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『普通の人間になりたかった』


まえがき

「生きることが苦しい」と感じたことがある人へ。
このnoteは、どこにでもいるようなひとりの人間が、
「普通になりたかった」という一心で生きてきた記録です。
子どものころに感じていた「みんなと何かが違う」という違和感。
周囲に合わせようと努力しても、どうしても埋まらない距離感。
社会に出てはじめて気づいた自分が持っていた「障害」という名前。
そして、その事実とどう向き合うか今も模索している最中です。
これは成功談でも、解決策の提示でもありません。
けれど、もし今あなたが同じように生きづらさを感じているのなら、
このnoteが少しでも「ひとりじゃない」と感じるきっかけになれたら嬉しいです。

はじめに

私が自分のことを軽度知的障害だと知ったのは2025年の2月28日だった。
なぜ32歳を目前に控えてこの事実を知ったのかというと、
4年程前から通院している精神科の先生に
WAIS-IVの知能テストを受けてみないかと言われたのが理由である。
「みやさんはIQ70で軽度知的障害に分類されます」
先生はそう言った。
その一言に私は酷くショックを受けた
何故なら31年間自分は「健常者」だと思って生活してきたからだ、
私は4年前からうつ病を患っており
その治療や診察のデータを取るためのテストだと思い受けたのだが
そうではなかったようだ。
ショックを受けた後、納得もしてしまった。
それは何故か、
子供の時からの生き辛さの答えだと思ったからだ。
自分の人生を思い返せば努力しても成功することよりも失敗することの方が多い人生だったように思う。


幼少期

小学校に入るまでは、人見知りがひどく他の子どもたちと遊ぶことがなかなかできなかった。
小学生になってからは少しずつ人見知りはマシになっていったが、
それでも友達を作るのは得意ではなかった。
両親は共働きだったため私は学童保育に通うことになった。
そこでは毎日のように一緒に遊ぶ友達ができた。
彼の名前はHくん。特別支援学級に通っている子だった。
大人になった今振り返れば、彼はおそらくADHD【注意欠陥・多動性障害】の症状があったのだろう。
授業中も落ち着きがなく、教室を抜け出しては校内を走り回り、
好きなように遊んでいた。
優しい養護教諭の先生がいつもそばについていた。
当時の私はそんな彼がとても羨ましかった。
「なぜ自分にはああいう自由がないのだろう」と。
私も授業中にじっとしていられないことが多く、
体がソワソワして落ち着かなくなる。
けれど、椅子に座っていられないほどではなかったため、
先生や母からは「我慢しなさい」と言われた。
私は手元にある鉛筆やコンパスの針で、
自分の手や足をこっそり刺しながらそのソワソワを紛らわせていた。
そうやって必死に「普通」を装っていたのかもしれない。
小学2〜3年生になると、
学校の勉強についていくのがどんどん難しくなった。
両親は心配して塾に通わせてくれたり、家庭教師をつけてくれたりした。
それでも勉強に集中できず、成績はなかなか伸びなかった。
今振り返れば「ついていけない」ことに対する不安や劣等感を、
私はこの頃からずっと抱えていたのだと思う。
けれど、その正体が「知的障害」という名前で説明されることになるとは、当時の私は知る由もなかった。

