登場人物の気持ちではなく読者の気持ちを考える考察手法
はじめに
最近は隔週ペースで「週刊少年サンデー」に掲載される《葬送のフリーレン》の最新話を追いかけて感想、考察を書いています。
そういった形式の記事ですから、考察と言っても物語全体に関わる大きな「謎」の考察ではなくて、読んで感じたちょっとした疑問について考えたり、次回の展開はどうなるか?といった短期的な予想です。
その時に使っている考察手法の種明かしをします。まあ、「種明かし」は少し大袈裟な表現ですが、「考察」と聞いて普通に思い浮かべる方法ではないと思います。
この記事では《葬送のフリーレン》の内容には触れませんので、ネタバレはありません。
《期待→応答》サイクルを利用した読者の気持ちを考える考察手法
みんなはどう思った?が重要
《葬送のフリーレン》について考えることが好きで、作中の謎を見つけては130本以上の記事を書いていますから、私は「フリーレン考察勢」でしょう。
考察を行う際には、登場人物の気持ちを考えたり、台詞や行動から感じる違和感を見逃さないように注意したり、これまでの描写との関連を考えたりします。意識するかどうかは別にして、これは他の考察勢の方たちも当然に行っていると思います。
ただ、これらとは別に、私が考察の際に意識して行っていることがあります。
それは、「みんなはどう感じたか」、「みんなはどう考えたか」について考えることです。
「考察」と言うと、複雑に張られた伏線の解読や、奇抜なアイデアが重要だといったイメージが強いかもしれませんが、私が重視しているのはそういったことではありません。むしろ、素直に素朴に素人的に読んでどう感じるか、どう考えるかが重要だと考えています。
それがどのように考察の役に立つのか、これから説明します。
優れた物語とは?
優れた物語の語り手(作者)は、聞き手(読者)を納得させ、かつ、驚かそうとするものです。
なぜだかわかりますか?
物語を最後まで読んでもらうためです。そのためには物語に納得と驚きの双方が必要です。
納得だけでは刺激が足りないので読者は飽きてしまいます。かと言って、騙し討ちの驚きばかりでは読者は興味を失ってしまいます。
たとえば、ミステリ小説で、解決編に入ってから新証拠が見つかったり犯人が登場したりしたら、驚きはしますが同時に「ズルい!」とか「なにそれ…」と思いますよね。次に読むのは別の作者の小説にしようかな…と思うかもしれません。
例としてミステリ小説を使いましたが、これは全ての物語に共通する性質です。
物語に対する期待がなくなれば読者は読むことを止めてしまうため、作者は物語に納得と驚きを用意して、読者の期待に応えるようとするからです。この作者と読者の関係は物語のジャンルとは無関係です。(納得と驚きがなければ、物語は作者の望まない形で終わってしまいます。物語は作者と読者の双方が存在して初めて成立するものです)
ですから、作者には「フェアプレイ精神」があって、納得と驚きのバランスを取りながら物語を進めます。
物語には「納得と驚き」の双方が必要だと言いましたが、これは「読者の期待に応える」部分です。ですから、正確には、「納得と驚き」の前提として「読者の期待をつくる」部分も必要です。
これをまとめますと、優れた物語には《期待 → 納得/驚き》が必要です。わかりやすく書くと、《もっと知りたい・こうなって欲しい・きっとこうなるだろう → なるほど、やっぱりね/えっ!本当に!?》という読者の気持ちです。(マンガの技法で言うフリ→ウケにあたります)
しかも、優れた物語では、これがサイクルになっていて途切れません。《期待 → 納得/驚き → 期待 → 納得/驚き → …》このサイクルが回り始めると、読者は物語に夢中になってどんどん先を読みたくなります。これが優れた物語です。
『桃太郎』の冒頭部分でこのサイクルを見てみます。(参考:『桃太郎』楠山正雄)
ある日、お婆さんが川で洗濯をしていると、川上から大きな桃が流れて来ました。
→ どうするんだろう? 無視はないだろう。拾うかな?(期待)
「どれどれ、家へ持って帰りましょう」
→ よし拾った!(納得)
→ 売るのかな? 食べるのかな? (期待)
「お爺さんと二人で分けて食べましょう」
→ 食べるのか(納得)
→ 食べると特別な効果で若返るとか?(期待)
