感情を理解することがどれほど大切なことなのか(マハトとデンケンの師弟関係から考える)
支配の石環
「支配の石環」の効果により、マハトは「(ヴァイゼの民に対して)少しでも悪意を抱いた時点で自ら命を絶つ」ことになっていました。(第84話)

また、「支配の石環」のもう一つ効果としては「ヴァイゼの民とその子々孫々に仕える」というものがあります。(「仕える」という概念のあいまいさについては第86話でフリーレンとデンケンが語っています。(強制力のある命令はほとんど受け付けない))
この「仕える」効果によりグリュックがマハトに対して行った指示で、今回の考察にあたり重要なものがあります。「デンケンの師であり、打ち倒すべき敵であること」です。(第92話)

「打ち倒すべき敵」というのは、デンケンの両親が魔族に殺されているからです。デンケンとマハトの出会いの場面で、デンケンは「お前は強いのか?」「お前を殺せるほど俺は強くなれるか?」と聞いています。それに対するマハトの答えは「ええ。七崩賢の中では最も。」「それはデンケン様次第かと。」です。(第91話)
マハトの最期
このマハトとデンケンの関係性は、マハトの最後の戦いのときにもマハトの台詞にはっきりと表れていて、マハトは「私は貴方の師であり、倒すべき敵。お望みとあらば敵としての役目を全うすることにいたしましょう。」と言って、「魔王軍、七崩賢、黄金郷のマハト」として名乗りを上げています。(第101話)
さて、この戦いで致命傷を負ったマハトは死が避けられないことを知ってヴァイゼの街を彷徨います。(※死期が近いことを悟ったということは、以降、「支配の石環」による支配が実質無意味になっています。)
そして、とどめを刺そうと追って来たデンケンを見て「本当に諦めが悪い」と言うのですが(第103話)、ここでも「師としてのマハト」をまだ感じ取ることができます。「昔からそうでした。」(第95話)というわけです。

しかし、そのすぐ後の次の場面(2コマ後)ではどうでしょう。

「それ以上近付くな」、「近づけばこの男を殺す」と言うマハトからは、「師としてのマハト」も「倒すべき敵(最強の七崩賢)としてのマハト」も感じられません。小悪党の様な情けない姿です。
そして、マハトの「近づけばこの男を殺す」という言葉を受けて、グリュックは「そうか。君はもう本当に助からないんだな。」と言います。
グリュックは、マハトが「支配の石環」の効果を発動させて自ら命を絶とうとした(悪意を持とうと試みた)ことに気付いたのです。(それと同時に、マハトは「師であり倒すべき敵」という役割も放棄したのですが、グリュックが着目したのは「悪意」の方だと思います。)
しかし、「支配の石環」の効果は発動しませんでした。それを見たグリュックは、マハトを楽にしてやるようデンケンに頼んだのです。
※マンガの白黒画像では「支配の石環」が作動したかどうかは判然としないのですが、私は、他の場面で描かれているものとの比較もした上で作動していないと解釈しました。アニメになった場合、あえて描かないという選択もあると思いますが、ここはかなり明確になるのではないでしょうか。
「悪意」って何?

もし、人間がマハトと同じ様に「支配の石環」を着けた状態でマハトと同じ様に「近づけばこの男を殺す」と行動をしたら、「支配の石環」が機能するでしょう。
しかし、マハトの場合「支配の石環」は機能しませんでした。
その理由はおそらく、マハトは魔族であり、魔族は人間とは全く別の生き物なので、「(人間と同じ様には)悪意を抱くことができない」からなのでしょう。
では、この時のマハトの心情(と言うべきものかも疑問ですが)とは何でしょうか?
「支配の石環」が機能しなかったということは、きっと、人間の悪意とは異なる、人間にはわからない何かなのでしょう。「義父(グリュック)を人質に取れば、(理由はよくわからないが)義理の息子(デンケン)をコントロールできる」という知識を利用しているのでしょうか。しかし、だとすると人間の感情に高い関心を持っているはずのマハトが「義理の息子は義父が殺されることを避けようとする」ということさえ知らないのでしょうか。逆に知っているなら、一般的な人間の「悪意(害意)」と何が異なるのでしょう?
色々と疑問は湧きますし、それに対する様々な説明もあるのだと思いますが、正直に言えば私にはよくわかりません。(※)
しかし、それよりもまず、この問いにはどんな意味があるのでしょうか?この問いはどれほど重要なものなのでしょうか?
そのことがまず問われて然るべきだと私は思います。
この問いは、『葬送のフリーレン』を読む時の全体の方向性とも関わるので、多分に主体的(人によって答えが異なる)な問いですが、もう少し続けます。
※黄金郷編において「悪意を抱く」ということが何を意味しているのか、私にはよくわかりません。雰囲気で理解しています。作中でわかるように説明されているとも思いません。そもそも、マンガという形式はそういった正確性を要する論述に向いている形式ではないのです。でも、雰囲気で理解していても、マンガはおもしろいし、それで構わない。それがマンガの良いところだと思います。
それよりも問われるべきこと
マハトにとって、デンケンとの師弟関係は、グリュックの命令から始まりました。(第91話)

しかし、終わりには、マハトとデンケンの関係が師弟愛さえ感じられるほんものの師弟関係に発展していたことは疑う余地がないように思います。(マハトとグリュックの友情にも同じことが言えます。)
事実、死が間近に迫って「支配の石環」による強制が無意味になってからも、最後の最後、自ら命を絶とうとするその時まで、マハトはデンケンの師であることを止めませんでした。

そもそも、人間同士の関係であっても、最初から強い絆で結ばれた師弟関係などあり得ません。(親子関係もそうです。子が生まれた瞬間に親と子は形式的には親子関係になるわけですが、ほんとうの親子関係に発展するには時間が必要です。)
これはエルフと人間の例になってしまいますが、フリーレンとフェルンの師弟関係も始まりは似た様なものでした。フェルンは、フリーレンが自分を弟子にした理由はハイターとの約束があるからに過ぎないと語っています。(第8話)

それが、マハトとデンケンの場合、魔族と人間の師弟関係であるにも関わらず、ほんとうの師弟関係と見分けがつかないような関係に発展したのです。
そのことの方が、魔族に人間と同じ感情があるとかないとか、魔族は人間の感情がわかるとかわからないとか、そんなことよりも重要なことなのではないか。
そういう問いがまず立てられるべきなのではないかという気がします。
※マハトは人間の感情理解と人類との共存をセットで考えている節がありますが、ソリテールがマハトに伝えた(第97話)とおり「わからないものをわからないまま扱う(付き合う)」というやり方もあるわけで、共存のためには理解が必要なのだろうか?という観点でもあります。

補足
※『葬送のフリーレン』に関する記事をこちらにまとめています。
※デンケンとグリュックの「自分ひとりの力ではありません」「そうだったな。いい友人に恵まれたな。」(第104話)は、フリーレンとゼーリエの「私一人の力じゃないよ」「仲間に恵まれたか。運が良かったな。」(第57話)を想起させます。
※魔族にわからないのは人間の感情というより、人間と人間の関係性が積み重ねる時間(歴史)の価値(とそれへの共感)だと見ることもできるかもしれないですね。そうするとフリーレンもなのですが。