小学校高学年から中学時代

小学5年生のとき、親の仕事の関係で私は引っ越すことになった。
せっかくできた友達と離れるのは嫌だったし、
新しい土地でうまくやっていける自信もなかった。
でも、大人が決めたことには逆らえない。
私はただ黙って受け入れるしかなかった。
新しい街、○○市。
環境が変わるとともに、友達との距離も、心の距離も広がっていった。
学校では誰とも深く仲良くなることはできず、
休み時間になると一人で図書室へ向かった。
そこで私は本の中に居場所を見つけた。
ある日、校長先生が声をかけてくれた。
「暇なら校長室で漫画でも読んでいきなさい」と言って、
校長室に置いてあった手塚治虫の漫画を自由に読ませてくれた。
勉強は相変わらずついていけなかった。
塾に通わせてもらっていたけれど、
集中できず、成績は思うように伸びなかった。
それでも「頑張らなきゃ」という思いだけはあった。
親に心配をかけたくなかったし、自分も「普通でいたかった」。
中学生になると、勉強はさらに難しくなった。
でも私はそれまでと同じように、
学校と塾で耐えるようにして勉強を続けた。
部活動にも入った。バスケットボール部。
身体を動かすのは好きだったし、先輩たちは優しかった。
けれど、その平穏も長くは続かなかった。
中学2年の夏、先輩たちが引退してから、
私は部活の同級生たちに突然いじめられるようになった。
暴言、無視、物を隠されたり捨てられたり、
理由は大人になった今でもわからない。
ただある日を境に、空気がガラッと変わった。
私は当時体格が良かったため、暴力を受けることはなかった。
でも、言葉と態度の暴力は、心を確実に削っていった。
やがて学校に行くのが辛くなり、登校を拒否するようになった。
秋頃から家に引きこもり始め中学3年の5月頃まで、
私は自室からほとんど出なかった。
けれど引きこもっていても、心はずっと焦っていた。
このままでは高校に行けない。
勉強ができない私が、
さらに内申点まで失えばどこにも進学できなくなってしまう。
その思いが、私を再び学校へと向かわせた。
そこから高校受験までの期間は、人生で一番努力した時間だったと思う。
いじめてきた同級生が進学する地元の公立高校だけは、
絶対に行きたくなかった。
「誰も自分を知らない場所で、やり直したい」
その一心で、私は必死に勉強した。
結果、偏差値は高くなかったが、私立の高校に合格することができた。
合格を知らせたとき、家族が心から喜んでくれて、
私は心の底から嬉しかった。

高校時代

高校に入って私は少しだけ、自分の世界を見つけられた気がした。
中学で味わったいじめや引きこもりの日々のあと、
私は「誰も自分を知らない場所」でリスタートすることを選んだ。
その私立高校で思いがけず、共通の趣味を持つ友達ができた。
私は引きこもっていた間にアニメやゲームにハマり、
いわゆる「オタク」になっていた。
その趣味を通じて、自然と仲間ができたのだ。
同じクラスで、同じ作品が好きで、
休み時間にはその話題で盛り上がれるそんな友達が3人もできた。
彼らとは、高校を卒業した今でも連絡を取り合っている。
どんなに不器用でも「自分でいられる居場所」があることは、
当時の私にとって本当に救いだった。
学校全体の雰囲気も、温かかった。
学年全体が仲が良く、喧嘩はあってもいじめはまったくなかった。
中学時代の地獄のような毎日とは比べ物にならなかった。
ただ、勉強はやっぱり難しかった。
授業についていけないことは日常茶飯事。
テスト前には友達やクラスメイトが問題を教えてくれたり、
時には答案を写させてくれたりもした。
カンニングペーパーを使って赤点を回避したこともある。
それは誇れることではないかもしれない。
けれどあの頃の私にとっては、
「普通の高校生として学校に通い続けるため」の唯一の手段だった。
そして何より誰かに「助けてもらえる自分」でいられたことが、
嬉しかったのだ。
高校生活は今振り返っても、
私にとって「人生で一番楽しかった時間」だと断言できる。
大学進学もこの「普通の人になりたい」という思いの延長線上にあった。
周囲の仲の良かった友達たちは皆、高卒で就職していった。
でも私はまだ「普通のレール」に乗りたかった。
大学を出て、
会社に就職して、
結婚して、
子どもを育てて、
親に孫を見せて、
そんな「当たり前の未来」を目指すことが、
自分の務めだと思っていた。
だから私は大学に進学することに決めた。
成績に自信がなかった私は、AO入試を選んだ。
小論文と面接だけの試験だった。
小論文は、担任の先生が何度も添削してくれて仕上げることができた。
面接も、先生と何度も練習したおかげで本番では落ち着いて話せた。
その結果、私は無事大学に合格した。
また一歩、「普通」に近づけた気がして嬉しかった。

