アファンタジアやSDAMに関する雑記①(2026.1.31~3.4/x.comより)
※ 用語の説明:アファンタジアとは? SDAMとは?
※ 次回の雑記:雑記②(2026.3.4~5.20/x.comより)

⬛️脳科学の分野はもちろん、アファンタジア研究でもよく使われる「fMRI」
出典(x.com):無像之像
脳科学の分野はもちろん、アファンタジア研究でもよく使われる「fMRI」。これは、MRI装置(磁石と電波)に入った人の脳を撮影し、神経活動に伴う血流や血中酸素濃度の変化(BOLD信号)を調べることで、ある課題や刺激に対して「脳のどの部位が、どのくらい働いているか」を間接的に知る手法のこと。
これまで「神経が活発になると血流が増えてBOLD信号も上がる」と考えられてきたわけだが、最新の研究(下記)によれば、この関係は必ずしもすべての部位で成り立つわけではなく、BOLD信号の変化が神経活動と一致しない(逆の反応を示す)ケースも少なくないという。
超要約すると「脳のこの場所が光っている ⇒ そこが働いている場所だ!」という単純なケースだけではない、ということ。
関連する記事はこちら:
AIによる論評はこちら:

⬛️Visual mental imagery in typical imagers and in aphantasia
出典(x.com):無像之像
Visual mental imagery in typical imagers and in aphantasia: A millimeter-scale 7-T fMRI study
by Jianghao Liu et al. (2025)
論文概要を読んだ私の所感:
ハチマキを頭に巻いたとき、オデコから耳の上あたりまでハチマキが当たるでしょ?
このハチマキの前の方から頭のてっぺんあたりに当たる側の脳を、前頭頭頂ネットワーク(いわば司令室の分室)という。
一方で、ハチマキの後ろの方、ちょうど後頭部に当たる位置にある脳の部分に、視覚野(いわば映像室)がある。
この論文(Liu et al. 2025)では、司令室と映像室のあいだの連携が、イメージを意識的に体験するために重要な役割を果たしている可能性が示されている。
その観点から見ると、アファンタジアは「イメージ」が「意識」に「載っていない」と捉えることもできる。
なぜ「載らない」のか? もしかしたら司令室と映像室がうまく連絡を取り合えていない可能性が考えられる。

⬛️SNS上でアファンタジアに関する話題が増えてきたように思う
出典(x.com):無像之像
SNS上でアファンタジアに関する話題が増えてきたように思う。三年前と比べると、かなり認知されてきたようだ。一方で、SDAMのほうはまだまだ世に知られていない。だが、アファンタジアと併存することも多いはずなので、いずれ知れ渡るだろう。

⬛️最近の私の関心は、アファンタジアよりもSDAMの方に強く傾いている
出典(x.com):無像之像
最近の私の関心は、アファンタジア(心的イメージ体験の全生涯的不在)よりもSDAM(自伝的記憶再体験の全生涯的不在)の方に強く傾いている。
正直、非SDAM者たちが語る内的世界のありようは、未だに信じがたい。けれど、どうやらそれは現実なのだという。
例えば、「あの頃の風景」や「初めての体験」といった特定の場面が、映像や音、匂い、そして当時の感情と共に鮮明に蘇るという。
彼らにとっては「あそこにいた自分」の存在がリアルで、思い出すだけで胸が熱くなったり、思わず笑みがこぼれたりするそうだ。
さらには「あの時の私はこう感じていた」という再体験や、今再びその場に立っているかのような「タイムトラベル」すら日常的に行っているらしい。
もちろん個人差はあるのだろうが、人類のほとんどがこうした現象を日常的に体験しているのだという。
彼ら彼女らは日々、奇跡を体験しているといえる。

