お義母さんの復讐〜一夫多妻制と香港・時代の波の中で〜
はじめに
わたしには、4人の義理の母がいます。結婚するまでは、義理の母はひとりというのが常識と思っていたわたしにとって、4人というのは、青天の霹靂。世の中では、結婚したら夫との関係だけでなく、義理の両親や親戚付き合いも大変と聞いていたのに、「4人もいる!!そして、香港人の夫には、9人の兄弟姉妹。なんと一夫多妻”というじゃありませんか。わたしの日本の親戚も父方9人兄弟姉妹、母方5人兄姉妹で、子供の頃から親戚付き合いの大変さは、少しばかり見てきたけれど…、香港での家族構成は日本の状況と異なっていたのです。
そして、家族と親しくなるにつれて見えてきたのは、香港という土地もそうだけど、この家族も多くの香港人家族と同様に、時代の流れに翻弄されたということでした。
4人の母の子供たちが大人になってからは、会う機会がめっきりと減っていた兄弟姉妹たち。そこに1997年にひとりの日本人の妻(わたし)がやってきて、「外国人の親戚ができる」と日本人とわたしへの好奇心も手伝って、この家族がまた、集まり始めたというのです。
わたしはある意味、すごく幸運です。この家族たちを通してみた香港は、世の中の混乱が招いた中で人の心に大きな傷跡を深く残し、ただ綺麗な話では済まされない、ダークな面を掘り起こし、けれど、決して良いとは言えない環境の中で、「良くなろう、可能性を見つけよう」「無問題」と前を明るく見ようとする香港人の逞しさに触れながら、わたしは自分の人生が糸とするならば、なぜこの家族と糸を添えるようになったのか、また、交わることになったのかと、人と時代の縁という不思議さも感じていたのでした。
そんな中、2007年のある時のこと.わたしたち家族には、大きな波が押し寄せていました。
▪️2007年 飲茶の席で
結婚して10年ほど経った頃でした、子供たちが学校へ行っている間に、夫(第2夫人の長男)とお義弟さん(第2夫人次男)とお義兄さん(第一夫人次男)と、そして、お義母さん(2番目の義母)と飲茶に集まることになっていました。
「ねえ、お義兄さんも来るのよね?」
「ああ、異母とはいえ、お義兄さんは母のこともよく知っているだろ。彼は、場の空気を沈めることができる人だから、いてもらった方がいいし、僕も助かるんだ。」と夫。
この日は、いつものように大きな丸いテーブルに通された後、熱いお湯と頼んでいた鉄観音のお茶がテーブルに運ばれると、気が利くお義兄さんは、熱いお湯でテーブルにある器やお皿、そして湯呑みを全員分洗ってくれました。私たちは、様々なDimSamやよく注文する炒麺と炒飯を頼み、いつでも”あの話”ができるようにと、お義母さんの好きな料理を中心に注文しつつ、楽しい会話を最初は、あえて選んでしていたのでした。
けど、”あの話”をし始めるとお義母さんは、笑顔から一転。顔の表情が曇り、不機嫌で仕方ありません。一通り料理に箸をつけたものの、そこからは箸を進めることはせず、男3人(息子たち)を前にして、始終悪態をついていました。
息子を奪ったという憎き嫁であった外国人の私には、この頃には随分と心を開いてくれるようになり、この日もわたしの言うことは耳を傾けていてくれたのですが...お義母さんの知らない間に行われたある計画が気に入らなかったのでした。
お義母さんにとっては腹が立って仕様がなかったでしょうけど、わたしは、この日を忘れることはありません。なぜならば、”一人の人間が一生会う事はないと思っていた人に会うことになったから”です。
この話を始めるのに・・・
随分、昔のことまでさかのぼらなくてはいけません。
第1章:1950年代|香港での出会い
1950年代の香港といえば、日本による香港統治(占領)が終わり、イギリスの主権回復が進み、そして、中国本土の内戦を背景に、大量の避難民が香港へ押し寄せ、混沌とした社会状況でした。香港の人口は、なんと約60万人から210万人と3倍以上に増加していってたのです。
