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国際教育の選択と決断⑤大成功にみえた留学の裏側

こんにちは、教育情報キュレーターの萩原麻友(https://note.com/educurator)です。

この連載では、親の決断から始まり、やがて私自身が選び取っていくようになった「国際教育の道のり」を振り返っています。

国際教育に関心がある方だけでなく、「子どもの進路をどう支えるか」を考える保護者に向けて書いています。

前回は、海外ホームステイで親以外の大人に失敗ごと受け入れてもらえた原体験について書きました。

今回は、私が10代のころに単身で飛び込んだアメリカのボーディングスクールでの日々についてです。

大成功にみえたボーディングスクール留学

私が初めてアメリカで寮生活を体験したのは、日本のインターナショナルスクールで小学5年生にあがる前の夏休みでした。

マサチューセッツ州にあるボーディングスクールのサマースクールでした。

寮生活はホームステイよりも気楽で、毎日なにかしら予定が埋まっていて、友達と毎晩一緒で楽しかったというのが第一印象です。

このサマースクールは、本格的なボーディングスクール留学に向けたお試しでした。

そうして中2の年にボーディングスクールを受験。

進学先を選んだ決め手は、合格した中で「一番生徒数が多かった」ことでした。

当時の生徒数は4学年で約1200人。

それまでのインターでは、年少から高3までで約250人だったので、その差は歴然でした。

留学生は2割ほどいましたが、入学した年、同じ寮に日本人は私一人だけでした。

入学した年の寮の集合写真

学校があったのは、ボストンから車で2時間半ほど離れた、自然豊かな田舎町でした。

大阪や神戸の都会生活出身の私でしたが、最終的には芝生を裸足で歩き回り、木登りをし、りんごをそのままかじるほど野性的に馴染んでいきました。

元々インドア派だったのに、気づけばヨットの操縦を覚え、マウンテンバイクやカヌー、オリエンテーリングの学内大会に出場したこともあります。

現地生に混じって学業もこなし、気の許せる友達もできました。

日本にいる両親から見ればむしろ馴染みすぎなほど「大成功の留学」に見えたはずです。

しかしもちろん、最初からすべて順調だったわけではありません。

内側から壊れかけた1年目

特に最初の1年、私は自分でも気づかないうちに苦悩を抱えていました。

あれは10代の誰もが通るものだったのか、ホームシックやアイデンティティ・クライシスが混じっていたのか、両方だったのか、今となってはよくわかりません。

たとえば特定の先生に説明のつかない嫌悪感が湧いて、反抗的な態度で教室を追い出されて激しく後悔したこともあります。

ある冬の夜にはなんだかいてもたってもいられなくなり、雪が積もる外へ飛び出して、大声を出しながら木を蹴り上げていました。

寮の裏に広がる敷地

あるとき、仲の良かったルームメイトから「このままだと来年は一緒に住めない」「精神科を受診したほうがいい」と真剣に忠告されました。

実際に学校のカウンセリングを受けましたが、そのときの私は相手を信用できず、「これに通うくらいなら自力でなんとかしよう」と心を閉ざしてしまいました。

この時期、私は親の手の届かない場所で言葉にできない感情の暴走と闘っていたのです。

親以外の大人たちの存在

そんな私の張り詰めた糸を少しずつ緩めてくれたのは、日常の中の大人たちでした。

私が通っていたボーディングスクールでは、ほとんどの先生が学校内かすぐそばに住んでいます。

私をマネージャーとして4年間そばに置いてくれた水泳部のコーチ。

外国人同士で分かり合えた、スペインからの新任アドバイザー。

頻繁に家に帰れない留学生事情を汲んで、たまに自分の洗濯機を使わせてくれた寮住まいの先生。

学校の先生だけでなく、友人の家族も私の大切な理解者でした。

ルームメイトのお母さんはサンクスギビングのたびに泊めてくれ、私を一人前のように扱ってくれました。

いろんな体験をさせてくれたルームメイトのお母さん

連れて行ってくれた舞台『レ・ミゼラブル』は、私に新しい世界を見せてくれました。

別のお母さんは、自分の子どもの大学見学に私も連れて行ってくれました。

自分の親がそばにいられなくても、私は気にかけてくれる大人たちに囲まれていました。

その集大成とも言える出来事がボーディングスクールの卒業式の日に起きました。

絶対に遅れてはいけないその朝、一人部屋だった私は寝坊をして会場へ向かうバスを逃してしまいました。

家族は参列する予定がなく日本です。

寮の大人たちも全員会場に向かっていて誰もいませんでした。

私は大慌てで会場近くに住んでいる馴染みの先生に電話をして泣きつきました。

ご自身のお子さんもいて準備で大変だったはずなのに、先生は二つ返事で迎えに来てくれました。

その車内のいたたまれなさとありがたさを思い出すたびに実感します。

もしずっと親元で暮らしていたら、私はこんなふうに素直に助けを求め、頼ることができなかったかもしれないと。

無事間に合った卒業式。傘は友人の母から、バラは水泳部のコーチから送られた

自ら助けを求める練習

親以外の大人に受け入れてもらう経験の価値については、前回の「ホームステイ編」でも書きました。 

しかし10代後半にもなるとただ受け入れてもらうのを待つのではなく、自ら動く必要がでてきます。

うまくやれない葛藤を抱えながら「ここまでは頑張る」「ここからは誰かを頼る」と、自分なりの線引きを試す。

振り返ると、私はボーディングスクールでその線引きを何度も失敗しながら練習していました。

留学をするしないにかかわらず、子どもが自分のペースで限界を見極め、助けを求める練習ができること。

そんな試行錯誤ができる環境を子どもに与えたいと今の私は考えています。

次回はアメリカでの大学進学と、そこからのどんでん返しについてお話しします。

▼ 萩原麻友のnoteアカウント 
https://note.com/educurator






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