには、深い絶望を見た者だけが持てる重さがある。
反骨は、生の側につくということ
結局のところ、冷笑と反骨の違いは何か。
それは、生の側につくかどうかだと思う。
冷笑は、世界に負ける前に自分から距離を取る。
「どうせ」を先に言うことで、自分を守る。
しかしそのぶん、生の厚みからも降りていく。
反骨は違う。
世界がクソでも、時代が歪んでいても、運命が不公平でも、ヒトがどんなに愚かでくだらない生き物でも、
それでもなお、生の側に立とうとする。
何かを信じきれなくてもいい。
毎回強くいられなくてもいい。
勝てなくてもいい。
他人にどう見えるかではなく、自分が生を引き受けている感覚でいい。
それでも、降りない。
鼻で笑って終わらせない。
「知らない」と言いながら、なお手を伸ばす。
その態度こそが、生の肯定なのだと思う。
冷笑より、反骨の方が気持ちいい
私はもう、冷笑に時代を代表させたくない。
賢そうに見える敗北より、
不器用でも熱のある抵抗の方がいい。
世界を見切った顔をするより、
世界に対して「まだ終わってない」と言う方がいい。
どうせ終わる。
どうせ無意味になる。
どうせ全部は救えない。
世界に繋がる手段が増え、知ってしまう情報の範囲がみるみる広がっていく現代。
そんな宇宙規模に見てしまえば人間の営みなどすべて誤差だ。
無意味だと言われれば、その通りなのかもしれない。
それでも、今はある。
この一瞬はある。
この鼓動、この怒り、この意志、この反発、この今を生きている私はある。
ならば、ここに賭けるしかない。
冷笑はもう古い。
これからは反骨だ。
全ての不条理に逆張りし、抗う。
世界がこちらを諦めさせようとしてくるなら、なおさら「だが断る」と言う。
そしてたぶん、不条理な世界の中では、絶対的な正しさすらどこにも保証されていない。
他人を冷笑したところで、こちらの無価値が埋まるわけでもない。
だとすれば重要なのは、この無価値かもしれない命を、どんな態度で生きるかだ。
せめて私は、冷笑よりも反骨の方を選びたい。
その方が、ずっと生を使っている感じがするからだ。
たとえどんなに無意味でも、
世界の不条理に反骨し、
今の自分を全力で生きてるこの瞬間は、
冷笑よりも、ずっと気持ちいい。
そしてできることなら、
いつかはこの不条理な運命すらも、
反骨の末に自分のものとして愛せる生にしたい。
