《葬送のフリーレン》ユーベルの「姉貴」について(前奏2)
『前奏2』の第2話「刃と針」を、「ユーベルのお姉さんは生きているのか?」という観点から読んで考えたことを書きます。(以下ではユーベルのお姉さんのことを「姉貴」と表記します)
なお、私はこの第2話を何度か読んでいて、文章から受けた印象について雑に語っています。受け止め方は人それぞれだと思いますので、コメント歓迎です。
第2話の中で、ユーベルが姉貴との生活を思い返す描写は何度かあります。
ただ、いずれの文章でも、姉貴が生きているのか死んでいるのか明確には表現されていません。どちらとも取れる(死んでいるとも解釈できるし、ユーベルが幼い頃に離別しているとも解釈できる)表現になっています。
この点は原作のマンガも同じです。マンガでも小説でも姉貴の生死は明確になっていません。
ただ、生死は明確にされていないという点は同じなのですが、マンガと小説では、受ける印象はかなり異なると私は思いました。
マンガですと、「姉貴が生きていても死んでいても不思議ではない」という印象を私は持っています。(その上で、姉貴=カノーネ=リネアールの可能性を考えています)

けれども、小説では「姉貴は生きている。死んでいるとは考えにくい」という印象を持ちました。
なぜか?
姉貴はマイナーなキャラクターです。特に姉貴の生死については、読者によって解釈が異なる可能性の高いポイントです。
ですから、小説の著者に原作のマンガを渡して「これでお願い」というわけにはいかないはずです。
今も生きている
既に死んでいる
生死不明
いずれかの設定が何らかの形で明確にされているはずだろうと思います。明確にされていなければ、設定1なのに設定2と読める文章を書いてしまったり、その逆もあるでしょうし、設定3なのに生死が確定する文章を書いてしまったりもするでしょう。ですから、設定が明確になっていなければ、恐ろしくて文章が書けないと思うのです。
で、ここからは私が文章から受けた印象なので、かなり自分の勝手な感性に基づく話になるのですが…
まず、あの文章からして設定2はないと明確に思いました。姉の死については不自然なくらい触れられていません。既に死んでいるという設定があるならあの表現はないと感じます。(両親についてもそうですが、それはさておき)
そして、ユーベルが「姉貴の現在」に思いを馳せたりする描写がないことから、設定1もないと感じました。ユーベルと姉貴の間には時間的・空間的な「距離」があると感じるのです。
つまり、設定3すなわち、姉貴の生死については明確にしないという設定が存在する。そうでなければああいう文章にはならない。そういう印象の文章でした。
そうすると、現実で生死不明とは常識的には既に死んでいることを意味するわけですが、これは物語です。物語で生死不明だとすれば、「結局死んでいた」よりは「実は生きていた」というのが自然では?そんなふうに思います。
マンガと小説で印象が異なるのは、小説というものの特徴だろうと思います。
小説(文章)を使ってユーベルの内面をあのように何度も描写すると、どうしても、姉貴が生きているのか死んでいるのか(生死不明なのか)が伝わってしまう。
それに対してマンガ(絵)だと「お姉さんのことを思い出しているのかな…」くらいしか伝わりません。読者が自由に想像を働かせる余地・余白がかなり広いからです。

著者はあとがきで次のように述べています。
行間と余白にこそ深い情緒が宿る『葬送のフリーレン』という作品に対し、小説という言葉のみの表現で各人物たちを掘り下げていくことは、ひょっとすると無粋ではないかとたびたび葛藤するのですが(以下略)
姉貴=カノーネ=リネアール説(帝国編はユーベルと姉貴による復讐劇であると考える説)やラント・ユーベル兄妹説について過去記事にしています。
《葬送のフリーレン》に関する記事は下記のマガジンにまとめています。
170本以上の記事がありますが、最初の考察記事としてお勧めなのはこちらです。
これを読んだ上で、フランメ、ヒンメル、エーヴィヒ、ゼーリエ、大魔法使い、などで検索すると物語の全体像に関わる考察が出てきます。
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