フランメに導かれて――『葬送のフリーレン』を読んで、作文しての振り返りと伝えたかったこと
魔族への共感から
『葬送のフリーレン』を読んで作文して、書きたいことはあらかた書いてしまったので振り返ってみる。
振り返れば、『フリーレン』を読んだ最初から、私には魔族への共感があった。
例えば、ドラートの顛末をサラリーマン漫画にするなら、これは完全に「若手会社員の空回り」エピソードだ。組織への思いと個人的功名心の狭間で能力不足から大失敗をしてしまうというアレだ。
私にはドラートの気持ちが痛いほど良く分かる。(というか、大抵の人には分かるだろう。)
だから、フリーレンに両手と首を落とされたドラートを見て、「フリーレン万歳」といった気持ちにはなれなかった。フリーレンは残酷だし、ドラートは哀れだと思った。
それは、リーニエ、リュグナー、アウラについても同じだ。
けれども、ネットで見る限りでは、自分のような感想はほとんど見つけられなかった。
だから、これは自分が書こうと思った。
書いたものはマガジンにまとめた。
もちろん、マガジンとしての全体構想があって書いたわけではない。(そんな能力はない。)
読んで、考え、書いては公開し、また読んで…という繰り返しで作ったものだから、綺麗なまとまりがあるわけではない。個別のキャラについて書いた作文で寄り道もあったし、自分の理解が進んだために考え方にブレが生じているところもあると思う。
けれども、最初に書いた魔族への思いは一貫していたと思う。
つまり、事後になって振り返って言えば、作文していた当時は気が付いていなかったけれども、自分は「これら」の作文で「一つの」読み方を伝えたかったのだ、ということになる。(とは言え、ドラートの所で触れたとおり、これが特に個性的な読み方だとは思わない。だが、ネットでは見付けられない。不思議なことだ。)
フランメに導かれて
ドラート、リーニエ、リュグナー、アウラたちに話を戻す。
冷静に見れば、フリーレンよりも魔族の方がずっと人間らしい。(「人間臭い」と言った方が誤解されにくいかもしれない。善性と悪性は人間らしさの両面だから。)
魔族は人間のように戦う。フリーレンは機械のように戦う。魔族はその「人間らしさ」故に、「人間らしさ」を捨てたフリーレンには勝つことができない。
とは言えフリーレンは好き好んで「人間らしさ」を捨てているわけではない。魔族に勝つために捨てている。
しかし、それで良いのか?(良いはずがない)
では、どうすれば?
それが、『葬送のフリーレン』において最も問われるべき問いであるし、フリーレン自身の問いでもあるだろう。(フリーレンは魔族に対してそれほど無慈悲ではない)
そのことはフランメが示している。(第1巻第7話)
お前はいつか大きな過ちを犯し、人を知りたいと考えるようになる。
だから、この問いはフランメに導かれたフリーレンの旅そのものであり、つまりは『葬送のフリーレン』のテーマなのだと私は思う。
読んでくれた人に、そのあたりが伝わったらとても嬉しい。