そんな1950年の半ば、中国本土・潮州から、鉄道を乗り継ぎ、香港という土地にやってきた銀行家のお嬢様育ちであった一人の女性が、世界各地を船に乗って旅をしていたという男性と恋に落ちました。
時代の波に流され、たくさんの人が流れ込んでくるこの香港の中で、誰もが、生きるためにがむしゃらに働いていて、生きるのに必死だったこの地で結婚をしたのです。
第2章:家族の分裂とシングルマザー時代
男性には、妻子(2人の息子)がいたにもかかわらず、その家族から離れてこの女性と一緒になりました。その新しい夫婦に生まれた男の子は、夫婦にかわいがられて育っていきましたが、その男の子は、物心ついた頃から、両親の喧嘩が絶えなかったそうで、両親がいがみ合っていた記憶しかあまりなく「僕にとっては、両親が大声で怒鳴り合っている、それが子供時代だったな~。」と今も語ります。
そんな彼が「僕にとって、家族というのはいい思い出があまりないんだけど、一度だけ両親の手を握りながら行った博覧会が、家族という温かみを感じた最後の思い出となっているんだ。左には父さん。右には母さん。滅多にないことだったから、すごく記憶に刻まれているんだ。」と目を細めて話す姿の脳裏には、きっとその時の光景があったのでしょう。
普段は、両親の喧嘩を横目にしながらも彼は、たくさんの友達に恵まれて、毎日、外で日が暮れるまで遊んでいました。
時には、ひどくなっていく両親の喧嘩の仲介に入り、「どけ!」と言われてもどかずにお母さんを庇ったため、熱された鉄の棒で胸を押され大やけどを負ったこともありました。その時に父親から受けた傷が消えずに火傷の痕として今も胸に残っています。
▪️1968年 次男の誕生
夫婦の関係は、もう終わりだと思われるぐらい日々の喧嘩に...父親は、時々どこに行ったか分からなくなり数日帰ってこない日もあったそう。そして「母さんはいつも何かに怒っていた」と...。
そんな中、母親のお腹の中に新しい命が宿っているということが壊れかけた家族に明るいニュースとして流れました。
母親は、”これがきっかけになって、何かが変わるかもしれないと...もう一度やり直せるかもしれない。”とかすかな希望を胸に抱き、お腹の中の子の出産を待ち望んだそうです。しかし、父親は、妻が妊娠中でも相変わらずの生活、相変わらずの態度。
ただ、夫婦の間に生まれた第2子に関しては心から喜んだそう。純粋にこの第2子を思う気持ちとともに、次男が生まれたその年に、父親のビジネスが大きく成功を治めはじめ、今まで決して楽ではなかった生活に余裕が出来てきたので「この子は、福を運んでくれる子なのだ。」とこの子を大切にしたそうです。
が...子供(達)をかわいがる気持ちは、本物だったにしても夫婦の間に出来てしまった亀裂は、そう簡単に修復することが出来ませんでした。子供が生まれたと思ったのもつかの間...父親に新しい女性がいることが発覚。2人は、この日から一緒に住むの辞め、上の男の子は10歳、下の男の子が3歳になってすぐに、母親は、意を決して家を飛び出しました。
その後、「夫からくる精神的苦痛からは、多少解放されたような気がしたけれど、現実に襲ってくる様々な問題の多さ… 女一人で2人の子供を育てていくことは、生半可なことじゃなく、本当に大変だったわよ。時代も時代だったからね。」と言います。
■元財閥のお嬢様の苦悩
実は、お義母さん、もともとは、潮州の裕福な家に育ち、家には10人以上の召使さんたちが仕えていたということで、苦労も何も知らないお嬢様でした。当時のことは、多く話したがらないけれど、香港へ逃げてきた際には、召使いの娘(自分と年齢が近い)と共に香港へ来たそうで、わたしもこの女性には何度も会っています。
平和な世の中であったなら、一生をそのような環境で過ごしたであろうに・・・でも、その当時の中国は歴史的に多くの人たちの運命を変えました。そして、彼女もその歴史の波の中で、実の両親を失い、姉たちを失い、中国を去った者の一人でした。
■長男である息子は・・・
さて、母が夫の元を去った後・・・上の息子は、訳があり、10代のまだ中学生の多感な時に、母から強いられて1人暮らしをすることになりました。アパートの1室、さらにその一部屋を間借りして一人暮らしをしたということです。
