直観と類推が科学をつくる:今西生態学から農耕の世界を見ると(農文協の主張)
直観と類推が科学をつくる:今西生態学から農耕の世界を見ると(農文協の主張 1993年7月)
本主張では、『日本的自然観の方法―今西生態学の意味するもの』(丹羽文夫著)をもとに生物学者・今西錦司の理論(自然観)を紹介しています。
今西は生物学者であり本書でも作物や農耕については一切ふれられていない。にもかかわらず、今西理論は農耕や地域を考えるうえで大変示唆に富んでいる。
今西理論を手がかりに「日本的自然観」を「農耕的自然観」と読み変えることで、現代の課題、とくに「環境と農業」について接近してみよう。
環境と生物の関係:環境とは生物の延長である
環境という言葉がやたらと使われる昨今であるが、それでは生物にとって環境とは何か。人間も生物の一員である以上、そのことは人間にとっての環境を考える前提になるはずである。
環境というとふつうは外的なものと考えられている。大気であれ水であれ、それは生物主体とは独立に外部に存在し、生物はその外的環境に影響され、規定されて生きていく。こうした生物-環境の二元論に対し、今西は一元的な生物-環境観を結晶化させていった。
食物は単に外的環境といったよそよそしいものではなく、すでにその生物にとっては生物化の過程におかれたものであり、消化管内に入ればほとんどその生物の一部分になろうとしているものである。そこでその食物を環境の延長とみるよりはその生物の延長とみる方がはるかに都合がよい。
一方、生物の身体の一部でも消化管の管内のように外界が身体にまで入り込んでいると考えた方がよいものもあり、それを身体の延長とするよりは環境の延長とみる方が理に適っている。生物は完結体系ではあるが、その身体の中に環境を担い込んでいるともいえる。
環境とは生物が生活する生活の場であり、生物そのものの継続であり、生物的な延長である。また生物とその生活の場としての環境とを一つにしたようなものが、それがほんとうの具体的な生物である。
「人間も生物の一員である」と捉えることができれば、自然(環境)を収奪の対象とせず、自然のしくみを持続的に維持する農業に向かうと思います。
食べものについても、単に食欲を満たすものではなく、「身体の延長(構成要素)」と見ることで、「身体が必要とする食べものとはどのようなものか」を考えるきっかけになると思います。
身体の延長としての環境が活性をもたらす
生物にとって環境は自己の延長であり、生物は身体に環境をとり込んでいる、環境と生物は対立的ではなく融合的である-こうした今西の生物-環境観から農耕を考えるとき、環境をとり込む営みとしての農耕の姿が浮かび上がってくる。
森(山)があり川があり海があり、その原自然に抱かれるように水田稲作が成立する。水田はイネの体内に自然を(環境を)呼び込む巨大な装置である。その水田は森(山)の延長であり、一方イネは水田の延長であり、食べものとしてのイネは人間の身体の延長である。こうしためぐりめぐる関係を強め、環境をより豊かにとり込むことで農耕は発展した。
人間はこれを装置として行なう点で他の生物とは異なるが、環境を自己の延長としてとり込むことでその生活が成り立つことに変わりはない。もっとも今西は下等な生物にも原始的意識があり、それが生きものを生きものたらしめている統合性を発現させているとしている。
自然(環境)を搾取の対象としてではなく、「環境を自己の延長」と考えることができれば、経済一辺倒で農地が発生源となった水や土壌、大気の汚染や生物多様性の減少などに、無関心ではいられなくなると思います。
当然、有機農業に対する農家や消費者の考え方・捉え方も深まるでしょう。
「直観と類推」でしか生きものの「生活形」は見えない
生物の生理的しくみをいくら明らかにしても、それで生物をとらえたことにはならない。生活の場で生きているかたちをつかむことこそ、生きものを具体的に認識することであり、今西はそれを「生活形」と呼んだ。
トマトの葉はなぜあんなに複雑な形をしているのだろうか。ベテランの農家はトマトの葉の微妙な動きがわかる。じっと見ていると小葉の先がわずかにゆれ、日中には間葉が立つ。こうしてトマトの葉は下へ光を通そうとするとともに、たまった熱気を逃がし、自らさわやかさをつくり出していく(ように見える)。機能が形態の変化として表現され、形態変化が機能を調整していく。
農家の目はそうしたトマトの「生活形」をとらえ、トマトの立場に立ち働きかけるように見ることによって手だてを構想する。そこに技術が成立する。
