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教育格差は、塾代だけではない。「頼れる大人の数」で広がっていないか?

塾に行っている子は、勉強だけを教わっているのだろうか。

私は、そうは思わない。

塾にあるのは、問題の解き方だけではない。

分からないと言える相手がいる。
間違えても見捨てない大人がいる。
模試の結果を見て、「次はこうしよう」と言ってくれる人がいる。
親とは違う大人に、今の自分を見てもらえる。
学校とは違う場所で、もう一度評価される。

それは授業料なのか。

それとも、
子どもを見てくれる大人を増やすお金なのか。

教育格差というと、私たちはすぐにお金を見る。

塾代。
教材費。
私立の学費。
習い事。
中学受験。
留学。
親の年収。
親の学歴。

もちろん、お金は大きい。

そこを軽く見るつもりはない。

OECDのPISA 2022でも、社会経済的に恵まれた生徒は、不利な生徒より数学で平均93点高かったとされている。家庭の背景が学力に影響することは、きれいごとでは消えない。

でも、私はもう一段奥を見たい。

お金で買われているのは、本当に授業だけなのか。

裕福な家庭は、学力だけを買っているのではない。

子どもを見てくれる大人の数まで増やしているのではないか。


裕福な家庭は、授業だけを買っているのではない

お金のある家庭は、子どもにいろいろな場所を用意できる。

塾。
英会話。
ピアノ。
サッカー。
野球。
ダンス。
プログラミング。
探究教室。
個別指導。
家庭教師。
キャンプ。
留学。

これはよく「体験格差」と呼ばれる。

もちろん、その通りだと思う。

でも、その場所には必ず大人がいる。

塾の先生。
大学生講師。
習い事の先生。
スポーツのコーチ。
キャンプのスタッフ。
進路に詳しい人。
親の知人。
先輩。
地域の大人。

子どもは、そこで勉強や技術だけを得ているわけではない。

自分を知っている大人を増やしている。

学校の先生以外に、
親以外に、
その子の名前を覚え、
得意不得意を見て、
調子の変化に気づき、
時には褒め、
時には叱り、
時には次の場所につないでくれる大人を増やしている。

これは大きい。

かなり大きい。

塾に行ける子は、分からない問題を聞ける。

でも本当に大きいのは、
分からないと言ってもいい大人がいることだ。

見られている子と、見られていない子

教育格差は、できる子とできない子の差として見える。

でも、その前にあるのは、
見られている子と、見られていない子の差ではないか。

成績が下がったとき、ある子は「どうした?」と聞かれる。

別の子は、ただ「やる気がない」と片づけられる。

宿題を出さない子がいる。

ある子は、塾の先生に聞かれる。

「最近、何かあった?」

別の子は、学校で注意される。

「また出してないのか」

授業中に寝る子がいる。

ある子は、コーチに言われる。

「最近疲れてる?大丈夫か?」

別の子は、ただ怠けている子として見られる。

同じ行動でも、周りに大人がいるかどうかで意味が変わる。

気づいてくれる大人がいる子は、問題が問題になる前に拾われる。

気づいてくれる大人がいない子は、問題が大きくなってからようやく見つかる。

その頃には、もう「困っている子」ではなく、
「問題のある子」として扱われていることもある。

ここが怖い。

頼れる大人が多い子は、失敗しても失敗だけで終わらない。

誰かが気づく。
誰かが聞く。
誰かがつなぐ。
誰かが戻る道を一緒に探す。

でも、頼れる大人がいない子は、失敗する前から孤立している。

「努力できる子」には、努力を支える大人がいる

よく言われる。

「結局、本人の努力でしょ」

たしかに、努力は大事だ。

でも、努力という言葉は、かなり雑に使われる。

努力できる子の周りには、努力を支える大人がいることが多い。

分からないときに、聞ける大人がいる。
落ち込んだときに、声をかける大人がいる。
進路で迷ったときに、選択肢を教える大人がいる。
失敗したときに、「じゃあ次どうする?」と聞く大人がいる。

