事業会社の「忙しいデザイナー」が、プロダクトを複雑にする
受託制作会社から事業会社に転職したデザイナーが、最初にぶつかる巨大な壁。 それは、まるで深い海の底にいるような、圧倒的な「手持ち無沙汰への恐怖」ではないでしょうか。
実際に僕もそんな経験をしました。
次から次へとタスクが降り注ぎ、Adobeのツールを魔法のように操り、手を動かせば動かすほど「価値あるデザイナー」として評価された刺激的な環境。そこから一転、事業会社の穏やかな海では、リリースサイクルは数週間から数ヶ月単位。自分だけが必死にFigmaでピクセルを動かしても、プロジェクトという巨大な船は1ミリも前に進まない。一日の大半が、周囲との合意形成や、目的が見えにくいミーティングに溶けていく。
もしあなたが、そんな「何も作っていない時間」に、「自分は価値を提供できているのだろうか?」という罪悪感や、キャリアへの焦りを密かに覚えているなら、その考えは今日、この瞬間に終わりにしましょう。
なぜなら、その静かで穏やかな時間、あなたが「暇」と呼んでいるものこそが、事業会社のプロダクトデザイナーが組織に対して最大の価値を発揮するための、最も重要で、最も強力な武器だからです。
なぜ僕たちは「暇」が怖いのか?
この、じっとしていられないような恐怖の正体は、僕たちの身体に深く染み付いた「時間=価値」という、かつての成功体験に他なりません。
受託制作の世界では、稼働時間と売上がある程度、明確に比例します。クライアントからいただいた時間の中で、どれだけ多くの案件を、どれだけ高品質にこなしたか。それが評価の主軸でした。Slackで「今手が空いているデザイナーいますか?」というメンションが飛んできた時、真っ先に「やります!」と手を挙げる瞬発力。深夜までかかってでも完璧なカンプを仕上げるコミットメント。その「忙しさ」こそが、価値提供の紛れもない証だったのです。
僕自身、事業会社に転職したての頃は、この呪縛から逃れられませんでした。カレンダーに空白があると、何か有益なことをしているフリをしなければならないような気がして、必要性の低いUI改善案を自主的に作り始めたり、意味もなく競合分析の資料を量産したりしていました。何か手を動かしていないと、「あいつはサボっている」と思われるのではないか。その不安が、僕を常に駆り立てていたのです。
しかし、事業会社は全く異なる論理、全く異なる時間軸で動いています。プロダクトデザイナーの価値は、作業時間というモノサシでは決して測れません。
たった一行の文言変更、ボタンの色を一つ変えるだけで、コンバージョン率が劇的に改善し、事業に数千万円のインパクトを与えることがある。逆に、何週間もかけて作り込んだ美しいUIが、誰一人の課題も解決することなく、静かに消えていくことだって日常茶飯事です。
あなたの仕事は、誰よりも早く、誰よりも多くのUIを作ることではありません。あなたの本当の仕事は、社内にいる多様な専門知識を持ったプロフェッショナルたちと深く対話し、時に激しく議論を交わしながら、プロダクトという船をあるべき方向へと導くこと。船の進むべき方角が定まっていなければ、あなたがどれだけ猛烈なスピードでオールを漕いでも、船は遭難するだけなのです。
デジタルプロダクトは、何もしなくても複雑になる
「船の進むべき方角を定める」とは、具体的にどういうことでしょうか。
ここで一つ、僕たちが対峙している世界の、普遍的な法則の話をさせてください。それは「エントロピー増大の法則」です。

物理学の世界では、「万物は、放置すると乱雑で無秩序な方向(カオス)に向かう」とされています。 熱いコーヒーは勝手に冷めていき、部屋の熱と混じり合って区別がつかなくなる。完璧に整理整頓された本棚は、本を出し入れするうちに、気づけばバラバラになっている。これが、宇宙の基本的なルールです。