大学時代

大学に進学して私は「これでまた一歩、普通に近づけた」と思っていた。
入学したのはいわゆるFラン大学だったが、
それは私にとって関係なかった。
重要なのは「大学に通っている自分」になれたことだった。
自分の人生が少しだけちゃんとした「形」になった気がした。
高校では同級生だったが、クラスは一緒になったことのなかったY君が、
声をかけてくれた。
大学で仲良くなれたのは彼だけだったけれど、
それでも私は安心してキャンパスに通うことができた。
ただ大学生活は、思っていたよりもずっと難しかった。
周囲の学生たちは、授業の内容をどんどん理解していく。
一方の私は講義のスピードについていけず、
ノートを取るだけで精一杯だった。
だけど出席さえしていれば単位がもらえるような講義も多かったため、
なんとか卒業に必要な単位は揃えることができた。
それでも、自信は持てなかった。
自動車免許を取りに通ったときもそうだった。
実技はそこまで問題なく進んだが、学科試験はまったく通らなかった。
試験に落ちるたび、自分がどこかおかしいのではないかと不安になる。
結局、本試験に7回も落ちた。
それだけじゃない。
「就職に役立つから」と勧められた資格の勉強も、
何度挑戦しても合格できなかった。
唯一、簡単だと言われていたMOS(マイクロソフト・オフィス・スペシャリスト)だけは、ギリギリの点数で合格できた。
だけど、胸を張れるような達成感はなかった。
次第に「このままで本当に社会で通用するのか」と不安が膨らんでいった。
しかも奨学金という名の借金を背負ってまで進学した大学生活。
その価値が自分の中でどんどんわからなくなっていった。
「もしかしたら友達と同じように高卒で働いた方が良かったのではないか」
「大学に行くことで【普通】に近づくどころか、
余計に遠回ってしまったんじゃないか」
そんな後悔の気持ちが心の中でずっとくすぶっていた。
そして迎えた就職活動。
これまでの人生で味わったことのない苦しさがそこにはあった。
大学では教えてもらえなかった
自己分析、適性検査、エントリーシートの書き方。
そして何より人と話すことが苦手な私にとって、
グループディスカッションや集団面接は地獄のようだった。
大学3年の夏から始めた就活は、
卒業間近の1月になっても内定がもらえなかった。
何社も受けて、何度も落ちて、そのたびに
「自分には社会で生きていく力がないのかもしれない」と思わされた。
最終的にようやく一社だけ、内定をもらうことができた。
それは学生時代にアルバイトをしていたスーパーではなく、
まったく別の会社のスーパーだった。
業界としては経験があったし、多少は勝手も分かるだろうと思っていた。
「ここでなら自分も社会人としてやっていけるかもしれない」
そんな一縷の望みを胸に、私は社会に一歩を踏み出した。
しかし、その希望が長く続くことはなかった 。

新社会人

社会人になった。
大学を卒業し、スーツに身を包み、
内定をもらったスーパーの新入社員として出勤する。
それは確かに目指していた「普通の人生」のひとつの形だった。
最初の頃は周りの人たちも優しかった。
上司や先輩は丁寧に仕事を教えてくれたし、
「わからないことがあれば聞いてね」と声もかけてくれた。
私も「ここでなら自分もなんとかやっていけるかもしれない」
と前向きだった。
けれど、時間が経つにつれ現実は少しずつ変わっていった。
覚えるべき仕事の量は膨大で、スピードも求められる。
私は指示をすぐに理解できず、
何度も同じことを確認しなければならなかった。
ミスも多かった。陳列ミスや時間管理のミス。
気をつけていたつもりでもどこかで抜けてしまう。
そして、最も苦手だったのは電話対応だった。
「お電話ありがとうございます。〇〇スーパーでございます。」
この一言を何度も練習したが、どうしても言葉がうまく出てこない。
緊張しすぎて、相手の名前を聞き返すことが多く、
対応に時間がかかることが重なり何度も注意された。
電話の向こうにいるお客さんに、
ちゃんと対応できていない自分がとても情けなかった。
その度に「自分にはこの仕事が向いていないのではないか」
と自信をなくしていった。
最初は優しかった上司や先輩たちも、次第に厳しくなり、
私が失敗するたびに軽い口調でこう言われた。
「何回言ったら覚えるねん」
「これぐらい普通できるやろ?」
「お前ホンマ使えんなぁ」
直接的ではなくても、
確かに【見下されている】と感じる空気が職場にあった。
私は自分なりに努力していた。
メモを取ったり、家に帰ってから復習したり、
誰よりも早く出勤して準備したりもした。
だけどその努力が結果につながることはなかった。
何より辛かったのは、
「自分は役に立っていない」と思い知らされる日々だった。
それでも「簡単に辞めてはいけない」と思った。
親に大学に行かせてもらい、就職できたと喜んでもらった。
ここで頑張って社員として働き続けて、
やっと「普通の大人」になれる。
そう思っていた。
でも心と体は正直だった。
朝起きるのがつらくなった。
会社の最寄り駅に近づくと、吐き気がした。
休みの日も職場で怒られた場面が何度も頭の中に浮かんできて、
眠れなかった。
そしてある朝、出勤準備の途中でふと手が止まった。
「もう無理だ」と、心のどこかで誰かがささやいた。
私は、会社を辞めた。