⬛️ここ数年、SNS上で「アファンタジア」の動向をウォッチしてきたが
出典(x.com):無像之像
ここ数年、SNS上で「アファンタジア」(心的イメージ体験の全生涯的不在)の動向をウォッチしてきたが、ずっと、ずーーっと波風の立たない状況だった。ところが2026年の今、にわかに話題になり始めている。おそらく下記コンテンツの影響だろう。
『物語が 見える人、見えない人、アファンタジアと脳科学』2025.12.03
『アファンタジアであるとは、どういう人生を意味するのか』2026.01.03
やはり影響力のあるメディア(あるいは人物)が取り上げると、広範囲に認知が広がるようだ。
しかし、「アファンタジア」と併存することが少なからずある「SDAM」(自伝的記憶再体験の全生涯的不在)のほうは、まだまだ知られていない。
だが、時間の問題だろう。

⬛️詳しくは知らないが、かつてハイデガーという哲学者がいたそうだ
出典(x.com):無像之像
詳しくは知らないが、かつてハイデガーという哲学者がいたそうだ。
彼の著作『存在と時間』によると、人間のあり方の特徴は「時間性」にあるらしく、過去(すでにあったこととして自分に投げかけられた状態)、現在、未来という三つの時間の広がりが一つの構造として結びつき、特に未来の可能性に向かう姿勢が軸となって過去と現在がつながることで、本来的なあり方が開かれる、というのが彼の主張だそうだ(※あえて単純化してます)。
しかし、先天性アファンタジア(心的イメージ体験の全生涯的不在)かつSDAM(自伝的記憶再体験の全生涯的不在)の当事者である私個人の立場から言わせてもらうと、過去は「事実」として、未来は「予定」としては把握されており、そこに物語性(時間の流れを軸としたアイデンティティのあり方)はない。
私の「時間性」は主に「いま」に基づいている。したがって、ハイデガーの「時間性」と私の実感はかなり異なる。そんなわけで、私は『存在と時間』の哲学にあまり興味がわかない。おそらくハイデガーは非SDAMの人間だったのだろう(※憶測です)。
彼の人間観は、特定の認知機能(エピソード記憶)を前提にしていた可能性がある(※証拠はありません)。それは多くの人には響くかもしれないが(※憶測です)、私には当てはまらない。
ただ、一般に言われるところでは、晩年のハイデガーは「あるがままに放っておく」という態度にたどり着いたそうで、私としてはこちらのほうが共感できる。

⬛️ベルクソンのことは名前くらいしか知らなかったので少し調べてみたが
出典(x.com):無像之像
引用:https://x.com/hiraiyasushi1/status/1814125585343639764
ベルクソンのことは名前くらいしか知らなかったので少し調べてみたが、もしかしてかなりイメージ優位の内的体験を前提にしていたのだろうか(※憶測)。
アファンタジア(心的イメージ体験の生涯的不在)やSDAM(自伝的記憶再体験の生涯的不在)の立場から見ると、ベルクソンの哲学とはあまり相性が良いとは思えないように感じる。
参考 ⇒ Henri Bergson (Draft)

⬛️英国を代表する認知神経学者であり、アファンタジア研究の第一人者、アダム・ゼーマン氏
出典(x.com):無像之像
引用:https://x.com/kitaohji_syobo/status/2021756469348053425
英国を代表する認知神経学者であり、アファンタジア研究の第一人者、アダム・ゼーマン氏。
2015年の論文では『Lives without imagery – Congenital aphantasia(イメージのない人生 – 先天性アファンタジア)』というタイトルだった。
ところが、2025年の最新書籍では『The Shape of Things Unseen: A New Science of Imagination(目に見えないものの形:想像力の新科学)』に変わっている。
これは氏なりの現代的なアップデートであり、明確な意思表明なんだと思う。
一方で、日本のアファンタジア研究の草分けで知られる著者らの2025年の新刊は、『イメージの〈ない〉世界に生きる アファンタジア』。
正直、まだ視点がアップデートされていないように感じてしまう。著者らの専門が「特別支援教育・障害理解」であることが、影響しているのかもしれない。
ゼーマン氏も日本の著者らも、掲げているのは同じ「脳の多様性(ニューロダイバーシティ)」。だが、どちらに共感するかと言われれば、アファンタジア当事者である私個人としては断然ゼーマン氏の方だ。
日本のアファンタジア研究の第一人者とされる方々が、今なお「欠如」や「欠損」を強調するようなスティグマ(負の烙印)をタイトルに選び続けていることには、どうしても拭いきれない違和感を覚えてしまう。