そして、僕たちが日々向き合っているデジタルプロダクトもまた、この法則から逃れることはできません。
顧客の課題を解決し、事業を成長させようとすればするほど、新しい機能は次々と追加され、設定項目は増え、画面上の情報量は増大し、プロダクト全体の体験は確実に損なわれていく。これは、プロダクトが失敗しているからではありません。むしろ、プロダクトが顧客の期待に応え、成長しているからこそ起こる、避けることのできない自然の摂理なのです。
このエントロピーの増大は、プロダクトに具体的な「害」をもたらします。
学習コストの増大: 新規ユーザーが使い方を覚える前に「なんだか難しそう」と離脱する。
操作ミスの誘発: 複雑なUIが原因でユーザーが意図しない操作をしてしまい、顧客満足度が低下し、カスタマーサポートのコストが増大する。
開発効率の低下: 継ぎ接ぎだらけのコードが技術的負債となり、新しい機能の開発スピードが著しく落ちる。
ブランドイメージの毀損: いつの間にか「あのサービスは使いにくい」という不名誉な烙印を押されてしまう。
プロダクトデザイナーの使命とは、このプロダクトを常に複雑化させようとする、抗いがたい強大な「重力」に全身全霊で抗い、ユーザーにとって価値ある、シンプルで一貫した秩序を守り、育てることなのです。
あなたの本当の仕事は「UIを作ること」ではない
この抗いがたい重力に、どうすれば立ち向かえるのでしょうか? 必要なのは、PhotoshopやFigmaを使いこなす表面的なスキルだけではありません。
僕は、事業会社のプロダクトデザイナーの仕事は「体験設計が8割、UIデザインが2割」だと考えています。
「体験設計」とは、具体的に何をすることでしょうか。それは、Figmaの画面の外で行われる、ありとあらゆる知的活動です。
ユーザーの家にまで押しかけて、その生活を観察し、言葉にならないインサイトを掘り起こす。
データ分析チームと膝を突き合わせ、定量データからユーザー行動の「なぜ」を解き明かす。
ビジネスモデルと事業戦略を深く理解し、今回の施策がPLにどうインパクトを与えるのかを試算する。
PdMやエンジニアと「そもそも、この機能は本当に必要か?」という根源的な問いから議論を始める。
ユーザーがプロダクトと出会ってから、ファンになるまでの一連の体験を、カスタマージャーニーマップとして可視化する。
最近、僕が担当した新規プロジェクトでは、Figmaで1pxもデザインする前に、まずユーザーの課題と理想の体験フローを、たった一枚の図に落とし込むことから始めました。

この一枚の図を元に、プロダクトマネージャーとは「この体験は、事業目標であるリテンション率向上にどう貢献するのか」を、カスタマーサポートとは「このフローは、日々寄せられる顧客のリアルな不満を解消できるか」を、徹底的に議論しました。
この「体験の設計図」に対する合意形成が、関係者全員で強固にできた時点で、このプロジェクトの成功は8割決まったようなものでした。なぜなら、船の進むべき方角と、そこへ至るための最も効率的な航路が、全員で明確に合意できたからです。その後のUIデザインは、この設計図を、ユーザーが最も直感的に理解できるビジュアルへと、忠実に翻訳していく作業に過ぎませんでした。
プロダクトデザイナーの本当の価値は、経営、事業、顧客、プロダクト、すべての視点を持ち、複雑に絡み合った課題の根源はどこにあるのかを、深く、深く、思考することにあります。
この機能は、本当に経営目標に貢献するのか?
この体験は、事業の持続可能性を高めるか?
このUIは、本当に顧客のインサイトを捉えているか?
この実装は、将来のプロダクトの拡張性を担保できるか?