これは本人の努力だけではない。

努力が崩れたとき、もう一度立て直してくれる大人がいるということだ。

逆に、努力できないように見える子がいる。

宿題を出さない。
授業中に寝る。
提出物を忘れる。
学校を休む。
進路を考えない。
すぐ諦める。
やる気がなさそうに見える。

外から見れば、こう言いたくなる。

「本人の問題だ」
「やる気がない」
「甘えている」
「努力不足だ」

でも、本当にそうだろうか。

その子は、努力しない子なのか。

それとも、努力が崩れたときに拾ってくれる大人がいない子なのか。

この二つは、外から見ると同じ顔をしている。

だから怖い。

「努力不足」と呼ばれているものの中には、
本当は「誰にも拾われていない」が混ざっている。

一番必要な子ほど、大人のネットワークから遠い

ここが、このテーマで一番残酷なところだと思う。

大人とのつながりは、不利な子どもにとって大きな支えになり得る。

でも、そういう子ほど、そもそも頼れる大人に出会いにくい。

米国の研究では、社会的・家庭的資源を多く持つ若者ほどメンターを持ちやすい一方、資源の少ない若者ほど、メンター、とくに教師メンターから大きな恩恵を受ける可能性が示されている。

つまり、こういうことだ。

必要としている子ほど、届きにくい。

すでに恵まれている子ほど、さらに大人のネットワークを得やすい。

親に余裕がある子は、塾にも行ける。
習い事にも行ける。
進路情報にもアクセスできる。
親が調べる。
親が聞く。
親がつなぐ。
親が動く。

でも、親に余裕がない子はどうなるのか。

親も疲れている。
親も孤立している。
親も情報を持っていない。
親も誰に相談すればいいか分からない。

そうなると、子どもは家庭の外にもつながりにくい。

塾にも行かない。
習い事もない。
地域ともつながっていない。
親の知人から何かを紹介されることもない。
進路の選択肢も知らない。

そして最後に残るのが、学校だ。

でも、その学校にも行けなくなったら。

その子には、誰が残るのか。

学校に行けなくなることより怖いこと

不登校という言葉を聞くと、多くの人は「学校に行けないこと」を問題にする。

もちろん、それは大きい。

でも、本当に怖いのは、学校に行けなくなることだけではない。

学校に行けなくなった瞬間、
その子を知っている大人がゼロになることだ。

親とは話せない。
塾にも行っていない。
習い事もない。
地域に居場所もない。
相談機関も知らない。
学校にも行けない。

そうなったとき、その子の周りに誰が残るのか。

担任の先生が連絡してくれるうちは、まだ細い糸がある。

でも、先生も忙しい。

年度が変わる。
担任が変わる。
学校との距離が広がる。
連絡が途切れる。

その瞬間、その子を知っている大人はどれだけ残るのか。

ここを見ないまま、「不登校支援」や「教育格差」を語っても足りない気がする。

前回、私は「学校に全部押しつけすぎているのではないか」と書いた。

学校は、社会の困りごとの最終処理場ではない、と。

でも今回、もう一つ問いたい。

学校に全部押しつけるな。

では、学校の外に、その子を知っている大人は何人いるのか。

ここを考えないと、結局また学校に戻ってくる。

「先生、お願いします」
「担任の先生、見てください」
「学校で何とかしてください」

そう言うしかなくなる。

なぜなら、他にその子を知っている大人がいないからだ。

「頼れる大人が一人いればいい」は、少し危ない

ここで、きれいな話に逃げたくなる。

