魔力制限はズルくない? / 人間を食う魔族を描かない理由 / 魔族と魔法の関係 / リュグナー達の負因
魔力制限はズルくない?
「葬送のフリーレン」の英語話者によるリアクション動画を結構な数見ている。
そうすると、人によって受け止め方にちがいの出やすい箇所がいくつかあることがわかる。
その中でも、お話の理解と関わるものとして、フランメがフリーレンに教える魔力制限に関するものがある。
前半の山場であるアウラ戦で印象的に使われるので説明するまでもないけど、要は、自分の魔力を小さく見せることにより相手を油断させて勝つという戦い方だ。(「魔族が言葉で人を欺くように、お前は魔力で魔族を欺くんだ」)
これについては、魔法使いとして褒められたものではない卑怯な戦い方だとフランメもフリーレンも認めていて、作中では時間をかけて丁寧にそのコンセプトを説明している。
けれども、「クレバーだね!どこが卑怯なの??」といった反応もそれなりにあるのがおもしろい。
まあ、生死をかけた戦いで手段を選り好みするのは不合理だとも考えられるから、その感覚もわかる。ただ、物語が誘導したい方向はそちらではないだろうとも思う。
もしかすると、フランメ先生の説明があまり上手ではないということかもしれない。
また、リュグナーの魔法の研究・研鑽に対する真摯な態度も、それゆえの「卑怯者め…お前たちは魔法使いの風上にも置けない…」という怒りも、今一つ伝わっていないことが原因のひとつかもしれない。(例えば、彼は非現実的なほど饒舌で、「この状況で普通そんなに喋らないだろw」と笑いたくなるが(実際、そういう反応は多い)、これはマンガ的お約束で場違いに喋らされているというよりは、魔法が好き過ぎて「お口にチャック」ができないという彼の性格と見るべきだろう)
リュグナーの怒りが伝わりにくいのは、おそらく、魔族が言葉(「お母さん」、「父上」)で人を欺いたシーンのインパクトが強すぎて、読者の魔族に対する共感の回路を閉ざしてしまっているからだろう。
そういったしがらみを抜きにリュグナーが怒る場面を見れば、「努力(凡人) vs 才能(天才)」という普遍的テーマも含んでいるし、共感できない怒りではないように思う。
話を戻すと、自分としては、このフランメのやり方は、格闘技の経験者が素人のフリをしてケンカするようなもので、やられた方が腹を立てるのは当然だと感じる。
しかも、「実はまだ本気を出していませんでした」というように、自分よりも弱い魔法使いを殺すためにこの手法を使う場面が目立つという…。(フランメがフリーレンを助けた時の「追っ手」はフランメより格上だったらしいが。)
なら、これって、弱い魔族を逃さず、魔族を根絶やしにするための戦い方なのでは…?などと思ってしまう。(ドラートはまさにこれに嵌められており、もしこれが魔族視点のサラリーマンマンガなら「組織のためを思っての行動だったが、若さゆえに報連相を怠った結果、自己の能力不足もあって最悪のトラブルを起こしてしまい、上司からは「能なしめ、全部台無しだ」と詰められる」という、ありがちではあるが、なんとも哀れで同情を誘う結末になっているのだから、フリーレンのやったことは褒められたものではない。)
フリーレンに対してソリテールはこう言った。
もう君の精神は人類のものとはかけ離れているわね。人の形をして人の言葉を話す存在が許しを請うているのに、その言葉に耳を傾けることなく殺し続けてきたのだから。もう、どちらが化け物なんだかわからないわね。
これは魔族の常套手段で、ソリテールとしてはフリーレンを動揺させるためにこう言っているに過ぎないのだが、しかし、動揺するということは真理を突いているということだ。「魔族を殺せば殺す程、人間らしさを失っていく」というのである。(おそらくフリーレンもその自覚は持っている。なぜなら、フリーレンも魔族を殺すことに対してわずかなためらいがあるからだ。例えばアウラに「ヒンメルはもういないじゃない」と言われて「やっぱりお前達魔族は化け物だ。容赦なく殺せる」と言っている。「やっぱり」から、わずかな迷い・ためらいがあることが分かる。ソリテールに対しては「久々に心を痛めずに済みそうだ」と言っている。)
フランメが「魔法を愚弄するような卑怯者は私達だけでいい」と言ったのは、「化け物になるのは私達だけで十分だ」ということだったのかもしれない。
フリーレンの無表情や人間の感情がわからないところというのは、「エルフだから」ということもあるとは思うが、人類としての精神を守るための鎧かもと思う。
魔族が人を食べる場面をなぜ描かないのか
私は〔〈殺すな〉〈お前は、殺さぬだろう〉という〕命令ないし預言に服する。なぜか。私は、他人を食べることもできるはずなのに、他人を食べ物とは思わないし思えないからだ。人間は、人間の顔を食いたいとは思わないし思えないからだ。
魔族は人間を食うという。
では、『葬送のフリーレン』が魔族が人間を食う描写を避けるのはなぜなのか。首や手を切り落とす描写はあるのだから、人間の手足に齧り付く魔族を描くことになんの遠慮があろうか?そもそも人間を食物として見ている魔族さえ描かれる事はない。これは何を意味するのだろうか?
