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クソリプを減らす方法を大正時代に見つけた話

クソリプ。
いわゆる、Xとかヤフコメとかにうじゃうじゃ現れる「的外れのコメント」のことである。私も細々とながらXをやっていたり、あるいはYahoo!に自分の記事が出たりするから、結構な頻度で出くわす。
どうして彼らはここまでピント外れのコメントを返すのだろうか。なぜクソリプは減らないのだろうか。クソリプを減らす方法はないのか。そんなことを考えていたら、大正時代の教育理論にそのヒントがあった。そんな話である。


「真摯なクソリプ」はなぜ起こる?

クソリプが減らない理由の一つは簡単で、特にSNSやネットの掲示板では「そもそもコミュニケーションをする気がないから」というのが大きいとは思う。私がこの間、スーパーマーケットの「まいばすけっと」の記事について書いたとき、記事では一言も触れてないのに「まいばすは野菜がまずいから嫌いです」なるリプがあった。知らんがな。「お気持ち表明」というやつだ。記事の内容に対してうんぬん・・・ではなく、ネット上に自分の気持ちを吐露したいだけなので、それはそういうものとして理解できる(いや、なぜそれをやりたいのかは理解できないけど!)。

ただ、個人的にエンカウント率が多いのが、「真摯にコミュニケーションしようとしているのにクソリプ」なる致命的なパターンである。しかも、書き手としての私からも見ても、このタイプ、結構多い気がする。記事の内容について何かしら一家言あって、それに対してご自身の意見を述べておられるのだが、なんというかピントが合っていない。というか、そもそも記事の内容を誤読している、そんなやつだ。

では、どうしてこういう「真摯なクソリプ」が生まれるのか。
もっとも簡単な理由の一つは「文章が読めていない」ことである。簡単にいえば「読解力が無い」というやつだ。
よく、クソリプをはじめとしたネット上でのコミュニケーションを嘆くときのお決まりの表現で「国語教育の敗北」なる言葉がある。「この記事にこんな返信をするなんて、国語教育の敗北だな・・・」的な用法である。読解力を教えるべき国語教育が本来の機能を果たしていないから「敗北」ということになるのだろう。

確かに、読解力が下がっている、もっといえば国語教育で適切に読解力を教えられていないのでは?という話は、研究的にもエビデンスがないわけではない。
ちょっと前に話題になった本だが、新井紀子『AI vs 教科書の読めない子どもたち』である。新井氏が開発したリーディングスキルテスト(RST)の結果をもとに、現在の学生は文章の主述関係が読めてないのではないか、ということがセンセーショナルに語られた。

RSTは新井紀子をプロジェクト・リーダーとする国立情報学研究所の人工知能(AI)プロジェクト「ロボットは東大に入れるか」の一環として、文や文の短い連なりをどれぐらい正確に読むことができているかを科学的に診断するテストである。
RSTを一躍有名にしたのが、次の問題だ(画像は現在RSTを実施する「教育のための科学研究所」のホームページから)。

文章における「係り受け」(修飾語などが文章の他のパーツに係ること)を聞く問題だ。ただ、この正答率が中学生では約38%だったという。「こんな簡単な文も読めないのか・・・」という驚きと落胆の声が社会に広まったわけである。この問題はネットでは「アレクサンドラ構文」として広く知られるところとなる。新井氏は、このテスト結果を論証の一つとして、「現在の子どもは教科書レベルの文も読めなくなっている」と警鐘を鳴らしたのだ。この問題以外にも、RSTのさまざまな結果が「教科書の読めない子どもたち」をジャーナリスティックに生み出した。
それが「だからクソリプ多いんじゃね?」的な反応を生み出している。実際、「教育のための科学研究所」にはこんな説明がある。

この問題の正答率の低さへの驚きや危機感から、この問題に「アレクサンドラ構文」という名称がネット上でつけられたと考えられます。例文として、「アレクサンドラ構文も読めないような人が多いから、SNS上でのいざこざが絶えないのではないか」などがあります。

これが正しいとすれば対応法は簡単で、RSTで高得点を叩き出せるような人材を初等・中等教育でジャンジャン作り出せばいい、ということになる。現に新井氏はそうやっていくつかの自治体と協力しながらRSTの普及活動を行なっている。

「生きている世界が違う」からクソリプは起こる

でも、本当にそんなに単純なのだろうか。いや、一面としてはそうなのだろうけど、自分自身の感覚としてちょっと違うんじゃないか、と思うのだ。
というのも、いくつかのクソリプを見ていると、むしろクソリプを書く人々は、元の文章を「読めすぎている」のでは?と思うことが多々あるからだ。主語と述語の関係や係り受けなど、「論理的には文の意味が理解できている」。しかし、それゆえに、「あなたはここで〜〜と言ったから、今の発言は〜〜ですよね?」的なクソリプが生まれる。「論破!」という言葉が流行っているように、「リトルひろゆき」的な人々がたくさんいる。彼らは表面上の意味のみで、その文全体の評価を下してしまう。