子どもには、一人でも信頼できる大人がいればいい。

そう言いたくなる。

たしかに、それは希望のある言葉だ。

一人の先生に救われた。
一人のコーチに見つけてもらった。
一人の地域の大人が声をかけてくれた。
一人の塾の先生が人生を変えてくれた。

そういう話はある。

私も、それを否定したいわけではない。

メンタリング研究のメタ分析でも、非親族の大人による一対一のメンタリングは、学業や心理、社会的アウトカムなどに平均して小さなプラス効果を示している。

自然に生まれるメンター、つまり先生、コーチ、親戚、近所の大人のような存在も、子どもの学業や進路、社会情緒的な発達と良い関連があるとされている。

だから、頼れる大人は重要だ。

ここは間違いない。

でも、「一人いれば解決」ではない。

ここを間違えると、また感動話で終わる。

実際、米国教育省の大規模な学校メンタリング評価では、メンタリングを受けた子どもたちについて、全体として対象アウトカムへの統計的に有意な効果は見られなかった。

英国のAchievement for Allでも、子どもが「学校に自分を気にかけ、支えてくれる大人がいる」と感じやすくなった一方で、読解や数学の進捗にはマイナスが観察された。

これはかなり重い。

「大人がいる」と、
「支援が機能している」は違う。

子どもに必要なのは、
「優しい大人を一人つけること」ではない。

その大人がいなくなっても、
別の誰かにつながっていることだ。

大人の数より、大人の網

子どもを支えるものは、一人の善意だけでは足りない。

なぜなら、その一人はいなくなるからだ。

先生は異動する。
塾の先生は辞める。
大学生ボランティアは卒業する。
支援員は契約終了になる。
カウンセラーは週に一度しか来ない。
コーチと合わなくなることもある。
親との関係が悪くなることもある。

たった一人に頼っている子は、その一人が切れた瞬間にゼロへ戻る。

だから本当に必要なのは、「一人の良い大人」ではない。

複数の大人。
複数の場所。
複数の入口。
複数の逃げ道。

家庭で苦しくなったら、学校。
学校で苦しくなったら、地域。
地域に行けなければ、支援機関。
学習でつまずいたら、学習支援。
心がしんどければ、専門職。
進路で迷えば、別の大人。

どこか一つが切れても、全部が切れない。

これが大事だと思う。

日本でも、文部科学省は親でも教師でもない第三者との「ナナメの関係」をつくることや、学校内外で多様な大人と接する機会をつくる必要性を示してきた。

日本財団の「子ども第三の居場所」も、家庭や学校以外の場で、信頼できる大人や友達と安心して関われる場所を広げる取り組みとして位置づけられている。

これは、単なる居場所づくりではない。

家庭でもない。
学校でもない。
でも、その子を知っている大人がいる。

そういう場所を社会に残すということだ。

子どもに必要なのは、救世主ではない。

冗長性だ。

一人の大人にすべてを託すのではなく、
切れても残る大人の網をつくることだ。

教育格差を測るなら、「大人ゼロの子」を見ろ

学校は学力テストをする。

健康診断もする。

生活アンケートもする。

出席日数も見る。

成績も見る。

家庭の経済状況も見る。

でも、その子の周りに頼れる大人が何人いるかを、どれだけ本気で見ているのだろう。

困ったときに相談できる大人はいるか。

その人は家族か。
学校の人か。
地域の人か。
支援機関の人か。
本当のことを話せるのか。
実際に助けてくれるのか。
必要な場所につないでくれるのか。
その関係は続いているのか。

