光と正しさのはなし
『スピリチュアル』という言葉は、うさんくさいイメージにまみれていて、あまり信用が無いと思う。正直、私も、八割くらいは信用してない。
同じものを指して『精神哲学』と呼んでる人をみて、そっちの方が信用がおける気がするなーと笑った。
私は、『形而上学的』という言い方が好きだ。なぜなら、何を指しているのか、大半の人は分からないだろうから。しかし、大半の人には何を言っているのか分からないようなことを指しているんだから、極めて適切だと思うんだよね。
現在の宗教には、まともなものは何ひとつ無いと思ってるんだけど、原点まで立ち返れば、どの聖者なり教祖なりも、おおむね同じようなことを言っていて、違いは、誰が儲けるのか、名を残すのか、というエゴの領域に過ぎず、『本質』には何ひとつ関係ないだろう、と思う。
そんなもの、もう、議論の余地も無いと思うんだけど、違いにこだわる人たちは、こだわり続ければいい。
敬虔さを、ばかばかしいと言う権利は無いので。それを、命を使って、やってみたければやればいいことで、親鸞みたいに、やってはみたけど、どうもこれは無理があるな、仏にすがるしかないな、という結論に達するのもひとつの貴重な経験なんだ。
かくして、彼は浄土真宗の開祖となったわけだけど、『歎異抄』って、彼の突き抜け方がよく現れていて、見事だな、と100分de名著を見たかぎりでは思った。親鸞の方法論は、私は「シンプル」で素晴らしいと思ってるけど、浄土真宗がその精神を体現しているとは、少しも思わない。今は、求めれば多くの情報を得られるのだから、言ってる当人すら実践できてはなかった方法なんぞに頼らなくても、やり方はいくらでもあるだろ、と思うしね。
ただ、親鸞にしろ、その先人だった法然にしろ、道元にしろ、「何言ってんだ、コイツ?」と言われるようなことを、それまでの理論をくつがえしても言ったところが「ガチ」なやつなんだ。私は、彼らに敬意を持っているけど、彼らの教えを受け継いだ宗派には何の信用も、信仰も持ってない。何かを拝むってことは、自分はそこには到達しないってことなんだよ。構造的にも、宿命的にも。すべてを下に置いて、序列を付けて、そんなことを、本当に彼らがやりたかったとは思えない。でも、組織化すると、権威が必要になるんだよね。どの宗教でも同じことなので、私はその祖たる人物のことは讃えても、彼らとその教えとやらを信仰する人たちには、「ご自由に」としか思わない。
ちなみに、自分たちは善だ、上だ、この教えに従わない人たちは悪だ、下だ、なんて言ってるのは論外だと思ってる。そんなものは、宗教ですらないとおもうけど。「答え」を外に求めるかぎり、そういう罠にははまるのもまた、構造的な必然なんだ。経験して、懲りるしかない。そこは。道を間違ったのではなく、道の途中に「学び」が存在してるだけなんだ。
こういう話は、いくらでも出来るけど、私は、『本当のこと』というのは、ちゃんとあちこちで言われていると思ってるし、自分も本で「この人はまともなことを言ってる」と感じて、道しるべのように導かれて来たから、私が言う必要は無いだろう、と思ってたんだ。
探せば、わかりやすい説明なんていくらでもあるし、誰が言っても、言いたいことというのは同じことなんだから、「分かりきってること」をなぜ自分まで語らなくちゃならないのか、と。
他の人たちの説明で分からない人に、私が言って分かることがあるとは思えなかったんだよね。
意味なんて無いだろ、と思ってた。
だけど、私にとっては明らかで、議論の余地も無いと思えることでも、今はまだ、まったくと言っていいほど理解されてないから、その主張が掻き消されないように、同じ声を上げることも必要なんだ、というオラクルメッセージを聞いて、なるほど一理ある、と思った。
宇宙人が居るか、居ないか、なんて話は、正直、今さらだと思ってるんだけど。
見たことが無いから「居ない」というのがまだ社会常識なのかな。私も、宇宙人はおろか、UFOとかも見たことはないが、地球人しか存在しない、と考える方がどうかしてるだろうとおもう。
太陽以外の恒星が、銀河には無数にあり、宇宙には銀河が無数にあるというのに、たったひとつの恒星の惑星にだけ生命体が存在するなんて、意味が分からない。観測できないことと、存在しないことは、違う。
顕微鏡でなければ見えないものは、たった数百年前までは“存在してなかった”わけだけど、今は存在が立証されてる。そんなわけがあるか、存在しているものを、観測できてなかっただけだろ、とみんな言うはず。宇宙に対しても、そうなだけだろ。