彼らがクソリプをしてしまうのは、文の意味を誤読しているからではなく、むしろその文の背後にある、それを書いた人の状況を察する力なのではないか、と思う。もっといえば、文の細部というよりも、その文全体が持っている書き手の考えというか思想とか、それまでその人にどんなことがあったとか、そういうものを察する力がないことのほうが問題なのではないか。

「書き手の考えや思想を察するのも『読む力』だから、結局は「読解力が低下している」のでは?」と思った人がいるかもしれない。その通りだ。重要なのは「読解力」と一口に言っても、その意味が多様なことだ。
簡単にいえば、文の細部を読み、主述関係を把握するのも「読解力」だし、書き手の全体的な思想を読み取るのも「読解力」だ。RSTは前者にフォーカスを当てている。ここで私が主張したいのは、後者の「読解力」の低下こそが、近年のクソリプを作っているのではないか、ということである。

今井むつみ氏が『「何回説明しても伝わらない」はなぜ起こるのか?―認知科学が教えるコミュニケーションの本質と解決策』という本を書いている。言語コミュニケーションについての名著だと個人的には思っているが、同書の内容は、今の話に深く関係する。今井氏が言うには、「話が伝わらない/理解されない」のは、その言葉の意味が理解されていないのではなく、むしろそれより前段階の、発信者と受信者の間で物事を理解するための枠組みが異なるからだ、という。心理学の用語で「スキーマ」と呼ばれているが、簡単に「世界観」と認識しておけばいいと思う。人が理解しあえないのは、言葉の表面上の意味が分かっていないからではなく、「生きる世界が違うから」なのだ。

今井氏は、これを教師と生徒のコミュニケーションになぞらえている。私は現役の教員なのでよくわかるが、教員側からしたら非常に単純なこと(だと思っている)なのに何度生徒に説明しても理解してもらえないことがある。特に、現代の感覚とは異なる感覚を必要とする古典の話など、まったく理解できない生徒もいる。おそらく、そのような生徒にとって私が言うことは宇宙人が話しているようなものなのだと思う(逆に、教員側で生徒のことを別世界の住人だと思っている人もいる)。教員がいう言葉の一つ一つは理解できても、その世界観全体となると、どうも納得ができない。古典世界、あるいは古典の文法世界全体が把握できないのである。
かくいう教員だって、他分野のこととなると同じようなものである。以前勤務していた学校の研修で「WEB3.0」の講義を延々と聞いたことがある。講義そのものはおそらく基礎的な内容から丁寧に教えてくれていたと思うのだが、全体を通してとなると、やはりどこかぼんやりとして「分からない」。講義が終わったあと、国語科教員の間で「何にもわからなかったね・・・普段生徒は古典の説明をあんな感じで聞いているのだろうか・・・」と反省した。文系の世界で生きてきた国語科教員にとって、ウェブの世界は理解し難い。逆にウェブ世界の住人から見れば「なんでこんなことも理解できないの?」と思っているはずだ。
そしてここに「無理解」が生じ、「クソリプ」が生まれる。
言っていることは分かる。けれど、生きている世界が違うから、どうにも話が噛み合わない。それが「クソリプ」の正体ではないか。

大正時代の「国語教育」が培おうとしてきた「他者理解」

ここで、やっと本題の話になる。
「クソリプを減らす方法を大正時代の教育理論に見つけた話」ということだ。
実は、戦前から戦後にかけての国語教育は(ものすごくざっくりまとめると)、この「違う世界の人を理解する」ことに注力してきた歴史がある。ある意味、「クソリプ防止」的な意味を持っていたと私は考えている。
どういうことか。順を追って丁寧に説明したい。

