50代のオッサンが日本史の受験問題を解く話
50代のオッサンが、娘の志望校の日本史を解いてみたら完敗だった話。
先日、恒例行事の共通テストの国語現代文チャレンジに続き、今度は日本史の入試問題に手を出してみた。
解いたのは、娘の志望校の一つ、中央大学経済学部の2025年度入試問題である。
50代。
かつて国立二次試験の論述対策で教科書が擦り切れるまで読み込んだ世代だ。日本史には、それなりの自負があった。
――あった、はずだった。
数分で悟った「無理」
問題をネットで見て、数分。
すぐに悟った。
「あ、これは全然無理だ」
大問は四つ。旧石器時代から近現代の通貨制度まで、日本史の全時代が容赦なく詰め込まれている。
早々に"自力"を諦め、私の時代から変わらぬ赤褐色の背表紙――**山川出版社『詳説日本史』**を片手に、答え合わせならぬ「確認作業」へと切り替えた。
そして、圧倒された。
知識の密度が、想像を超えていたのだ。
「教科書の隅」が問われる時代
たとえば、安土桃山時代。現在放送中の大河ドラマ『豊臣兄弟!』とも重なる時代だ。
土佐に漂着した一隻の船をきっかけに、二十六人のキリシタンが長崎で処刑される事件。教科書には「サン=フェリペ号事件」が、本文ではなく欄外に記されている。
だが入試では、その船名そのものが問われる。
まさに「教科書の隅」だ。
そこにある知識が、遠慮なく試験問題として出題されている。
これを受験生たちは、消去法と記憶力で粘り強く回答していくと思うと、ただただ頭が下がる。
暗記に意味はあるのか――AIの時代に
今は、AIに聞けば一瞬で答えが返ってくる時代だ。
それでも、これほど膨大な知識を暗記する意味はあるのか。
正直、そう思いかけた。
だが、教科書をめくり続けるうちに、考えが変わった。
流れを知っているだけでは解けない。
断片的な事実を結びつけ、背景を想像し、多角的に時代を捉え直す。
この作業そのものが、情報の真偽を見極めるための**「知的体力」**を鍛えているのではないか。
ドラマでは、教科書に一行も登場しない秀吉の弟・秀長が、物語を力強く動かしている。
史実の裏側にある、人の営み。
その余白を想像するためには、まず揺るがない「基礎としての歴史」を知らねばならないのだ。
娘が挑むのは、そんな知の総力戦である。
バトンは、つながっている
九割を教科書に頼るしかなかった50代の私は、歴史の重みに打ちのめされるばかりだった。
それでも、ふと気づく。
かつて私を支えた山川の教科書が、今、娘の机の上にある。
時代は変わっても、バトンは確かにつながっている。
教科書を閉じたとき、心に浮かんだ言葉は一つだけだった。
「頑張れ」
それは娘だけでなく、今この瞬間も机に向かう、すべての受験生への、心からの敬意だった。