⬛️心的イメージは、海馬が構成する時空間モデルに支えられており、アファンタジアやSDAMはそのモデルの使い方が通常と異なるため
出典(x.com):無像之像
論文:https://www.mdpi.com/2411-5150/9/1/2
心的イメージは、海馬が構成する時空間モデル(「場面の骨組みと時間の流れ」といった下地)に支えられており、アファンタジアやSDAMはそのモデルの使い方が通常と異なるため、内容を理解できても「感じとして思い浮かべること」が難しくなる状態として理解できる。だそうだ。

⬛️個人の中だけにある内的世界(クオリア)での色体験(の関係性)を数学的に構造化して他者と比較できちゃうという魔法
出典(x.com):無像之像
引用:https://x.com/NaoTsuchiya/status/2023579615697281138
個人の中だけにある内的世界(クオリア)での色体験(の関係性)を数学的に構造化して他者と比較できちゃうという魔法のような(※現実です)新しい学問の誕生を予感させる!!

⬛️先ほど「予体験」という言葉を初めて目にした
出典(x.com):無像之像
先ほど「予体験」という言葉を初めて目にした。わずか3文字。これはいい。
アファンタジアやSDAMの文脈で「再体験」とは、過去の事象(エピソード記憶・自伝的記憶)の体験が再びあること・ないこと。
「予体験」とは、おそらくベクトルが現在あるいは未来の方向、すなわち過去の記憶に基づいた仮想(シミュレーション)のことだろう。
つまり、私自身の性質を言語化するとしたら「自伝的記憶の再体験かつ予体験の生涯的不在」と表現できる。と思う。
メモ:
「追体験」「先体験」という言葉もある。

⬛️flashなし且つvoluntary/involuntaryを問わないcongenital total multisensory aphantasiaとSDAMが併存してるケース
出典(x.com):無像之像
flashなし且つvoluntary/involuntaryを問わないcongenital total multisensory aphantasiaとSDAMが併存してるケースだと出現率は0.01%にも満たないような気がする。※個人の感想です。

⬛️アファンタジア測定におけるVVIQ(主観報告)の弱点にも通じるが
出典(x.com):無像之像
【論文への所感】
アファンタジア測定におけるVVIQ(主観報告)の弱点にも通じるが、「鮮明さ」の解釈には、
【1】視覚的イメージ(映像)の明瞭さや、
【2】情報(非イメージ、言語、意味、直観等)の解像感(構成要素や空間的確信)、
の二通りがありそうだ。
そもそもVVIQの主旨は【1】だが、人々は【1】と【2】の区別が曖昧なのかもしれない。中程度のアファンタジア群だと【1】と【2】が混在していたり、自身の【1】を過小評価していたりすることもあるのでは?(※憶測)。
自分の場合は【1】が完全に不在のアファンタジアなので、【2】の気配を察知したとしてもVVIQスコアは常に最下限となる。

⬛️アファンタジア測定における瞳孔反応の精度を検証した
出典(x.com):無像之像
【論文内容の圧縮意訳】
アファンタジア測定における瞳孔反応の精度を検証した。過去の研究では「実際に光を見なくても、明るい場面を想像するだけで瞳孔が小さくなる」ことは示されていたが、改めてそれが確認された。
さらに今回は、意図的に思い浮かべる時だけでなく、言葉から自然に連想される「非意図的なイメージ」でも測定できた。
ただ、瞳孔の反応の強さにはかなりの個人差があることも分かった(※ここは今後もネックになりそう)。
また、本人が「鮮明にイメージできている」と感じる主観的な実感と(※これはおそらく中程度のアファンタジア群の場合)、実際の瞳孔の変化の大きさにはっきりとした相関関係は見られなかった。
【所感】 まだ課題があるが、客観的な測定に向けた一歩として期待したい。