「お金もないし、中学生の一人暮らし。当時は、料理も出来なかったので缶詰を開けて食べたり、コカ・コーラーなどの炭酸系ドリンクでお腹いっぱいに満たすことが多かったかな。家に帰っても、小さなアパートの壁の横からは、人の声は筒抜けだったし、気配がいつもあったから嫌だったんだ。だから、いつも遅くまで遊んでいたよ。ああ、母さん?自分のことで忙しかったんだろうね。時々しか会えなかったよ。」
お母さんからは、「もう、ひとりで生活ができるでしょ」と突き放されてたけれど、彼は、一人暮らしを始めた後も、お父さんとは時々会っていました。見かねたお義父さんは、新しいお義母さん(3番目)や生まれてきた3人の妹達とも気兼ねしないで会えるような環境を整えていてくれましたが「そんなこと言われてもね。やっぱり複雑な心境だったよ。」長男である彼には、父親としてサポートを継続してしてくれました。
海外の学校に留学で行くことになった時も、母親には出来ない金銭的なものを全て用意してくれ、彼はカナダに留学をし、勉強をしました。彼にとっては、父親は、父親としてずっと接してくれ、いつも一緒にいるわけではなかったけれど、少なくとも父という存在を知りながら・・・そして、増えていく家族に複雑な気持ちになりながらも大家族という中で育っていったのでした。
■3人の妻と家族
一夫多妻制。実は、香港は長い間、一夫多妻制が合法でした。1971年、香港に新しく施行された法律によって、香港では一夫多妻制が重婚となり違法となりましたが、この法律が施行される前の婚姻関係は維持されました。
1番目の奥様には、2人の息子。
2番目の奥様(ここでのお義母さんは、この方)には、2人の息子。
3番目の奥様には、3人の息子
後に4番目の奥様と2人の子供を設けられます。
不思議な関係に見えるかもしれませんが、子どもたち同士で会うこともあれば、時には、奥様同士が会うこともあり、お互いの家にも行き来したり、家族としての時を過ごしています。
第3章:再び集う家族──復讐の種
▪️父を見たことのない弟
しかし、この中で、実の父に物心ついてからも会ったことがない人がいました。それが、夫の実の弟でした。3歳で父と離れ、その父の顔も思い出せず、父親の写真さえも見たことのなかった弟は、母から聞く極悪非道な父親のことを憎むようになっていました。
「お父さんは、お母さんを苦しめ、僕たち家族を捨て、僕のことも見捨てた奴だ。」「どうしようもないヤツだ...」と。
しかし、お父さんは、幼少の時から会ったことのない次男と会いたい気持ちが片時も離れることがなく、お義母さんに「息子に会わせてくれないか?」と何度も尋ねていたのです。
息子達が成人してからは、長男(夫)を通して、成長した息子に会うためにいろいろなアプローチをしていたのでした。でも、父を憎む気持ちの方が会いたいという気持ちよりも大きくなっていた彼は「一生、絶対に会わない!」と宣言していました。その横で・・・微笑んでいた女性がいたんです。
そう...そうです。
お義母さん。
彼女にとって、あの元夫、
あの男にする唯一の復讐はこの手だったのです...
どれだけ会いたいと言っても”会わせない”
どれだけ子供を愛していても”子供はあなたを恨んでる”
どれだけ欲しても”あなたには会うことは一生ないわよ”
と…
しかし、人生とはホント不思議なものです。人の思いを遥かに超えた何かが動いているとしか思えないようなことが現実に起こるもの。
この後、大きく゛事゛が動き出すのでした。
▪️お義母さんの復讐|弟の思い
元夫が何度も息子に会わせてくれと言ってきてても、会わせなかった彼女(お義母さん)。そして、会いたくて仕方のない息子に「父には会いたくない。」と言わせしめ、一生後悔させることが彼女にとって、元旦那への復讐だったのです...
「俺には、とうの昔からおやじなんていないよ。
絶対に会うもんか!! 俺達を捨てたひどいヤツ。
俺は憎んでいるんだ!