まず、やや話が前後するが、RSTの話に戻りたい。
全国大学国語教育学会という、国語教育研究ではもっとも規模の大きな学会でRSTと従来の学校における「国語」の読解力を比較した発表がある(間瀬茂夫・冨安慎吾「リーディングスキルテストと学力調査の相関からとらえた読解力に関する研究」)。
この発表によれば、RSTが目指している「読解力」とは、これまでの国語授業が目指してきた「読解力」とは大きく異なるという。学校での国語授業を進める文部科学省は、現実の社会的場面における文脈での読解力を重視している(これを発表では「活用系」と呼んでいる)が、RSTはその文の置かれた前後の状況等の意味は考えず、純粋にその文の論理的意味のみを読み解く意味での「読解力」を測定している(発表では「論理学系」と呼ばれている)。
(ちなみに、余談になるが私自身、RSTをそこまで過信しない方がいいと考えているが、それには上記の事情がある。RSTが測定するのは、かなり限定的な言葉の意味を捉える方法で、現実社会ではそれがイコール読解力にならないと考えるからだ。例えば、先ほど掲出したアレクサンドラ構文についても、実際の文章や会話の中では、我々はこの文以外のパーツからこの文のことを知るわけで、実際に現実のコミュニケーションではそのように文脈から意味を理解することのほうが多いのではないかと思う)

では、文部科学省がいう「国語の力」とはいったい、どんな力なのだろうか。説明では「現実の社会的場面における文脈での読解力」となっているが、(超大雑把に言うと)この基礎となる考え方を作ったのが、垣内松三という国文学者である(いや、ほんとザックリなので、、、!詳しく知ってる人からすると色々言いたいだろうが、ここはご了承を・・・)。

垣内は国文学者で、主に戦前、特に大正時代〜昭和前期に活躍した人物である。彼が1922年に発表した『国語の力』は大きな反響を呼び、そこで提唱された考え方が戦後の国語教育でも底流として流れ続けている(この辺りは須田実『戦後国語教育リーダーの功罪』で説かれている)。

『国語の力』で垣内が述べたことはなにか。実はこれ、学者の中でも読み解くのがめっちゃ難しいので、ここからの話は垣内の議論をかなり私なりに翻訳したものだと思って欲しい。

 『国語の力』にはこんな象徴的な文章がある。

雪片を手にしてその微妙なる結晶を見んとする時掌上に在るものは一滴の水なり。
水滴を分析して結晶の形象を見んとするが如きは今の国語・国文学集の態度なり。
言語文学の本質を研究せんとせば先ず直下にその微妙なる形象を観ざるべからず。

『國語の力』より

超簡単に言えば、雪の結晶は、全体を見れば「結晶だなあ」とわかるが、それを細かく見ようとすると、単なる水滴である。これまでの(垣内が『国語の力』を書くまでの)国語の学習は、この細かい水滴だけを見ようとしているが、これからの国語学習では水滴もさることながら、この「全体として結晶に見えるもの」も捉えないといけない、ということを言うわけだ。
これは、文章読解の比喩になっている。文章の事例に落とし込むとこうなる。
つまり、文章は全体として伝えたいメッセージなり、書いた人の考え方が入っている。しかし、文章を細かく見ると、それは無機質な言葉に分解されてしまう。それぞれの言葉の意味がわかったとて、それは本当の意味で文章の全体(=結晶)を見たことになるのか、いや、そうではないでしょう、というのが垣内の考えである。

垣内のこの考え方は、文章全体の形(形象)を見る、という意味で「形象(けいしょう)理論」と呼ばれている。垣内はそれまでの語学教授的、つまり文章の細かい言葉の意味だけを教える授業から、その言葉と文章全体を関係づけ、文章全体として作者が言いたいことを目掛ける方法を提唱した。

そして、文章を読む最終目標「その文の作者の考えを追体験する」ことだという。文章全体を読むためには、作者がどのような世界観のもとでそれを書いたのかを作者と同じように知ることが重要だというのだ。いわば「それを書いた作者の世界観を知る」のが文章読解の最終目的だというわけだ。

それまでの「国語」といえば、昔の難しい文章の注釈作業を習うのがほとんど(古典の文章の単語の意味を永遠に講釈されてるイメージ)で、垣内のこの考え方は当時としてはかなり斬新だった。時代は折しも大正デモクラシーで、明治維新の流れが落ち着き、ボトムアップで人々が何か新しいものを模索している時期だった。そんな時流にも乗った。

垣内の形象理論は、その後、さらに磨かれていく。その途上で垣内の弟子筋にあたる人たちが、より授業の実践に落とし込みやすいようにするなど、さまざまな人たちの手で広められていった。不思議な話だが、そこで考案された授業の方法は未だに学校現場で強く根付いている(この辺りの話は今回の話とはズレるので、また稿を改めたい。ちなみにいまだにSNS等で話題になる「なぜ国語では『この時の作者の気持ちを答えよ』」という問題が出されるのか問題に、この話は大きく通じている)。

