「努力すること」から卒業します 〜 完璧主義から「適当」主義へ 〜
努力することをやめます
と聞いて、驚いた方も多いかもしれません。このnoteを読んでいる方は、おそらく休みの日でも誰かの記事を見る、勉強熱心な素晴らしい方です。
しかし、最近思うことがあります。努力の方向性を間違えると不幸になるだけだなと。
ここ数年じぶんなりに、
・英語学習
・ライティング
・デザイン
・SNS発信
・トレーニング
とさまざまな分野にわたって、頑張ってきました。精神ギリギリの時も何度かありました。しかし、最近思う。
「この努力いつまで続ければええねん」
ひどい時は、「努力を続けた先に何が残るのだろうか」と悟りを軽く100回くらいは開きました。
そして、私は気づきました。最初は、じぶんの人生をよりよくする、楽しむための努力だったのに、気づけばその一番大切なことを忘れている。
じぶんから努力しているようで、努力に人生をコントロールされている。
なので、ここで宣言します。努力することから卒業すると。
努力しているじぶんという条件付きの承認をやめる
努力しているじぶんには価値があるけど、そうでないじぶんには価値がない。何もせず終わった1日に罪悪感を覚える。
何をするにも目的意識を持ってしまう。休む時でさえ、これはリラックスして、次に活かすため。と考えてしまう。でも、このままだと確実に燃え尽きる。
「最適化する」ことを目的にすべての行動が設計されている。そんな方は多いと思います。
正直、資本主義社会である以上、ある程度競争に勝つことは重要だとは思っている。でも、じぶん自身を認めた上で努力しないと、それは自己否定の闇の努力です。
でも辞められない。それは、努力している方が進んでいるように感じるからラクなんだとも思う。
脳死で努力して、この競争社会のレールを走れば、今じぶんが向き合うべき問題から逃げることができるからです。
ただ、話したいから。という理由で知り合いを誘っている理由
今年の目標として、会ってみたいと思っている知り合いをじぶんから誘うということをしている。(目標にしている時点で末期だけど笑)
ただ、話したい。それだけの理由。今の所、ありがたいことに何人か予定を開けてくれて、結果として楽しく食事ができた。
その時に思ったこと
「結局、こういうのが一番楽しいんだよな」
大学時代、20歳の頃から、パソコン一つで飯を食うと決めて、ほぼ誰とも遊ばずに頑張ってきた。それ自体に意味がないわけでない。
結果として得られたことも多い。そういう遠回りをしてきたからこそ気づくことがある。
しかし、本当に楽しかった時の思い出は、フォロワーが増えた、収入がのびたということではなく、
・友人何人かとスキーに行った
・教室でトランプした
・放課後、Book off で立ち読みした(買えよ)
みたいなことだったりする。努力して何か成果を得ることは大切だ。
ただ、楽しむという最終ゴールを忘れていることは、ある種、努力に依存している、現実逃避なのかもしれない。
結局、努力を楽しんだものが強い
大谷翔平選手、藤井聡太六冠。もはやこの人らは楽しんでいる。努力の過程を。
彼らに比べたら小さなことかもしれない。ただ、皮肉なことに努力の過程を楽しんでいる時の方が、自ずと周りからも認められる結果が出ている。
逆に、必死こいてやっている時は全然見向きもされないことが多い。
楽しもうぜの心構えは無責任に聞こえるかもしれない、でも「楽しむこと」を忘れている人は多いと思う。
大人になり、現実を見ることは大切だ。しかし、大人だからという理由で大切なことを放棄している人も多い気がしている。
仕事はある種の現実逃避
だからこそ、私は、努力するということから一旦離れてみようと思う。
多分、何もしていない自分にモヤモヤするだろう。でも、そのモヤモヤする過程も楽しもうと思う。
最近も、うわ、頑張ろうとしてるな〜笑、力はいってるな〜とじぶんを俯瞰してる。
noteを書く時はパソコンを開いて、ときっちりやってたが、今はゴロゴロしながらも書いてる。上手く書けない時は潔く辞める。
これはじぶんの人生における、実験の1つだ。数年間、何か目的を持って突き進んだじぶんが、力を抜いた時、新しい何かがあるかもしれない。
コーチング用語でいう、コンフォートゾーンを抜け出すというやつか。この実験をやり終えた時のじぶんが楽しみだし、それをまたnoteに共有するのも面白いと思います。
以上、言葉の庭3月の企画、「私、〇〇を卒業します」でした。