桃はポンと二つに割れて、可愛らしい赤ちゃんが元気よく飛び出しました。
→ マジかよ!(驚き)
→ この赤ちゃんどうするんだろう?(期待)
このように読者が《期待 → 納得/驚き》のサイクルにハマるよう、作者は読者の期待をつくったり、その期待に応えたりして物語を作っているのです。(『桃太郎』には特定の作者が存在するわけではありませんが)
作者の側から見れば《期待をつくる→期待に応答する》というサイクルになっています。単純化すると《期待→応答→期待→応答→…》です。
※ ここからわかるとおり、私の考察の前提には「作者は期待に応えてくれるはずだ」という作者への信頼があります。と言いますか、信頼している作者の作品だからこそ、時間をかけて向き合うことができるのです。
《期待 → 応答》のサイクルを利用した考察
ということは、優れた物語では《期待 → 応答》のサイクルが回るようにストーリーが展開するはずだと予想できます。
逆に、このサイクルが途切れているストーリー展開予想は、おそらく間違いです。(あるいは、そのストーリーには改善の余地があります)
ですから、この理屈を利用すれば、ストーリーの展開をある程度は予想できることになるのです。
ただ、作者は物語のプロですから、予想を当てる(作者の構想と一致する)ことは相当に難しく、予想が当たることは原則としてありません。第一、予想が当たってばかりなら、驚きのない納得だけのつまらない作品になってしまいます。
まとめ
そういうわけで、「みんながどう感じるか」、「みんながどう考えるか」は、ストーリーの展開を予想する(作者の構想を推測する)際のもっとも重要な手掛かりです。(思うに、哲学・社会学・心理学や神話などの知識よりも重要です。なぜなら物語の読者はそんなことは知らないからです。私もほとんど知りません)※
私は考察の中で、「素直に考えると〜。だから/けれども〜」といった言い回しをしばしば使いますが、こう言う時は《期待 → 応答》のサイクルのことが(大抵は)念頭にあります。
※ もちろん、そうでない物語もあります。ただ、《葬送のフリーレン》は「週刊少年サンデー」(少年漫画雑誌)に掲載されているマンガであり、読者として小中学生も想定されている作品です。
なぜ登場人物の気持ちではなく読者の気持ちを考えるのか?
この手法のおもしろいところは、主に考えるのは読者の気持ちであって、登場人物の気持ちではないことです。前述した『桃太郎』の例で私が考えたのは「お婆さん」の気持ちではありません。
それはなぜか?
登場人物は作者が作り出した存在です。本物の実在する人間ではありません。
人間(他人)が存在している理由はわかりませんが、はっきりと言えるのは、あなたや私のために存在しているわけではないということです。
けれども、登場人物が存在している理由は明確です。読者のためです。
つまり、登場人物の行動原理は、人間の行動原理とは異なります。作者は登場人物の行動に不自然がないように細心の注意を払っていますが、それでも人間の行動とは異なります。
『桃太郎』のお婆さんは桃を拾った後どうするでしょう? 裕福そうではありませんから売却して現金収入を得る? 晩御飯のデザートに持ち帰ってお爺さんと一緒に食べる? どちらもアリです。お婆さんの気持ちを考えている限り答えは出ません。でも、読者の気持ちを考えれば答えは出ます。売ったりはしません。なぜなら、『桃太郎』の最初の一文は「昔々あるところに、お爺さんとお婆さんが…」で、その二人が不思議な桃と出会ったのですから、読者は二人と桃の「これから」を知りたいのです。それなのに二人が桃を売って現金を手にしたというだけなら がっかりです。ですから、二人が桃を手放すことはないでしょう。登場人物である お婆さんは読者の期待に応える選択をします。
このように、登場人物と人間とでは行動原理が異なることから、人間になぞらえて登場人物の気持ちを考えることは限界があるし、それほど有効ではないのです。
それに、主人公たちは大魔法使いであったり、世界を救った勇者であったりして、特別な存在であることが多いです。生い立ちのわからない脇役もたくさんいます。そんな登場人物たちの気持ちを把握することは容易ではありません。それよりは自分と似たような立場にある読者の気持ちを考える方が簡単です。(具体的な読者個人ではなく、作者が想定している「一般的読者」の気持ちを考えます)