注目したいのは、垣内の形象理論が、これまで私が話してきたことに似ていることだ。「言葉の細かい意味がわかっても、文章全体の意味や作者の世界観はわからないよね?」というのが垣内の主張だが、それは、今井むつみ氏が述べたような「言葉はわかるけど、世界観が違う」というのに通じていると思う。それぞれの言葉はわかる。文のつながりもわかる。けれど、全体として何を言いたいのかわからない。今井氏はそこにディスコミュニケーションの原因を見たが、その主張は(細かいことを省けば)垣内の主張とかなり似ているように私には思える。

話を整理しよう。
クソリプの大きな要因の一つは、「相手の世界観なり状況を把握する力がないこと」であった。垣内松三が提唱した形象理論は、そうした力を読解力として定義し、それを授業実践に与える方法を提唱した。

ある意味では垣内が述べた国語教育が徹底されていれば、もう少しクソリプは減るのかもしれない。タイトルで「大正時代に見つけた」というのは、このことを示している。

古いけど新しい大正時代の教育理論をもう一度見直しても良いのではないか

しかし、鋭い読者は気づくだろう。
先ほど私は、垣内の国語教育は現在の国語教育まで影響を及ぼし続けている、と書いた。であれば、現在の日本はクソリプが全くない(とまで言わずともあまりない)状態になっているはずではないか? そう思う人がいるかもしれない。

確かにそうである。ただ、それは教育理論の提唱から実践へと至る流れが考慮されていない。確かに垣内理論は現在までその底流には流れている。けれど、実際にそれが授業で実践されたり、社会に流布するときには絶妙に垣内自身の思いとズレが生じる。そのズレが増幅され続けたのが、垣内理論の現在に至るまでの歩みである。

例えば戦時中。垣内が唱えた理論は、当時の皇国民教育に利用される。なぜかといえば、垣内が述べた「作者の思想を理解する」というのがイコール「己自身の主観を廃して、他者の思想を体得する」ことに巧妙にすり替えられたからである。そして、戦時中における「他者の思想」とは皇国民的なもので、「お国のためなら私自身の主観は要りません!」という国民を育成するのにぴったりだった(この辺りは安直哉『国語教育における形象理論の生成と展開』に詳しい)。
そのため、戦後も垣内理論については、特に左翼的な人々・学者から「戦時体制に協力的な理論」という観点で忌避感を持って受け入れられる。だから、先進的な国語教育理論を唱える人々は「いかに垣内理論を乗り越えるか」が共通テーマになっているところがあった(須田実『戦後国語教育リーダーの功罪』)。

一方、現場の方はどうかといえば、逆に垣内理論を薄めたような「形だけ」の授業実践がずっと行われるようになり、垣内の思想そのものが受け継がれたとは言い難い。
垣内理論を実践の方法に落とし込んだのが、石山脩平という人だ。石山は、

① まず文章全体を読む
② その後、細かい部分を調べる
③ もう一度文章全体を読む

という3つの方法から成る「三読法」を提唱した。「三読法」という言葉を知らない人でも、実は慣れ親しんだ方法であることが多い。
例えば、国語教科書のド定番『羅生門』を例に取ってみよう。

① 授業ではまず『羅生門』の全文を読む。一文ずつ席ごとに音読していく方法かもしれないし、全員で一斉に黙読するかもしれない。とにかく全部読む。
そしてその後、「最初に読んで考えたこと、疑問に思ったことを書きましょう」という流れになる。国語教育の専門用語でいう「初読の感想」である(身に覚えがあるのでは?)。

② そして、初読の感想をプリントなどに書いた後、各段落ごとに(段落という言葉が懐かしい人もいるかもしれない)主人公の行動と心情を関連させながら細かく読んでいく(というか、教員の板書をノートに写す)。

③ すべての段落の板書が終わったら、文章全体をもう一度読み直し、まとめを行う(場合によっては「羅生門を読んだ感想文を書こう」とか「下人のその後を考えよう」的な学習を行う)

こんな授業、一度は受けたことがあるのではないだろうか。
これが典型的な「三読法」である。全体→部分→全体で授業を進行していけばよい、これが三読法の思想で、垣内的に言えば文章全体と細部を往還するやり方である。ただ、上の例でわかるように、もはやこうした授業には垣内が本来目指したような「形象理論」の姿はない。割に教員も前年踏襲でこういうやり方をずっと続けていて、それが戦後ずっと続いている感じである。

その意味で、垣内が目指した国語教育のあり方は、一方では戦時中を思い起こさせるものとして忌避され、一方ではあまりにも図式的に現場で継承されてきた。

だからこそ、本当の意味で垣内が目指したものを(現代にもマッチする形で)改めて考え直した方がいいのではないか。それが、クソリプを減らせるかどうかは分からない。けれども、大正時代に提唱されたこの古い理論が、このSNS時代の今こそ、一考の価値があるとは思うのだ。

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