冷徹メガネと天職探しの旅 第39話 成る
第39話 成る
「僕はお客様に真摯に向き合っている時に喜びや、楽しさを感じます。しかし今求められている営業スタイルではそれを感じることは難しいです」
僕は机の下でズボンを強く握りしめていた。手のひらには汗をぐっしょりとかいていた。
「今回たまたま上手くいっただけだろ」
藤原マネジャーはいつものように鋭い言葉を投げつけて来る。
「なのでやはり退職を考えています」
僕は藤原マネジャーの目を見て言った。
「退職金は出ませんよ。まだもう少し頑張ってみたらどうですか」
多田さんが前のめりになって言った。
「気持ちは変わりません」
多田さんは背もたれに体をあずけて小さく息を吐いた。
「後悔するぞ」
藤原マネジャーはその言葉を投げ捨てるように言い、音を立てながら歩きドアを思いっきり締め、外に出ていった。多田さんは何も言わずコソコソとその後について部屋の外に出て行った。僕は1人部屋に残された。大きく深呼吸をした。席に戻りインターネットで退職願の書き方を調べた。インターネット上にある退職願サンプルを見ながら紙に書いていく。文言は少なく、これだけで新卒から5年間勤めてきた会社を辞めることになるとあまりの呆気なさに驚いた。
同僚の佐藤が隣の席に座って来た。
「PIPはどうだった」
「無事終わったよ」
「そうか、まあ今後も一緒にやっていこうぜ」
「そうだね」
僕は退職願を書いた紙を三つ折りにして封筒に入れた。そしてそのまま上司のデスクに向かった。不思議と足取りは軽く緊張もしなかった。デスクでPCを見ている藤原マネジャーに退職願を渡した。
「ありがとうございました」
僕は頭を深く下げた。藤原マネジャーはこちらを見ることは無く、何も言葉を発することは無かった。人事担当のところにも行き、上司に退職願を提出したことを伝えた。人事からは事務的な手続きと退職日、残りの有休について話し合いをした。人事担当者も淡々と話を進め感情はこもっていなかった。退職日は一か月後の月末となった。
東京駅のネオンの下を歩く。この光景も見納めになると考えると少し寂しい思いもした。しかしそれ以上に足取りは軽く、自分自身の足でしっかりと歩いている気がした。電車内で携帯電話を見ると、天神さんからラインが来ていた。どうやらアメリカから日本に戻って来ているようだ。一度また新宿で会おうとメッセージが来ていた。僕はすぐに自分の予定を送り、会う日を決めた。そしてメッセージを送った後に、天神さんから就職先が決まるまでは会社を辞めるなと言われていたのを思い出し、会社を辞めたコトを知った時のあきれた天神さんの顔が想像できた。
土曜日の新宿駅は平日とはまた違った様子で混んでいた。家族やカップル、友人などが多い。誰もがウキウキとしており楽しそうだ。僕は天神さんと待ち合わせをしたいつもの喫茶店に向かった。すでに天神さんは奥の席に座っておりPCに何かを打ち込んでいる。僕はアイスコーヒーをお盆に載せて天神さんの席まで向かった。久しぶりに天神さんと会うので何だか恥ずかしいような緊張するような色々と混ざった気持ちが胸に訪れていた。
「お久しぶりです」
少し声が上ずってしまった。天神さんはPCの入力する手を見てこちらを見た。一瞬目を大きく開き、その後目を細めた。
「お久しぶりです」
「失礼します」
ぎこちなく僕は天神さんの前の席に座った。天神さんの前には飲みかけのぶどうジュースが置かれている。グラスには水滴がついていた。
「変わりましたね」
突然言われて僕は少し戸惑った。
「そうですかね?髪を切ったからですかね」
僕は頭をかきながら答えた。
「就職活動はどうですか」
「実は最終面接まで行った第一候補だったT社がダメでした。今受けているのは介護業界の1社になります」
前回受けてから一週間はたっているのに返事が無いので正直落ちたと思っている。
「どんな会社なんですか」
「介護関係のレンタルをやっている会社で、お客様に直接貢献ができ、感謝されるのでやりがいを感じると思いました、でも」
「でも?」
天神さんがぶどうジュースを飲みながら聞いた。
「そこは営業職を募集していて、実は今人事の仕事に興味があるので面接
中にそのことを話してしまって難しい状況です」
「人事に興味が出たのですね」
「そうです。色々と考えることがあって」
「人事向いていると思います」
「本当ですか?」
天神さんからそのような言葉が出るとは思わなかったので、嬉しくなってしまった。
「本当です。私も以前は人事職でした。難しいこともありますがやる価値のある仕事です」
「そうなんですね」
僕は気持ちがウキウキしてきた。思わず自分が人事として活躍している姿をイメージしていた。
「でも中々、人事職って求人がないんですよね。特に未経験からは」
天神さんは一瞬考えてから答えた。
「会社の数だけ人事の席はありますよ。エージェント、就職フェア、採用ホームページ、紹介など様々な方法を使って探してみて、応募してください」
天神さんはノートPCを閉じて、ぶどうジュースを飲み干した。
「わかりました」
「それよりやりたい仕事が見つかって良かったですね」
「ありがとうございます。でもまだ本当に人事が天職かどうかはわかりません」
「天職は成るものです」
天神さんはこちらをしっかりと見ながら言った。
「成るもの・・・」
天神さんはPCを鞄に入れて立ち上がった。
「何かあればすぐに連絡をください」
「ありがとうございます」
僕も慌てて席を立った。天神さんはお盆を片手にスタスタと外に出ていった。僕は天神さんとの会話を反芻しながらアイスコーヒーを飲んでいた。
新宿の東口出口に向かった。約束の時間までまだ余裕はある。もう来ないと思っていた浅見さんから返信が来て、また会うこととなった。嬉しさと緊張で手のひらがじんわりと濡れている。立つ場所を何度か変えつつ待っていると浅見さんが改札口から出てくるのが見えた。あんなにアイスコーヒーを飲んだのに喉が渇いていくのが感じた。浅見さんが小走りにこちらへ向かってやってくる。
「ごめん、待った」
「待ってないよ」
それ以降の言葉が上手く出なかった。
「お昼食べた?」
「まだ食べてない」
「食べに行こうか」
人があふれる新宿東口から出て僕らは飲食店が並ぶ丸井に向かって歩き始めた。二人の距離感はぎこちなく、会話もあまり弾まなかった。そしてキョロキョロと探すが良さそうな飲食店は中々見つからなかった。
