【ジークアクス】自由のために傷付く者・本物のニュータイプとは(最終話)
最終話の内容を扱っています。ネタバレ注意です。表題に関しての他に、最終話におけるコモリの沈黙や、シャリアとキシリアの拳銃についても一言だけ触れています。では。
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最終話において、シャリア・ブルは「自由のために傷付く者」というニュータイプ像を示します。ここでシャリアは言葉を変えながらマチュを表現しています。
シャリア:貴女はサイド6の事件で故郷を追われる事になっても何の後悔もしていなかった。あの拳銃は自分のために戦い続けてきた貴女にこそふさわしい。きっと…自由のために傷付く者こそがニュータイプなのだから。
※マチュは故郷イズマ・コロニーでの自分を「窮屈に生きてきた私」(最終話)と表現しています。
マチュ=「故郷を追われる事になっても何の後悔もしていなかった」貴女=「自分のために戦い続けてきた貴女」=「自由のために傷付く者」=「(本物の)ニュータイプ」です。
つまり、「自由のために傷付く者」というシャリアによるニュータイプの定義では言葉の省略ないし言い換えが行われています。(傷付く=たたかう)
【省略】自由のために(たたかって)傷付く者
【言い換え】自由のためにたたかう者
なぜ、このような省略ないし言い換えが行われているかというと、理由は二つあります。
理由の一つは、武器・兵器の存在が日常的なものとなっている『ジークアクス』の文脈では「戦う」という言葉が「武器を持って戦う」、「戦争する」という限定的な意味で捉えられがちだからです。ここで私が敢えてかなにひらいて「たたかう」と表記しているのも、そのためです。
もう一つの理由は、ここには「たたかうことは傷付くことである」という理解があるからです。つまり、「たたかい」とは、強いか弱いか、勝つか負けるか、生きるか死ぬかの二者択一ではない。強くても、勝っても、生き残っても、「たたかえば傷付く」のが「たたかい」だという理解です。(理由は後述します)
※ここはキシリアがニャアンに語ったニュータイプ像の否定です。(後述)
つまり、シャリアはここで「武器を持って戦う」、「戦争の道具になってモビルスーツに乗って戦う」といった戦いとは全く別次元の「たたかい」の話をしています。
それは、ラシットやタンギの言葉で「結局争うことをやめられない(やっていることは殺し合いに過ぎない)」ニュータイプが否定されていることからもわかりますし………
ラシット:ふん…。結局争う事をやめられない。多少人よりモノが見えたところで撃たれりゃ死んじまうのに
タンギ:死んだら、それでおしまいだ
コモリ:………。
※第11話でシムスの言葉を断定的に否定できたコモリが(「本物のニュータイプなら、そんなこと(キシリアの排除)はしないよ」)、なぜ、このラシットとタンギの言葉に対しては、何も応えられずに言葉を飲み込んでしまったのか。もしかすると、ここで何かを言えば、目の前でシャアと争っているシャリアを否定することになってしまうため、シャリアへの敬愛から沈黙したのかもしれません。
………本作において「本物のニュータイプ」と目されるマチュが次のように語っていることからもわかります。
マチュ:誰かに守られなきゃ生き残れないなんて、そんなの本物のニュータイプじゃない!私たちは毎日進化するんだ。明日の私はもっと強くなってやる!誰かに守ってもらう必要なんてない強い!ニュータイプに!
冒頭で引用したシャリアの言葉「自分のために戦い続けてきた貴女」をなぞるように、マチュは自分のために「毎日進化する」(たたかい続けて強くなる)ことを宣言しています。
辞書を引いてみれば「たたかう」とは「努力する」といった意味です。マチュの言葉を参照しながら補足すれば「力を尽くす」、「諦めずに頑張る」などとなるでしょう。
留意しておきたいのは、「本物のニュータイプ」に問われているのは能力の有無ではなく姿勢の有無だということです。毎日たたかって進化して、今日よりも明日はもっと強くなって、何を目指しているかというと、誰かに守ってもらう必要のない「強いニュータイプ」になることだからです。「強いニュータイプ」を目指してたたかい続けるのが「本物のニュータイプ」で、たたかいをやめてしまったら「本物のニュータイプ」ではないというのです。シャリアもマチュが終始たたかい続けていた点に着目して、マチュを本物のニュータイプだと評価しています。
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また、シャリアがここで使った「自由」という言葉も、「戦う」という言葉ほどではないものの、拡張的な意味で使われています。
つまり、ここでの「自由」には、天賦人権としてのザ・自由に限らず、「地球の海で泳ぎたい」といった素朴な自由(「偽らざる気持ちに従って行動する」程の意味)を含む広汎な意味を持たされています。(マチュはシュウジに「自分の心を縛ったりしないで」と言いました)
マチュ:窮屈に生きてきた私は、あの日シュウジと出会った。こんなキラキラした自由な世界があることを、シュウジは教えてくれたんだ。そんなシュウジが自分の心を縛ったりしないで。ララアのことが好きなんでしょう。
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以上のように理解してみると、キシリアがニャアンに語ったニュータイプ像との違いも浮き彫りになります。(第10話、アップルパイの場面)
キシリアの語る強さとは、戦いにおける強さ、敵を打ち負かす強さです。自分と敵との相対的な力関係、自分と敵とを比べてどちらが強いかが問題にされています。
キシリア:地球に住む古い大人たちは、これからもお前が自由に生きることを邪魔するだろう。これは、私が軍に入隊した時に父デギンから譲られたものだ。強くなりたいなら、ためらうことなく撃て。どれほど優れた力を持っていても、淘汰されてしまうならそれは強さではない。強さとは生き残ろうとする意志だ。ニュータイプに正しさなどいらぬ。強さがあれば、それで良い。
それに対して、シャリアやマチュが語る強さとは、傷付きながらもたたかい続ける強さです。つまり、自分自身とのたたかいにおける強さが問われています。克己心のようなものと捉えるべきでしょう。
『ジークアクス』で示された「本物のニュータイプ」とは、自由(自分)のために自分とたたかい続ける者のことです。
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これが、たたかうこと=傷付くことである理由です。たたかいとは自分自身とのたたかいですから、たたかえば傷付くのです。
シャリアの拳銃がなぜマチュにふさわしいのかも、この文脈から理解できます。シャリアの拳銃は敵を撃つための銃ではないのです。自分とたたかう者が持つべき銃です。木星でシャリアがたたかった相手も自分でした。キシリアがニャアンに渡した拳銃(敵を撃つための銃)とは対照的です。
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ただ、そうなると、これは「ガンダム」というSFが造語を使ってまでして、わざわざ提示する概念なのか?とは思うわけです。
※なお、これは第11話でシャアが示したニュータイプ像「私は、洞察に満ちた優しさを持つ者をニュータイプと理解しています」から始まっている疑問ではあります。なお、このシャアの言葉は小説版ガンダムのダイクンの言葉が由来の由緒あるもののようです(ソース未確認)。
確かに、何か意義のあることを言っている。ただ、意地悪な捉え方をすれば、耳触りは良いけれどもあまりにも意味が広汎にわたっていて、お説教を聞かされているとも、実質なにも言っていないに等しいとも感じてしまう。そんな内容になっています。
とはいえ、物語が「訴えたいこと」は得てしてそういう性格を帯びてしまうものだと思います。そのことをネガティブに捉えているわけではありません。
※GQuuuuuuX(ジークアクス)に関する記事はこちらにまとめています。