お母さんは、苦労ばかりしてきたじゃないか...。」
そう、言い続けてきた弟。
結婚して、自身が子供を授かった後も、その思いが変わることがありませんでした。父と会っていた兄からの、゛父の頼み゛も一切聞こうともしなかった弟。弟の思いは、深いものでした。もう、誰も彼に聞くことはなくなっていきました。
■父が癌・・・
そんなある日のこと、”お義父さんが倒れた。”と連絡が入ってきました。お義父さんは、倒れて運ばれた病院で検査を受け、病院で分かったのは、もう治る見込みのない肺癌にかかっていたということでした。
「ご家族にまず、お伝えします。おそらく1年はもたないでしょう。年齢のことを考えると、何かあった時には、その時期が早くなるかもしれません。だから、ご家族の皆さんも覚悟は、しておいてください。」と医者から家族に宣告されたのです。
程なくして、その話を聞いたお義父さん。延命の為の治療も話し合われたのですが、お義父さんは、痛みに対応する薬は受けるけど、治療は一切拒否しました。
その後、何度か危ないところを通りながらも、数日後には元気な顔を見せてくれ流ということを何度か繰り返したお義父さんでした。
息子である夫に
「僕はね、もう、心配は何もしていないんだよ。家族にも恵まれた。まあ、お前たちには、そう思えないと思うこともあるかもしれないけど、家族がたくさんいることはいいことだ。僕は、心配していない。天国に行くんだから...
ただ、心残りは幼い時から会ったことのない、お前の弟といまだに会っていないことだな。お前達にもそうだったかも知れないが、父親らしいことをしてあげれなかった。あの子に会って話をしたい。」
そう、言うのでした。
第4章:癌末期の再会と赦し|最後の頼み
そんなある日、主人とわたしは弟に時間を作ってくれるように頼み会いに行きました。
「お父さんと会ってみない?お父さんは、お前に会いたくて仕方がないんだよ。今、もう治る見込みのない癌に侵されている。いつ天国に行ってもおかしくないんだよ。お前にとってもそう...。会わなくて後悔するよりも会っておいたほうが...後悔は、少ないと思うんだ。」
夫は、そう弟に告げました。
今までであれば、全く聞く耳も持たない弟でしたが
この日は、何か奇跡が起こったようでした。
「そうだね・・・。
僕も父親になって”父親”というものを考えるようになったんだ。
今度、会うよ。
お父さんと早めに逢う日を設定してくれないか?」
とそう伝えました。
この何十年か、許すことさえ出来なかった父親への始めての歩み寄りでした。
兄は、この翌週にお父さんと弟の再会の日を設けました。
■母の復讐の終わりと38年ぶりの親子の再会
弟と兄は、父に会う前にも母にも伝えておいた方がいいと
わたしとお義母さんとお兄さんを呼び出しました。
そして、母にも父に会うことを理解をしてほしいと
レストランで食事と共にし、そのことを話したのでした。
エピローグ:家族の再生|不機嫌なあのお昼の出来事
そして、夫とお義弟さんとお義兄さんと、そして、お義母さんとわたしが集まり、美味しい食事をしながら、3時間ぐらい居座っていたのでした。
そう、ここに集まっていたのには、大きな訳がありました。この日のお義母さんは、不機嫌で仕方ありません。男3人(息子たち)を前にして、始終悪態をついていました。息子を奪ったという憎き嫁であった私には、この頃には随分と心を開いてくれるようになり、この日もわたしの言うことは耳を傾けていてくれたのですが...お義母さんの知らない間に行われたある計画が気に入らなかったのでした。
そうです・・・
お義母さんは、息子たちから、
今まで実の父にあったことがない息子(夫の弟)が癌末期である父にこれから会いに行くと告げられていたのでした…。
もちろん、お義母さんはいい顔はしませんでした。始終不機嫌な態度は変わりません。しばらくの間黙っていましたが… 一言、こう言ったのです。
「あんたも、もう大人だしね!」
感情では、許せない思いが未だに残っていたようですが、それは、理性と母性で、まるで弟の背中を一押したように見えました。一言も「行って来たら・・・」とは言いませんでしたが、
この日・・・・
お義母さんの元夫への復讐が終わったのでした。
お義母さんが私の耳元でこう言いました。
「わたしもこのまま 人を許さないで・・・
憎んだままで あの世に行きたくないからね。」
本当はお義母さん自身も、お義父さんを許す
この復讐を終わらせるきっかけがほしかったのではないかなと思いました。
その日の午後、38年ぶりの再会を果たした父と子の姿がありました。握手が交わされた後、他の家族は全員退いて、父と弟だけで2時間、別部屋にこもって 話をしていました。何が話されたのかは...誰もわかりません。
2人にとって、重要な日になったことは、間違いないでしょう。
そして、弟にとっては、生涯忘れることの出来ない日となりました。後に、彼がそう教えてくれました。本当に良かった。
その翌週のことです。
「お義父さん 危篤」との連絡が入りました。家族の皆が病院に駆けつけました。
あのお義母さん以外は...