そこで発揮されるのが今西のいう「直観」と「類推」である。
牛を見て牛の気持ちがわかるように、トマトを見てトマトが何を望んでいるかをつかもうとする、そこには言葉では 表現しきれない、いわゆる「勘」と呼ばれるような認識のしかたが根底に息づいている。それが「直観」と「類推」だ。
生物を物質的に追及する(要素還元的、機械論的)方法だけが、生物を認識する方法ではなく、「類縁の認識」=類推によっても生物を認識できるということです。
むしろ直観、類推こそ生きものを生きものとして把握する方法かも知れません。
景観は人間の「生活形」である
直観にもとづく類推によって、生物の実態は「生活形」として把握される。そして生活形を同じくするものがすなわち、今西にとっての種であり、種とは同じ生活形をもつ個体で構成される社会、つまり種社会なのである。そうした種同士が「すみ分け」て生きているのが生物全体社会ということになる。
人間にとって「生活形」とは何なのだろうか。
一人一人の人間の行動、あるいは顔に刻まれたシワもたしかに生活形にはちがいない。しかし生活形は種に共通するかたちであり、人間もヒトという種として自然にかかわり生活しているのだから、人間と自然とのかかわりにおいてつくられ、かたちをなしているものがヒトの生活形ということになろう。
生物において生活形は身体に表現されているが、人間の場合は人為がかかわってつくられ変容された自然にそれを求めることができよう。
象徴的にいえば地域の “景観” が人間における「生活形」である。
地域自然とかかわることで成り立つ生活空間がかたちとして成立している、それが景観である。(中略)そこには山も川も水田も、イネも人間も、そのすべてが含まれて秩序だっている。環境(自然)の延長であるとともに人間の延長であるようなもの、それが真に実在するものとすれば、景観こそ実在である。
直観にもとづく類推でしか景観は認識できない。科学は特殊を普遍的なものにおきかえて理解することはできるが、その時すでに景観は景観でなくなっている。特殊なものを特殊なままで認識するには類推という方法をもってしかできない。
私たちが心地が良いと感じる環境(自然)=景観は、多種多様な生きものとの関わりの中で形成されています。それを認識できることが大切です。
多種多様な生きものとのバランスを保つこと=生態系が維持されることを、農耕の基本として捉えるべきではないでしょうか。
人間は地球上で他種生物と高度に「すみ分け」できるか
今西は進化を「すみ分けの(高)密度化」とした。多様な生活形をもつ種が、その環境をとり込みつつすみ分け、その場を多様な生物世界とすること、それが進化だというのである。
山、川、海、そして田畑からの多様な素材を多様な手法でとり込む、それがまた地域自然を豊かにしていく。それがまた、農耕の歴史でもあった。人間は人間的なやり方で「すみ分けの密度化」をはかる以外に、生きていくすべはない。生物としての原理を人間として貫徹する―その具体的で本質なかたちが農耕なのだ。
自然をとり込む農耕的認識によって、身体の延長としての環境は豊かに形成される。人類はこの地球で、他の生物とすみ分けることができるか―この現代の課題は人類が、新しい地域形成の手法を発見することによって切りひらかれる。
日本の気候風土のなかで育ち、循環する四季に従って協働で稲作をはじめとした農耕に勤しんできた歴史に培われた「日本的自然観」「農耕的自然観」。
「人間も生物の一員である」「人間を自然の一部」と捉える自然観は、渡邊 (2025)が指摘している「近代の生んだ多くの矛盾を克服すること」が可能となり、有機農業の推進力にもなると思います。
人間と自然との関係を、自然を収奪の対象とする見方から、人間を自然の一部と捉える発想へと転換する必要がある。そしてこの新しい自然観に基づき、個人主義・利己主義的な価値から利他主義へと価値を転換することが、今、世界的に求められている。なぜなら、自然観に裏打ちされた価値観は、社会の規範や思考の枠組みを根底から規定するからである。一度自然観や価値観が定まれば、その後の社会的判断や制度設計にも一貫性と連続性が生まれる。西洋近代の個人主義から利他主義への転換は、近代の生んだ多くの矛盾を克服する鍵となる。
参考図書
丹羽文夫(1993)『日本的自然観の方法:今西生態学の意味するもの』農山漁村文化協会.
渡邉雅子(2025)『共感の論理ーー日本から始まる教育革命』岩波書店.