そして、登場人物の存在理由は「読者のため」なのですが、もっと言えば、作者が読者に何かを伝えるために登場人物は存在しています。(登場人物だけではなく作品そのものが、作者が読者に何かを伝えるために存在しています)
ですから、読者に何が伝わったか(読者の気持ち)を考えます。読者の気持ちが分かれば、作者の伝えたいこと(構想)が分かります。そうすると、登場人物の行動やストーリーの展開も分かってくるのです。
これが登場人物の気持ちではなく読者の気持ちを考える理由です。
※論旨をすっきりさせるために触れていませんが、私も登場人物の気持ちを考えないわけではありませんので、そのあたりはご了承ください。
この手法の射程
ここで紹介した《期待 → 応答》のサイクルを利用した「読者の気持ち」を考える考察手法は、短期的なストーリーの展開予想にしか使えないと思われるかもしれませんが、実はそうではありません。
というのは、読者には作品そのものに対する一貫した期待があり、作者はそれに応えようとするはずだからです。
たとえば、『桃太郎』ではプロローグでお爺さんお婆さんと桃(太郎)が登場するため、読者の関心はこの三人にあり、三人がこれからどうなるんだろう?と期待します。しかし、お爺さんとお婆さんは途中で舞台を降ります。では、二人は完全に退場してしまうのかというとそんなことはありません。エピローグで再登場して、読者の期待に応えます。ですから、ここではプロローグで生じた読者の期待にエピローグで作者が応答するという《期待 → 応答》のロングパスが行われているわけです。もし二人の再登場が無かったら、桃太郎とお姫様が結ばれたとしても、読者は「どうもスッキリしない」と消化不良を感じるでしょう。
『桃太郎』は短編でしたが、長編で作者がこの期待に応えないと、読者は「最近は脇道に逸れてばっかりだ」とか、「中だるみ」、「引き伸ばし」と感じて飽きてしまいます。
ですから、優れた物語の作者は物語の中盤においても読者の作品そのものへの期待に応えることを怠りません。
物語の中では大中小さまざまな《期待 → 応答》サイクルが回っています。(マンガで言えば、最も小さいものは一ページに複数個が収まるほど。一ページ、複数ページ、単話、数十話(章や編のレベル)、複数の章や編を跨ぐもの、最も大きなものは第1話から最終話までのサイズでしょう。)
もし、今読んでいる作品が「脇道に逸れている」と感じたら、そういった観点で読み直してみると良いでしょう。目立たないかもしれませんが、作者は期待に応えようとして何か仕掛けを準備しているのかもしれません。
【余談】考察? 読解?
マンガ・アニメにおける「考察」と言うと、「作中のAは実は〇〇神話のXにあたり、これによればXは…したがってAは…」のような、作品外の情報を媒介にした作品の読み解きをイメージします。
それに対して、私が行っていることは、読者の気持ちや考えを想像すること、ひいてはそこから作者の構想を推測することです。
ですから、私が行っていることは「考察」ではなく、国語の授業で習う「文章読解」に近いと思います。下線部の「これ」とは何ですか?とか、筆者の考えを述べなさい、とかですね。(ましてや批評などというものでは全くありません)
ただ、考察という言葉はとてもメジャーになっていて、考察を求めて検索サイトから訪れて記事を読んでくれる方も多いのです。ですから、ウケを広くするために考察という言葉を使っているという所があります。
おわりに
今回、自分が特に意識せず行っていた考察手法を言語化してみて、要は私は他人の気持ちをわかりたいのだと思いました。(フリーレンやユーベルと同じ?)
《葬送のフリーレン》に関する記事は下記のマガジンにまとめています。130本以上ありますのでキャラ名で検索をかけてみてください。フランメ、ヒンメル、エーヴィヒなどで検索すると物語の全体に関わる考察が出てきます。
楽しめた記事には「スキ」していただけると励みになります。コメントもとても嬉しいです。《葬送のフリーレン》に関することでしたら、感想・質問など何でもどうぞ。
「週刊少年サンデー」の連載(最近は隔週ペースです)も追いかけて、感想・考察を書いていますので、よろしくお願いします。