こんなの、議論の余地もないとおもうんだけど、こないだ、彗星が人工物かもしれない、とか天文学界が混乱していたそうで。私は、そういう情報にも興味がないんだけど、それは、「ある」と分かりきってるものだ、と自分の中で答えが出てるから。
ただ、「分からない」と思っている人たちにしか、研究って出来ないもんだろうから、疑いのまなざしも必要なんだとは思うけどね。
そのうち、疑いようのない答えが出るはず。そのとき、「ええー!」って驚くのも楽しいんだろうし。
ところで、私は、『宇宙存在』は居るものだと思ってるけど、彼らが、科学的、精神的に、進んだ種族だという話には、とても懐疑的。
もちろん、現在の地球人よりは、知識が進んでる、高度だ、とは言えるだろうと思う。
でも、われわれは地球人よりも高次元の存在だ、われわれの方が優れている、とか言ってるのは「正しくない」と思っていて。確かに、『光』に偏った、いわゆる『天使』に近い存在かもしれないけど、「正しさ」を説くことは『神』にはほど遠いなーと思うのだ。
『光』やら、「正しさ」やらにこだわるのは、『闇』とか「悪」を対立軸に置いた二元性だってことは分かるはず。
光しか、愛しか無い状態を、地球人よりも高次だと言いたいみたいだけど、根源に闇も悪もあるから、世界に存在しているわけだろ。すべてを内包している宇宙とか、無限性を指して『神』と呼ぶなら、「ここからここまでは善だ、光だ、正しさだ」と境界を引く偏りは、有限そのもので、神とは異なる在り方や意識なんだ。
ここら辺を、わかりやすく説明するのは難しい。
「正しさ」をどこまでも追求して、『闇』を否定し、「悪」を断じることも、やりたいならやればいいことだし。
ただ、自称「高次元の宇宙存在」とやらが説く「正しさ」とか「高次さ」に縛られて、自分のありのままを否定するのは、自分を、地球人を、宇宙人よりも下に置いたことになるからね、とは言っておく。
今日、耳にした一例が、地球人よりも高次な存在は、動物性食品を取らないって話。
私は常々不思議なんだけど、「命あるものを食べる」ことが悪いと言うのなら、なぜ、植物を食べるのだろうってこと。
動物には命があるけど、植物には命がないと言いたいのだろうか?
私は、自然や草花が好きと言う人たちが、育てたい植物のまわりに生えている自生の植物を「雑草」と呼んで引っこ抜くのが疑問なんだ。かつての天皇のように「雑草という名の植物はありません」などと言う気は無いけども。自分の好きな植物だけをえり好みしたり、花を切って飾る人間が、本当に植物や自然が好きだと言えるのかが、疑問で仕方ない。
彼らの中では、命の選別が明確になされているらしいけど、私には、これは良くて、これはダメ、という線引きが自分勝手な価値観にしか思えないんだよね。べつに、私は雑草を引っこ抜き、花を切る人間をダメだと言う気はないけど、そういう人たちが動物を食べる人間を否定するのは、納得がいかない。単に、動物はいいけど人間はダメだ、みたいな違う線引きがあるだけのことでしょ?と。
動物を食べる人が低次なら、そういう人が育てた野菜というのも低次なんですか?と思うが。
私は、いわゆる「日本食」が好みではない人間だから、信仰のような日本食礼賛に従う気などさらさら無いんだけど。他国の食文化を全否定するような精神性が高次だとは、思わないな。食べたいものを食べ、食べたくないものは食べなければいいだけのことで、「これを食べろ」と同じくらい、「これを食べるな」も大きなお世話だと思う。
私は、白米と発酵食品と魚介類と味噌醤油の味がとんと口に合わないので、それらを善とするのはただの信仰だと言い切れる。でもって、信仰というのは、宇宙存在の勢力争いだと思ってるんだけど。牛を食べるなとか、鯨を食べるなとか、モロに。
私は、好きにすればいいじゃんとか、どっちでもいいじゃん、というのが信条なので、こういうことをいちいち書く意味も無いと思ってるんだ、本当は。
「とやかく言われたくない」があるので、他人のこともとやかく言う気はない。
ただ、常識とも、スピ系とも違う感覚の持ち主が居るなら、「それでいいんだよ」とは言ってあげたいと思って、これを書いた。
「それでいい」ことも、今となっては分かりきってることで、他者ではなく、自分の心に問えって、けっこうあちこちで言われているとは思うんだけどね。100パーセント、「それじゃダメ」だと言われるよ。そういう意見にはぶつかるけど、それを受け入れるかどうかは、自分の選択であり、自由なんだからね、って。それを私が言うことに、何か意味があるのか…………そこは、半信半疑。
