《葬送のフリーレン》レヴォルテ編を読んで(ゼーリエ・ゲナウの矛盾とフランメ)

ゼーリエは弟子のゲナウを愛していて、死なないで欲しいと思っているのですが、「死ぬなよ」とは言えず、「そのまま(嫌な奴)でいろ」としか言えません。(第8巻74話)

こういったゼーリエの態度は、「ゼーリエは素直に気持ちを伝えることのできない不器用な人物だから」だと一般には理解されていると思います。(第7巻60話)

確かに、ゼーリエにはそういう面もあるのですが、単に「不器用」というだけ・・で説明できるものではないと私は感じています。

「死ぬな」と言うことは「戦うな」ということを意味しますから、ゼーリエとしては「死ぬなよ」とは言いたくても言えません。戦う魔法使いが生き残るには「嫌な奴」にならざるを得ないので、せめて「そのまま(嫌な奴)でいろ」としか言うことができないのです。

では、「嫌な奴」になっているゲナウを見てみましょう。

ゲナウは故郷の北側諸国のために、敬愛するゼーリエの下で「戦いの道」を選んだ魔法使いです。(第8巻71話)

ゲナウは戦い続けるために「嫌な奴」になっています。(第8巻73話)

そして、そのために人間らしい感情を失っていて(「故郷が滅びたのに何も感じない」、「まるで悲しくない」第8巻73話)、

報いを受けるために死を望むようにさえなっているのです(「また死に損なったのか」第8巻76話)。

つまり、「戦い続けるためには、(人として)死ななければならない」ということをゲナウは示しているわけです。

ゼーリエとゲナウの師弟は、そういった矛盾の中にいます。

魔王を「殺す」ことができるのは「戦いを追い求める魔法使い」ではなく「平和な時代の魔法使い」だというフランメの言葉の真意を読み解く鍵は、ゼーリエ・ゲナウ師弟が抱えているこの矛盾にあるでしょう。(第5巻43話)

このフランメの言葉も一般的には「魔法はイメージの世界であり、イメージできないものは実現できない。よって、平和な時代をイメージできない者には魔王は殺せない」という意味で理解されていると思いますし、それは一面では正しいのですが、物語がさらに進んだ場面では別の意味を持つことになると思います。

私が何度か指摘している、《葬送のフリーレン》の大テーマ、「人は人食いの魔族と戦わなければならない。しかし、戦うためには魔族と同じ化け物にならざるを得ない(人として死ななければならない)」という人と魔族の対立構造の解消(止揚)が、ここにも表れていることがわかると思います。


《葬送のフリーレン》に関する記事は下記のマガジンにまとめています。

200本以上の記事がありますが、最初の考察記事としてお勧めなのはこちらです。

これを読んだ上で、フランメ、ヒンメル、エーヴィヒ、ゼーリエ、大魔法使い、などで検索すると物語の全体像に関わる考察が出てきます。

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