⬛️アファンタジアの人々が、どのような「思考のスタイル」を持っているのかを調査した
出典(x.com):無像之像
【論文内容の圧縮意訳】
アファンタジアの人々が、どのような「思考のスタイル」を持っているのかを調査した。
人間には大きく分けて3つの思考タイプがある。
① 視覚イメージ型(ビジュアライザー)
② 空間把握型(スペーシャライザー)
③ 言語戦略型(バーバライザー)
アファンタジア群は②と③に分かれることが示された。
【所感】
少し前に、テンプル・グランディン氏が記した「ビジュアル・シンカーの脳:「絵」で考える人々の世界」が日本でも話題になっていたが、当然、(視覚性)アファンタジア群は①と対極にある。

⬛️後天的アファンタジア: 自律神経・神経発達・子供時代のストレス体験における相関関係
出典(x.com):無像之像
【論文】
後天的アファンタジア: 自律神経・神経発達・子供時代のストレス体験における相関関係
Autonomic, neurodevelopmental, and early adversity correlates of acquired aphantasia
by Wenyue Gao, Yoko Nagai, Juha Silvanto
15 December 2025
【論文内容の圧縮意訳】
後天的アファンタジア(59名)のうち、その原因は複数重なっていることが判明。
・心理的要因(約62%)うつ、不安、トラウマ等
・身体的要因(約41%)脳損傷や生理的変化
・薬剤の影響(約30%)特定薬の使用
約半数がこれらの複合要因。
非アファンタジア群と比べて、後天性アファンタジア群は「自律神経の反応」が強く、幼少期トラウマや発達特性(ASD/ADHD)を持つ割合も有意に高い。
【所感】
先天性の私個人の立場からすると、まるで異世界の話。
ただ、後天的なケースにこれほど「心理・精神・身体・発達・薬剤」の要因が絡むとなると、アファンタジア全般へのスティグマ(社会の側から見た先入観)が強まりはしないか懸念を覚える。
現時点では、人々がアファンタジアに該当するかどうかは内的体験(いわば結果)からの判断であって、その要因は問わない。
蛇足だが、状況から判断するに「まあまあ見えている」はずの人が、「超見える人」(おそらくハイパーファンタジア)と比較することで、半ば自動的に「私はひどいアファンタジア(「涙」或いは「キリッ」)」と思い込んでしまう(或いは自己アピールする)ような振る舞いをSNSの絵描き界隈で見かけたことがある。
こうしたケースは、一体何と呼べばよいのだろう。

⬛️今後、アファンタジアの認知度が上がり、教育現場で「こうしてあげよう」という「善き」とされるムーブが生じる可能性は十分にある
出典(x.com):無像之像
今後、アファンタジアの認知度が上がり、教育現場で「こうしてあげよう」という「善き」とされるムーブが生じる可能性は十分にある。だが、それによってアを装備した子供たちが自ら育むはずの ███ を削いでしまうとしたら、成長した後にどのような影響を及ぼすのだろうか(例えば認知機能的に)。
案外、些細なことかもしれないし、そうではないかもしれない。いずれにしても、教育にはこうした難しさがある。まあ、やるならやるで「過ぎたるは猶及ばざるが如し」にならない程度が良いだろう。
※個人的には、こうしたムーブは不要だと思ってる。

⬛️哲学者・西田幾多郎(1870-1945)の「純粋経験」の説明が、あまりに抽象的でナゾナゾすぎる
出典(x.com):無像之像
哲学者・西田幾多郎(1870-1945)の「純粋経験」の説明が、あまりに抽象的でナゾナゾすぎる。
ところが、アファンタジア+SDAMの内的世界は、その「純粋経験」と親和性があるという話も。
んなバカなと思いつつ、AIを問い詰めてみた結果がこちら:
Grok のログ(PDF版|画像版)
個人的には、それでも親和性があるとは思えなかった。
改めてログを読み返してみたら、自分は「せっかち」で「話を聞いてるようで聞いてない」やつだった。