働き続けることの難しさ

会社を辞めた後、私の心には空虚な感じが広がっていた。
最初の頃は「やっぱり辞めてよかったんだ」と思ったが、
日が経つにつれて次に何をしていいのか分からなくなっていた。
何もかもが中途半端に終わった気がして、気持ちが落ち着かなかった。
家族には心配をかけたくないと思い、また新たにアルバイトを探し始めた。
最初に選んだのは郵便局の荷物の配達のアルバイトだった。
早朝から荷物を配達する仕事は体力的に大変だったが、
何かをしていなければならないという思いが強かった。
荷物を配るルートも覚えるのが大変で、最初は迷ってばかりだったが、
少しずつ慣れてきた。
それでも荷物の多さや時間に追われる中で、
どこか焦ってしまう自分がいた。
疲れ果てた日はもう一度家に帰るのが面倒に感じることもあった。
その後以前アルバイトをしていたのとは別のスーパーで働くことになった。
スーパーでは青果部門での食品加工と陳列作業を担当した。
果物や野菜の鮮度を保ちつつ、見栄え良く並べることは意外と難しく、
何度も手直しをしては悩んでいた。
さらに青果部門では食品の加工も行った。
例えば野菜を洗ったり、果物をカットしたりする作業もあった。
最初は不安だったが少しずつ手順を覚えていき、
効率的にできるようになった。
「この配置で大丈夫だろうか?」
「少しでも商品の鮮度が落ちたらどうしよう」
常に気を使い注意深く作業していたが、
心のどこかで「もっと上手くできたはずだ」という気持ちが渦巻いていた。
他のスタッフと同じようにスムーズに作業ができず、
次々にやるべきことをこなすことができなかった。
アルバイト先でも、他のスタッフとの関係がうまくいかないことがあった。
誰かと話すのも苦手で、
コミュニケーションの面で何度も行き違いを起こしてしまう。
そんな自分を恥じ仕事をしていても常に不安を感じていた。
何度アルバイトを変えたり、場所を変えたりしても、
その不安感や自己嫌悪から逃れることはできなかった。
どこで働いても、
結局は自分が「普通の人」とは違う存在だということを感じ続けていた。
アルバイトは続けていたが、
それでも心の中でまた「何かが違う」と感じていた。
やりたいことを見つけられず、ただ働いているだけの日々が続いていった。

うつ病と向き合う

私はずっと「普通の人」として生きたかった。
人並みに友達を作り、
人並みに働き、
人並みに疲れて、
人並みに笑っていたかった。
だけどどれだけ努力しても、その「普通」に手が届くことはなかった。
むしろ追いかければ追いかけるほど、自分がその「普通」からどれだけ遠くにいるかを突きつけられてばかりだった。
ある時から世界が少しずつ色を失っていった。
何をしても、心が動かない。
誰と話しても、
何を食べても、
大好きだったはずのゲームをしても、
まるで自分が透明人間になったかのような感覚に襲われた。
喜びも、
悲しみも、
焦りも、
怒りも、
全部がぼんやりしていて、ただ「何も感じない」という状態が続いた。
そんな時間が積み重なるうちに、人と会うのが怖くなっていった。
外に出るのがしんどい。
誰かに会いたい気持ちはあるのに、
実際に会おうとすると、心も体も動かない。
朝が来るのが怖くて、でも夜が来るのも怖かった。
眠れなくてようやく寝ても、
夢の中でも現実と変わらない孤独がまとわりついて離れなかった。
「何のために生きているんだろう」
そんな言葉が、頭の中で何度も何度も繰り返されるようになった。
それは考えているというより、ずっと聞こえてくる「音」のようだった。
自分でもどうしたらいいのか分からなかった。
ただ心のどこかで「もう終わらせてしまいたい」と思う瞬間が、
日に日に増えていった。
そしてある日限界を迎えた私は、
何とか言葉を絞り出すようにして母に打ち明けた。
「もう死にたい、消えてしまいたい」
そう伝えた瞬間、母の目から大粒の涙がこぼれ落ちた。
言葉よりも先に、母は私を強く静かに抱きしめてくれた。
何も言わずただ抱きしめてくれた。
その温もりに触れた時張りつめていた心の糸がぷつんと切れて、
私はその場で泣いた。
しばらくして母は言った。
「一緒に病院に行こう」
その言葉が、私にとって最初の救いの手だった。
自分から助けを求めることはできなかった。
だけど差し出された手は、たしかに温かかった。
診断は「うつ病」。
最初は受け入れられなかった。
心の病なんてどこか遠い世界の話のように思っていたし、
まさか自分がその渦中にいるなんて思ってもいなかった。
それでも通院を続け、薬を飲み、少しずつ「自分が病気である」
という事実を認めざるを得なくなっていった。
そしてその後さらに告げられたのが「軽度知的障害」という診断だった。
この言葉を聞いた時、私はすぐには何も言えなかった。
ただ「ああ、そういうことだったのか」と、
長年感じていた違和感や生きづらさに、
一つのラベルが貼られたように感じた。
でもそれで何かが楽になったわけじゃない。
むしろそのラベルが、自分の将来に線を引いたように思えた。
「もう自分は普通の生き方はできないんだ」と、強く思った。
周囲の普通の人のように働くことも、恋愛することも、家庭を持つことも、きっと自分には難しい。
そう思うたび、どこにも居場所がないように感じた。
社会の中で自分は必要とされていないんじゃないか。
生きていても誰の役にも立たないんじゃないか。
そんな思いに囚われながら、ただ時間だけが過ぎていった。
「前向きにならなきゃ」
「自分を受け入れよう」
そう言われることもあるけれど、
正直そんな簡単に割り切れるほど私は強くない。
今も私は自分のことをちゃんと理解できていない。
自分を好きにもなれていない。
それでもあの日、涙を流しながら私を抱きしめてくれた母の温もりだけは、今も胸に残っている。
それが私にとって、
唯一「生きていてよかった」と思えた瞬間だったのかもしれない。