フリーレンは復讐の為に魔族を根絶やしにしたいほど憎んでいる。読者の心情をフリーレンの側に寄せようとするならば、人間を食う魔族を描くのが効果的なはずだ。なぜそれをしないのか?
絵に描かれることと言葉で説明されることでは全く重みが異なる。
魔族が人類をどれだけ殺してきたかをフリーレンに説明させたところで読者にはほとんど響かない。(読者はまだ人類と魔族の共存を想像できる)
しかし、魔族が人間を食う絵を見せれば読者は魔族に対する強い拒絶感を持つ。(読者は魔族との共存を想像できなくなる)
つまり、人間を食う魔族を描いてしまえば、読者と魔族の断絶は決定的なものになってしまう。
ということは、魔族が人を食う描写を避ける理由は、読者と魔族との関係をペンディングにしておきたいからではないか。物語の都合上、読者が魔族に共感する回路を維持しておく必要があるというのがその理由ではないかと思う。
魔族と魔法
さて、こうやって人間と魔族を「どっちもどっち」というパラレルな視点で見ようとしたときに気になるのは、魔族は死んだら魔力の粒子になって消えるという設定だ。
死んでも死体が残らないのだから、分類学的に(?)、人類(人間、エルフ、ドワーフ)と魔族を並列に並べる事はどう考えてもおかしいだろう。
素直に考えるなら、魔族とは、魔法の存在(世界の在り方)と深く結びついた存在なのではないか。
たとえば「魔法が存在するところ魔族もまた存在し、魔法が存在しなければ魔族も存在しない」といったように。(単行本未収録部分を読むと、どうもこちらにつながりそうな感じもある。)
だとすると不可解なのは、魔族が「魔族とは」について語るときに、生物に関する進化論のようなたとえ話をしばしば持ち出すことだ。
魔族と魔法の関係について、魔族自身はどう理解しているのだろう?
このあたりはどうも収まりがわるいと感じる。
物語が進んだらまた考えてみたい。
メモ(リュグナー達の敗因)
ドラートは同僚(?)のリーニエには伝えているんですよね…。
リーニエは、リュグナーとの実力の上下関係は認めているからリュグナーの前では素直に指示に従う。(前半)
だけど後半、フェルン・シュタルクとの戦闘が始まってリュグナーの目が届かなくなるとあんなふう(「観戦でもするかな(他人事)」「(指示に対して)なんだよ、我が儘だな」「また怒られる(無反省)」)だから、面従腹背というのか組織へのコミットに欠けていることがわかる。
だから、懸念事項を直ぐ上司に伝えるタイプではない(実際、聞かれてから答えている)。
伝える相手を間違えたということかな…。

リュグナー達がフリーレン達に負けた原因を考えてみると、まずドラートの独断専行があり、そこにリーニエの任務懈怠(組織へのコミットの無さ)が重なってしまった。
つまり組織として動くことが苦手という魔族の弱点がここで出てしまったように見えます。(フランメの説明のとおり、うぬぼれと個人主義。しっかり回収している。)