⬛️お絵描き界隈のやりとりで定期的に起こるパターン
出典(x.com):無像之像
お絵描き界隈のやりとりで定期的に起こるパターン:
アファンタジアこん棒を振り回す正義マンは当事者の場合もあるし非当事者の場合もある。
この手のパターンは、最初に「見えてる側」の絵師がマウントを取って(例えば「絵が下手な奴は努力してない」)、それに対して「見えてない側」の当事者あるいは勝手連が「アファンタジアこん棒」でちょいちょい突くか、ときにはブンブン振り回す、という流れ。

⬛️イメージ盲視としてのアファンタジア
出典(x.com):無像之像
引用:https://x.com/PaoloBartolome0/status/2027771853276692801
イメージ盲視としてのアファンタジア
Aphantasia as imagery blindsight
https://www.cell.com/trends/cognitive-sciences/abstract/S1364-6613(24)00293-6
約1年後(2026年2月24日) ↓
先天性アファンタジアはイメージ盲視ではない
Congenital aphantasia is not imagery blindsight
盲視とは、1次視覚野(V1)の損傷により視野欠損を呈した人物が、主観的には「何も見えていない」と報告するにもかかわらず、視覚刺激の位置や動きなどを偶然以上の精度で識別できる現象のこと。
要するに「視覚処理があるのに視覚体験がない」が盲視の本質。
約一年前、ハクワン・ラウ博士らは挑発的な理論(?)を自信満々で発表していたが、盲視とアファンタジアはかなり違う。と、当事者的にもそう感じる。

⬛️【論文】脳損傷による後天性アファンタジアを分析したところ、病変は多様だが、全てがFIN(紡錘状イメージノード)と結びついていた
出典(x.com):無像之像
引用:https://x.com/IsaiahNeurology/status/1926037199230828816
【論文】脳損傷による後天性アファンタジアを分析したところ、病変は多様だが、全てがFIN(紡錘状イメージノード)と結びついていた。
【所感】これは Joel Pearson 教授らが提案してきたトップダウン型イメージ生成モデルとも重なる内容で、FINが前頭前野と視覚系を結ぶ役割を担っている可能性も。

⬛️Multimodal mental comparisons in those with and without aphantasia
出典(x.com):無像之像
【アファンタジア論文】
Multimodal mental comparisons in those with and without aphantasia
by Sebastian P Suggate, Fraser Milton, Jeremy Tree
2026/1/19
https://scholar.google.com
【研究テーマ】アファンタジアの人は、本当に「イメージ課題」が苦手なのか?を調べた。
【結論】アファンタジアは「イメージ能力の欠如」ではなく、「考え方や情報の扱い方の違い」である可能性が高い。
【課題1】実物を見ずに、視覚・聴覚・触覚の特徴を頭の中で比較する。
非アファンタジア群:全体として高い正答率を示し、平均的に素早く回答した。
アファンタジア群:正答率はほぼ同等で、全体的な成績は保たれていた。
【課題2】比較判断にかかる反応時間と正答率を同時に測定する。
非アファンタジア群:比較的速く回答する傾向があった。
アファンタジア群:回答はやや遅いが、より正確な傾向を示した。
【課題3】ザラザラ感や硬さなど、触覚的特性を頭の中で比較する。
非アファンタジア群:触覚課題で特別な優位性は示さなかった。
アファンタジア群:速度と正確さを統合すると、触覚課題で有利な傾向を示した。
【課題4】比較課題をどのように解いたかを自己報告させる。
非アファンタジア群:頭の中で対象を思い浮かべて比較したと報告する傾向が強い。
アファンタジア群:知識や言語的情報を用いて判断したと報告する傾向が強い。
【課題5】イメージ鮮明さの自己評価と実際の課題成績の関連を分析する。
非アファンタジア群:イメージが鮮明と報告しても、成績との相関は弱かった。
アファンタジア群:イメージがないと報告しても、課題成績は十分に保たれていた。

