山上の猫【ショートショート】
吾輩は猫である。
名前はもうない。
かつて人間につけてもらった名前がいくつもあったような気がするが、全て忘れてしまった。以前には食事の時間に呼ばれていた名前も、今は呼ばれなくなった。
数ヶ月前、その日は朝から家の中はたくさんの人間が忙しそうに動いていた。家の外の、吾輩がいつもくつろいでいる塀には、たくさんの花が立て掛けられていた。
「邪魔だなー」と思いつつ、お腹が空いたので台所にある吾輩の食事用のお皿を見た。空っぽだった。人間はたくさんいるのに、いつも吾輩に食事の用意をしてくれていた婆ちゃんは見当たらない。
「ニャー」
と鳴いてみた。誰も吾輩のことに気づいていないようだった。そういえば、爺ちゃんも見当たらない。
「ニャーニャーニャー」
ひとりの人間が吾輩に気づいて、こう言った。
「爺ちゃんも婆ちゃんも、遠いところへ行っちゃったの……」
と……。
捨てられたのか? それとも忘れて置いて行かれたのか? 吾輩には判断がつかない。ただ、その日を堺に吾輩の名前は呼ばれなくなった。玄関の戸も二度と開かれることはなかった。
最初のうちは近所の優しそうな婆さんの家をうろついたり、ゴミ捨て場で残飯をあさったりしていたが、他の野良猫たちとの縄張り争いが激しく、吾輩はある決意をした。
「この家を出よう」
そして山に向かった。
街のはずれにある低い山。人間の家も車もまばらになり、木が増え、空気に土と草の匂いが混ざり始める。最初はビクビクしていたが、数日もすれば、吾輩はこの場所が気に入った。鳥も虫もいるし、木の根の下は思いのほか暖かい。山は吾輩に優しかった。慣れてくれば食べるものも、困らない程度には手に入るようになった。
そんなある日、吾輩は妙なことに気づいた。人間が来るのである。それも、皆同じところをなぞるように歩いている、確かによく見ると、人間が歩きやすそうな道ができている。
吾輩はこの道を『人間の道』と名付けて、そこには近づかないようにして、人間を観察した。
様々な人間が来た。しかし、皆同じような格好をしていた。
初めて見たときはその格好に驚いた。妙にカラフルな服を着て、重そうな靴を履いていた。背中には四角い物体を背負い、カチャカチャと音を立てて登って来る。時には両手に棒を握り、地面を突きながら、ゼエゼエ言っている。
吾輩は警戒しつつも、木の陰からそっと様子をうかがった。
すると、彼らはただ山を登るだけではない。登ったかと思えば、しばらくしてまた降りてくるのだ。そしてまた次の日、違う人間がやって来て、同じように登り、降りる。
山の上に何か特別なモノでもあるのか? それとも何か面白いものでもあるのか?
吾輩は疑問に思いつつも、どうせ人間のやる事だ、ロクな事では無いだろう。と無視していた。人間は時として我々の理解し難いことをする。
しかし、ある日いつもとは違う種類の人間が来た。小さい人間だ。大きい人間と違い、小さい人間は、少々乱暴なところはあるが、基本的に我々に対して対等に接してくる。
吾輩は、常に自分の言うことを聞かせようとする大きな人間は、ほんの数人を除いては、あまり好きではない。小さな人間の方が好きだ。
そんな小さな人間が楽しそうに山に登って行く。やはり、よほど楽しいことがあるのだろう。
あの『人間の道』の先に何があるのか? 吾輩は人間の後をつけてみることにした。
ある晴れた朝、吾輩は足音を立てず、一組の男女の後ろをついて登った。本当は小さな人間がいるときがよかったのだが、小さな人間は滅多に来なかった。
人間に気付かれないように付いて行くのは楽しかった。
しばらくすると、視界が開けて、山のテッペンに着いた。
「わあ、気持ちいいー!」
人間が叫んだ。
そこでは、気持ちの良い風が吹き、青空が広がっていた。白い雲が、マシュマロやサカナように見えていつまでも見ていられた。確かに悪くない。
二人はご飯を丸めたものを食べ、水を飲み、景色を見ては笑い合っていた。楽しそうだ。大きな人間があんなに楽しそうにしているのを見るのは初めてだった。だが、しばらくすると「そろそろ降りようか」と言って山を降りていった。
えっ? それだけ? 特別な何かがあると思ったのに、ただ景色を見てご飯を食べて帰っただけである。
人間たちは何をしにここに来るのだろう? いくら考えても吾輩には理解出来なかった。
その後も何度か人間の後をつけてみたが、やることは皆同じだった。登って、風に吹かれて、ご飯を食べて、降りていく。日によっては一人で来る者もいた。無言で歩き、無言で帰っていく。
そんな日が何日か続いたある日、待ちに待った小さな人間が来た。男女の大きな人間も一緒だ。
当然、吾輩はその人間の後を気付かれないように付いて行った。
大きな人間と違って、小さな人間はかなりゆっくりとしたペースで歩く。時には我々と同じように四つ足になって登ることもあった。
その小さな人間は時折り足元がおぼつかなくなる。それでも大きな人間は手を貸すことはせず、後ろで見守っていた。
いつもより時間は掛かったが、山のテッペンに着いた。小さな人間も嬉しそうだ。はしゃいでそこらじゅうを走り回っている。
「ゆうちゃん、ご飯にするよー」
「わ〜い!」
吾輩はいつものように、人間から見えないように木の陰に潜んで彼らの観察をしていた。しかし、暖かな陽射しに誘われて、ついウトウトと眠ってしまった。
次に気づいたのは、小さな人間が
「あ〜、ネコさんだ〜」
と言いながら、吾輩に手を伸ばして今にも触れようとしている時だった。
吾輩はとっさに逃げようとしたけど、寝起きだったために、素早く動くことが出来なかった。結局、抵抗らしい抵抗ができないまま、あっけなく小さな人間に抱えられてしまった。
早く逃げなければ! と思うのと同時に懐かしい感情が湧き上がってきた。
久しぶりの人間の温かいぬくもりに包まれながら、逃げる気力が薄れていくのが吾輩にもしっかり分かった。
「ママ〜、このネコさん、飼ってもい〜い?」
大きな人間の大きな手が吾輩の頭を撫ででいた。うん、悪くない。吾輩は静かに目を瞑った。人間たちの楽しげな声が心に沁み込んでいく。
「名前は何にする?」
「えーっと、山のテッペンにいたから『テツ』だ!」
吾輩は猫である。
名前は『テツ』という。
完