近所に住んでいた第3婦人の家族と第4夫人の家族は、
安らかに逝ったお義父さんを天国に見送ることができました。
「凄くいい顔していわよ。」と・・・。
わたし達は、最後の時には間に合いませんでしたが、もう目を覚ますことのない、そのお義父さんの顔から悔いなく、天国へ行けたんだな...そう思わされる穏やかな顔を見つめていました。
この1週間前にお父さんと弟が会うことが出来ていて本当によかったと・・・
感謝しました。(あの日を逃したなら、弟は、お父さんと生きて一生会うことが出来なかったでしょう。)不思議な導きでした。
弟も「会えてよかった。会えててよかった。」
そう言っていました。長い間、会うことがなかった父と息子。
会わせなかった母。
時が流れ、父に思いをはせるようになった息子。
許せない気持ちを手放した元妻。
この父によって波乱?な道を歩んでた9人の子供たち・・・
いろいろあったけど、息子を”元夫へ会わす”ことを受け入れたお義母さん。
そして、彼が天国に行く前には、許そうと思えた”お義母さんの長い復讐”は、幕を閉じたのでした。
■最期の別れ:只者ではないお義父さん
お葬式の日、9人の子供たちの姿と2人の妻。
そして、孫たちの姿がそこにありました。
弟の姿も…。
「バラバラだった家族が、もう一度、お父さんの死によって集められるなんて不思議よね。わたし達の家族って...。
こんなにもいたのね。
ホントお父さんは、最後まで只者ではないわね。」
そう、穏やかに話す家族の姿がありました。
終わりに
「一夫多妻制」という、今の香港では見かけなくなった家族の形が、夫の家族には歴史の刻印のように深く残っていました。香港に来て長い間、私はこの事実を誰にも話すことができませんでした。言葉を選んだとしても、どこかで「恥ずかしい」と感じていたのでしょう。次世代を担う子どもたちに、どのように伝えていいのかもわかりませんでした。
けれど、香港の家族や親戚たちと過ごすほど、彼ら彼女らが好きになっていきました。そして、彼らが「家族」であると感じるほど、「恥ずかしい」と感じていた自分自身が恥ずかしく思えたのです。
人は時に、時代の大きな波に抗えません。社会情勢や常識が変化する中で、それでも変わらないものを握りしめ、必死に生きていくものです。彼ら一人ひとりの生き様は、まさに「歴史そのもの」。語り継がれるものもあれば、意識されなくなる事実もある中で、私はこの家族の歴史を鮮明に残しておきたいと思いました。
彼らの生き様から私は、香港の中でも「普通の一般的ではない」とレッテルを貼られる生き方の中にも、計り知れない強さと可能性が宿ることを学びました。また、彼ら自身が「枠」を取り払い、「無問題(モウマンタイ)」と前を向いて生きてきた姿に触れることで、私自身の生き方もまた、大きく枠を超え、広がっていったのです。
この経験は、私が現在の活動を行う上で、かけがえのない基盤にもなっています。異なる文化、予期せぬ困難、そして過去の「枠」にとらわれず、いかに自分自身の可能性を広げ、しなやかに生きるか。今の香港もまた、大きな変化の時期を迎え、海外へ移民した知人もいれば、この地で変わらず暮らし続ける人たちもいます。今も彼らを見るたびに心が震えます。
これまで海外で培ってきた経験、そしてこの家族から学んだ「生き抜く力」は、きっと、変化の時代に「自分の枠を越え、可能性を広げたい」と願うあなたの力になれると信じています。
この物語が、あなたの新たな一歩のきっかけになれば幸いです。
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