⬛️意識的な心的イメージとアファンタジアに関する神経モデル
出典(x.com):無像之像
引用:https://x.com/jianghao_liu_/status/2020623011028848657
論文:https://www.sciencedirect.com/science/article/pii/S0028393226000382【アファンタジア論文】
意識的な心的イメージとアファンタジアに関する神経モデル
A neural model of conscious mental imagery and aphantasia
by Jianghao Liu
2026年4月号
https://scholar.google.com
【背景】
従来の研究では「心的イメージは、視覚野(いわば脳の映像室)が再活性化することで起こる」と考えられてきた。
しかし近年、アファンタジアの人でも視覚野の活性化は一定程度確認されている。
つまり、視覚野が働くだけでは「心の中で見える体験」には十分ではなく、従来の理論だけでは説明が難しくなってきた。
【新モデル】
この論文では「心的イメージには3段階のプロセスが関わる」というモデルが提案された。
【プロセス1】生成(いわばパズルのピース)
最初に視覚野が活性化して、内部的なイメージの材料が立ち上がる。
アファンタジアの人でも、この初期的な生成過程は一定程度は起こっている可能性がある。
【プロセス2】統合(いわばパズルの完成)
次にバラバラの情報(色・形・位置など)をまとめて、一つのまとまった「像」として組み上げる。
このプロセスが十分に働かないと、断片的な情報のまま意識にのぼらない。
【プロセス3】増幅(いわばパズルを照らす照明)
最後にそのイメージが「意識的な体験」として感じられるレベルまで高めれれる。
ここがうまく機能しないと、「見ようとしても見えてこない」状態になる。
【新モデルが示唆したこと】
このモデルでは、アファンタジアは「2 統合」と「3 増幅」のプロセスが十分に働いていない可能性があると考えられる。
つまり、内部的な情報処理は行われていても、それが意識の中で映像として立ち上がらない状態であるという仮説を提示してる。
また、このモデルでは、視覚野だけでなく、前頭–頭頂–紡錘状回(fronto-parietal-fusiform)ネットワークが重要だとされる。
これは「注意の制御」「意図的なイメージ操作」「情報の統合と意識化」に関わる広域ネットワークであると考えられている。
当事者である私個人の感覚としては、「フィルムはそこに置かれてるのに、肝心の映写機が回っていない? あるいは像を映すスクリーンがない? あるいはスクリーンに投影するための光源がない?」みたいな感じでもあったので、それが理論的に裏付けられる可能性があるかも?
Thanks for this beautiful summary ! https://t.co/vYPplmX9aM
— Jianghao Liu (@jianghao_liu_) March 1, 2026
この新モデルに従えば、いわゆる感覚的クオリア(意識上の内的体験)は「3. 増幅」に相当する現象と考えられるのだろうか。
だとすると、アファンタジア当事者である私が、何となく対象の存在の気配を察するあの現象は、「無意識のイメージ」というよりも、意識上の「イメージのないイメージ(imageless imagery)」と捉えたほうが、いろいろなことを説明できるのかもしれない。
もちろん、それを「意味記憶の何らかの形態」と説明することも可能だが、少なくとも主観的には、単なる意味処理とは少し違うような気もする。
つまりそれは、感覚的クオリア(視覚的な心的イメージ)でもなく、もちろん言語でもなく、何らかの心のセンサーが捉えた、いわば「見えないものの形(The Shape of Things Unseen)」とでも言えばよいのだろうか。
この表現は Adam Zeman 博士の最新著作のタイトルでもある。

⬛️ウィトゲンシュタインの「箱の中のカブトムシの比喩」
出典(x.com):無像之像
ウィトゲンシュタインの「箱の中のカブトムシの比喩」:
皆が箱を持ち、その中に「カブトムシ」と呼ばれる何かがある。だが、誰も他人の箱の中を見ることはできず、中身が自分と同じかは分からない。
それでも各人は「私にはカブトムシがある」「君のカブトムシは強烈だ」と言い、会話は成立する。
ここから分かるのは、「カブトムシ」という言葉の意味が箱の中身(主観的体験)そのものを参照して決まるわけではない、という点にある。
たとえ中身が違っていても、あるいは空であっても、「カブトムシ」という言葉が社会の中で共有された仕方で使われるかぎり、会話は成立する。
つまり、「カブトムシ」という言葉の意味は中身(主観的体験)それ自体でなく、その使われ方にある。中身は意味を決める材料にはなっていない。
したがって、自分だけが分かる「カブトムシ」を意味の基礎にすることはできない。
ただし、これは中身の違いや有無が重要でないという意味ではない。