この複雑な問いを解き明かすには、手を動かす時間ではなく、深く思考の海に潜るための「時間と心の余裕」が、何よりも必要不可欠なのです。
「暇」こそが、魔法を生み出すための必要条件
僕たちが「暇」と呼び、恐れていた時間こそ、この深い思考を可能にする、最高の創造的環境です。
目の前のタスクに追われ、常に何かの締切に急かされている状態では、僕たちの思考は視野狭窄に陥ります。与えられた要件を、いかに効率よく形にするか。それしか考えられなくなります。
しかし、時間と心に余裕があるからこそ、僕たちは一歩引いて、物事の本質を問うことができます。
「この機能は、本当に顧客の課題を解決するのだろうか?」
「そもそも、新しいデザインを作らずに、既存の機能の文言を変えるだけで解決するのではないか?」
「この一連の体験を、もっと魔法のようにシンプルで、直感的にできないか?」
あなたが新しい家電の分厚い説明書を放り投げるように、あなたのプロダクトの顧客も、あなたが親切心で用意した説明文やチュートリアルを読み飛ばします。画面上のボタンは、選択肢であると同時に、ユーザーを混乱させるノイズにもなり得ます。
この当たり前でありながら、作り手になると忘れがちな事実に立ち返り、「どうすれば、何の説明もなしに、5歳の子供でも使えるような体験を作れるか?」を考え抜く。そのための時間こそが、あなたが意識的に確保すべき、戦略的な「暇」なのです。
最高の思考は「一人」からは生まれない
ただし、その「暇」という名の聖域に、一人で閉じこもっていてはいけません。 自分だけの知識や経験には、悲しいほど限界があります。プロダクトデザイナーは、決して万能の神ではないのです。
むしろ、僕たちが最初にすべきは、両手を上げて「自分は何も知らない」と認める、知的な謙虚さを持つことです。
あなたの周りを見渡してください。そこには、あなたより遥かに顧客理解が深いプロフェッショナルがたくさんいるはずです。毎日、何十件もの顧客からの問い合わせ電話を受け、その声のトーンから怒りや喜びを感じ取っているカスタマーサポート。毎月、厳しいノルマと戦いながら、顧客が製品を買う瞬間の生々しいインサイトを肌で知っているセールス。そして、プロダクトの未来を誰よりも考え抜いているプロダクトマネージャー。
彼らに「今、こんなことで悩んでいるんですが、皆さんの知恵を貸してください」と、正直に助けを求めること。それは、あなたの価値を下げる行為では決してありません。むしろ、プロダクトの成功確率を最大化するための、最高のプロフェッショナルスキルなのです。
以前、僕が担当したプロジェクトで、どうしても解決策が見つからない課題がありました。僕は数日間、一人で悩み抜いた末、思い切ってCSチームの定例会に参加させてもらい、ラフなスケッチを見せながら「助けてください」と頭を下げました。すると、僕がPCの前で考えても到底思いつかなかったような、顧客の生の声に基づいた驚くべき解決策が、彼らの口から次々と出てきたのです。あの時の衝撃と、自分の無力さを知った時の安堵感は、今でも忘れられません。
多様な知見を借り、対話を重ね、思考を発散させる。その上で、再び一人になって静かな「暇」の中で思考に潜り、本質を収束させていく。 このサイクルを繰り返すことで、あなたにしか描けない「魔法のようにシンプルな体験」の解像度が、少しずつ、しかし確実に上がっていくのです。
暇を受け入れ、思考し、対話し、最高のレバレッジを効かせよう
事業会社のプロダクトデザイナーは、「暇」を怖がる必要はありません。
あなたの価値は、稼働時間では測れない。 あなたの仕事は、プロダクトを蝕む「複雑化の重力」に抗い、事業と顧客にとっての本質を追求し続けること。 そのための思考と対話の時間を、僕たちは「戦略的余白」と呼び、自ら意識的に確保すること。
それこそが、プロダクトデザイナーという専門職が、プロダクトと組織に対して最もレバレッジを効かせられる、最大の価値提供なのです。
罪悪感を捨てて、胸を張って「暇」を受け入れましょう。 そして、最高の顧客体験とは何かを、深く、深く、考え抜こうではありませんか。 さあ、まずはあなたのカレンダーに、誰にも邪魔されない「思考のための時間」を、週に2時間だけブロックすることから始めてみませんか?
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