まだ途中にいる私から誰かへ

もう何度も思った。
「こんな人生なら、生まれてこなければよかった」って。
努力しても報われない。
頑張っても理解されない。
ただ、「普通」になりたかっただけなのに、
どうしてこんなにも苦しまなきゃいけないのか
その問いに何度も何度も潰されそうになった。
社会にとって価値のある人間になりたかった。
人並みに働いて、
誰かを愛して、
家族をつくって、
「あなたは普通の人ですね」って、誰かに認められたかった。
でも現実はそうじゃなかった。
仕事も続かない。
人間関係も築けない。
心はボロボロになって、病気だと診断されて、
最後には「軽度知的障害」というラベルを貼られた。
その言葉を聞いたとき、
「ああ、やっぱり私はダメな人間だったんだ」
そう思っていると、何かが静かに壊れる音がした。
どれだけ自分を責めても誰にも届かない。
どれだけ苦しんでも「まだ甘えてるんじゃないの?」って、
そう見られてる気がして。
そのたびに心の奥が真っ黒になっていった。
でもそれでも、私はまだ、生きている。
うまく笑えなくても、生きている。
働けなくても、生きている。
何もできなくても、生きている。
それだけは、事実だ。
未来に希望なんて正直まだ持てていない。
明日が今日より良くなるなんて信じられない。
それでも私は思う。
「よく頑張ってきたね」って、あの頃の自分にだけは言ってやりたい。
何度も壊れながら、何度も絶望しながら、それでもここまで来た。
それだけで本当は、もう十分だったのかもしれない。
私は「普通の人間」にはなれなかった。
今も何者にもなれていないし、これからなれるとも思えない。
だけど自分の人生を、それでも少しだけ抱きしめてみようとしている。
それが今の私にできるささやかな抵抗だ。
「普通になりたかった」
その願いが、どれだけ切実で、どれだけ私を縛ってきたか。
もしかするとそれはもう、手放してもいいものなのかもしれない。
でも 今はまだ、手放す勇気がない。
私はまだ途中にいる。
どこにもたどり着けていないし、何にもなれていない。
ただそれでも、今日もなんとか呼吸をしている。
それだけのことが、
ほんの少しだけ、誰かの光になったらいいと思っている。
たとえ今が暗闇の中だとしても。
言葉が、手が、温もりが
あの日、母がそうしてくれたように、
誰かの心にそっと触れることがあるのなら。
いつか全部が報われるとは思ってない。ただ、今はまだ、生きている。

あとがき

ここまで読んでくださって、ありがとうございました。
私は何かを達成したわけでも、有名になったわけでもありません。
ただ何度も転び、挫折しながらも、
「今日を生きる」ことを選択した人間です。
生きることに理由が必要なら、
それは「誰かの記憶に残ること」かもしれません。
私はまだ途中にいます。
でも、この「途中」こそが生きている証なのだと思っています。
どうか、あなたも今日を生きてください。
そしていつかどこかで、ほんの少しでも心が軽くなる日が来ますように


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