⬛️「カブトムシ」を「心的イメージ」に置換すると
出典(x.com):無像之像
「カブトムシ」を「心的イメージ」に置換すると:
皆が箱を持ち、その中に「心的イメージ」と呼ばれる何かがある。だが、誰も他人の箱の中を見ることはできず、中身が自分と同じかは分からない。
それでも各人は「私には心的イメージがある」「君の心的イメージは強烈だ」と言い、会話は成立する。
ここから分かるのは、「心的イメージ」という言葉の意味が箱の中身(主観的体験)そのものを参照して決まるわけではない、という点にある。
たとえ中身が違っていても、あるいは空であっても、「心的イメージ」という言葉が社会の中で共有された仕方で使われるかぎり、会話は成立する。
つまり、「心的イメージ」という言葉の意味は中身(主観的体験)それ自体でなく、その使われ方にある。中身は意味を決める材料にはなっていない。
したがって、自分だけが分かる「心的イメージ」を意味の基礎にすることはできない。
ただし、これは中身の違いや有無が重要でないという意味ではない。

⬛️さらに「心的イメージ」を「痛み」に置換すると
出典(x.com):無像之像
さらに「心的イメージ」を「痛み」に置換すると:
皆が箱を持ち、その中に「痛み」と呼ばれる何かがある。だが、誰も他人の箱の中を見ることはできず、中身が自分と同じかは分からない。
それでも各人は「私には痛みがある」「君の痛みは強烈だ」と言い、会話は成立する。
ここから分かるのは、「痛み」という言葉の意味が箱の中身(主観的体験)そのものを参照して決まるわけではない、という点にある。
たとえ中身が違っていても、あるいは空であっても、「痛み」という言葉が社会の中で共有された仕方で使われるかぎり、会話は成立する。。
つまり、「痛み」という言葉の意味は中身(主観的体験)それ自体でなく、その使われ方にある。中身は意味を決める材料にはなっていない。
したがって、自分だけが分かる「痛み」を意味の基礎にすることはできない。
ただし、これは中身の違いや有無が重要でないという意味ではない。
> その使われ方にある
つまり、「痛い」を他者と共有できるのは、箱の中身(主観的体験)を見せ合っているからではなく、「泣き顔🥹」や「痛そうな顔😖」「包帯を巻く🤕」といった「外から見える公的な振る舞い」を基準として、互いに(正誤を)確認し合えるルールの中にいるから、といえる。

⬛️このアカウント(末尾参照)は、「2Dの様な静止画は一瞬見える」と発言しているので、私とは異なるアファンタジアのようだが
出典(x.com):無像之像
このアカウント(下記参照)は、「2Dの様な静止画は一瞬見える」と発言しているので、私とは異なるアファンタジアのようだが、一連のポストを読むと「アファンタジアだから、***」という断定・単純化・極端化と、何かこう根底に流れる「***」を感じる。
※個人の感想です。
それは性格(後天性)や環境(後天性)によるものか、他の何か(後天性/先天性)か、あるいは私のバイアスかもしれない。
最近読んだアファンタジア論文(どれかは忘れた)に興味深いことが書かれていた。
これは私も以前からSNS上のポストを読んで感じていたことだが、視覚性アファンタジアで「1. 常に完全に一切が見えない人」と「2. 見えるけど十全あるいは十分には見えない人」とでは、2のほうがメンタルに影響するそうだ。
理屈はこうだ。1は常に不在なのでその状態が普遍的常識。2は「見えづらい」⇒「もっと見たい」⇒「でも見えない」⇒「くそっ」てなわけで、メンタルに作用するのかもしれない。
※ 次回の雑記:雑記②(2026.3.4~5.20/x.comより)
