機械と労働
序論
効率的な労働の下に重視されるべきものは機械と人間の関係性に相違ない。
人間が機械を軽視する事は忌むべきものであり、寧ろ機械を神聖視する事も避けなければならない。
第一
そもそも効率的な労働とは何なのか...それは高度にシステム化され、無駄な動きを省いた物を指す。
技術が向上したはずの現代労働が何故、非効率なのか、その理由は大きく2つある。
一つは監督者と作業者の立場の壁。それは監督者こそ上位であり、作業者は待遇が悪くても仕方がないという常識。これは労働者に対する明確な攻撃意志であり、どのような職でも大切にされるべきだ。
職業格差、監督者こそが上に立っているという常識が打倒されなければ真の労働の目覚めは怒らない。監督者は理論的に作業者に歩み寄り、作業者は現場の意見を持って監督者に歩み寄らなければならない。
第二
一つは機械の使用意義の不明瞭さと不適切さである。
機械というのは想像と破壊を得意とする。だからこそ生命を奪ったり、本来の目的とは相違した事故を起こす場合がある。にも関わらず、やれ飲酒だの、やれ無免許だのがある。
これは到底許されるわけがなく、本来厳罰に処されるべきなのである。
また、どのような場合にこの機械を使えばいいのかなどを理解せずに使用している場合も多くある。だからこそ、単純な機械でも、複雑な機械でも講習や免許は必要なのである。
第三
今回深堀するのは後者の方に関係がある。
まず、労働とは何か。ソビエト連邦の理論家であるアレクセイ・ガースチェフは労働と機械を芸術であると述べた。
私が思うに労働とはガースチェフが述べたものともう一つあり、
例えば、あってはならないことだが不良品が続出するようであれば作業者、もしくは機械に何らかの不調が見受けられる。また、調子よく作業できているのであればその日の行動をルーティン化しようなどと考えられる。
労働とは普段自らが見る事の出来ない所まで、自他共に観察できる場ではないのかと思う。
本題:第一
本題に移るとしよう。
第一に私が思うに、機械というのは人間の手足であって、また、語らない同僚である。
共に労働という芸術を開花させる仲であっても、人間と機械は手足と脳の関係以上になってはならない。これは何故か、人間以上に賢く、判断力にたける機械(ここではAIを指す)に感情を与えてしまうと、人間の必要性がなくなり、人間性は低下の一途を辿ることとなる。
だからこそ、私は三頭主義綱領の中で「機械に心を与えてはならず、また、機械に感情を向ける事は人間性の著しい低下を招く」と記しているのである。
本題:第二
第二に、機械・道具というのは日々の労働を映す鏡のようなものであると考える。
自らの手足であるからこそ、努力や苦労が染み、日々の行動が浮かぶのではないか。
機械や道具を見て私は、明日も頑張ろうとなれる。それは今日の自分を見ているからだ。
誰だったかが「今日を頑張った者にだけ、明日が来る。」と言ったそうだがその通りであると思う。
自らの労働と働きはどれだけ小さくても、鏡に映るし、何かの役に立っている事は明白である。だからこそ、満足いかずとも、後悔しないように日々を歩んでほしい。
話はずれたが、結局上記にあるように自他ともに日々を観察する一つの方法として「機械・道具」が存在するのである。
結論
機械と人間は共に歩まなければならない。どちらかが先走れば人間は滅びる。
事実、その裏付けとして人間は技術において行かれ、事由を広げる手段である「便利」と、それが何もしない口実となった「怠惰」を混同してしまっている。
これから先、人間は創り上げてきた機械技術とどのように向き合うべきなのか...
全現代人が考えるべきテーマであると自信を持って叫び続ける。
≪簡詩:労働の意≫
甘い蜜を啜っていれば、
いつの間にか喰われてしまう。
考えよ。理解せよ。
目を信じよ。
労働はあなたを盲目から目覚めさせる__