こういうことを、私たちはどれだけ測ってきたのだろう。

各国には、教師支援、所属感、親との会話、相談相手の有無などの指標はある。

でも、家庭・学校・地域を横断して、子ども一人あたり頼れる成人が何人いるかを継続的に見る標準的な統計は、まだ十分とは言いにくい。

つまり、私たちは教育格差を語るとき、点数は数えてきた。

出席も数えてきた。

お金も数えてきた。

でも、子どもを支えている大人の厚みは、あまり数えてこなかった。

ここに盲点がある。

本当に見るべきなのは、平均ではない。

「この地域の子どもは平均して何人の大人に頼れます」では足りない。

一番見るべきなのは、ゼロの子だ。

困ったとき、誰も思い浮かばない子。
学校にも言えない子。
親にも言えない子。
地域にもつながっていない子。
相談機関の存在も知らない子。

その子は、問題が起きてから孤立するのではない。

問題が起きる前から孤立している。

親を責めても、この問題は解けない

ここで親を責めるのは簡単だ。

「親がちゃんと見ればいい」
「家庭の責任だ」
「親が情報を取ればいい」
「親が子どもと向き合うべきだ」

その通りの部分もある。

親の責任はある。

でも、親も孤立している。

親にも時間がない。
お金がない。
相談先がない。
余裕がない。
情報がない。
地域とのつながりがない。

親自身が頼れる大人を持っていないこともある。

親に余裕がある家庭ほど、
子どもに大人との接点を作れる。

親が調べる。
親が申し込む。
親が連れていく。
親が相談する。
親がつなぐ。

でも、親自身が孤立していたらどうなるのか。

子どもの大人ネットワークは、親のネットワークに左右される。

これは親を責める話ではない。

親もまた、誰かにつながっていなければ、子どもを誰かにつなぐことが難しいという話だ。

親を責めても、子どもの孤立は解けない。

必要なのは、親の努力を増やすことだけではない。

親が孤立していても、子どもが別の大人につながれる仕組みだ。

学校だけに頼れる大人を求めるな

子どもには頼れる大人が必要だ。

それは間違いない。

教師との良い関係が、学校への参加や学業成果と関連することも、メタ分析で示されている。

でも、だからといって先生に全部背負わせるのは違う。

子どもに頼れる大人が必要。
だから先生が見るべき。
だから担任が支えるべき。
だから学校が何とかするべき。

この流れは危ない。

それを続けると、前回の記事の話に戻る。

学校が、社会の困りごとの最終処理場になる。

先生が、教育だけでなく、福祉も、心理も、家庭支援も、地域の穴も、全部背負うことになる。

それでは続かない。

必要なのは、先生を頼れる大人にすることではない。

先生だけを頼れる大人にしないことだ。

家庭にも、学校にも、地域にも、福祉にも、医療にも、NPOにも、別の入口があること。

子どもがどこか一つから外れても、別の誰かが残ること。

それが本当の支援だと思う。

その子を知っている大人は、何人残るのか

教育格差は、塾代だけではない。

もちろん、お金は大事だ。

でも、お金が買っているものは授業だけではない。

子どもを見てくれる大人。
質問できる大人。
進路を知る大人。
失敗したときに拾ってくれる大人。
別の場所につないでくれる大人。

そういう大人との接点も、お金によって増えている。

一方で、最も大人を必要としている子ほど、その大人から遠い。

親も苦しい。
塾にも行かない。
習い事もない。
地域にもつながっていない。
学校に行けなくなれば、先生との接点まで切れる。

その子には、誰が残るのか。

ここを問わないまま、
「努力しろ」
「相談しろ」
「学校に戻れ」
「親が見ろ」
と言うのは、少し残酷だと思う。

教育格差は、点数の差として表れる前に、
「困ったときに誰を思い浮かべられるか」の差として始まっているのではないか。

塾代の後ろに、体験格差がある。

体験格差の後ろに、情報格差がある。

情報格差の後ろに、人間関係の格差がある。

あなたを見ている大人は何人いるのか。

あなたが落ちたとき、誰が気づくのか。

あなたが黙ったとき、誰が聞くのか。

あなたが学校から消えたとき、誰が探すのか。

教育格差を本気で縮めたいなら、
塾代だけを見るな。

偏差値だけを見るな。

家庭年収だけを見るな。

その子が困ったとき、
実名で思い浮かべられる大人が何人いるのか。

そして、ゼロの子は誰なのか。

そこを見ない教育格差論は、
子どもの孤立を見落としている。

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