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サッカーは国の魂を映すのか

日本代表の進化ー第4光線と第6光線

2026年サッカーワールドカップの初戦で、
日本代表がオランダと引き分けた。

私は熱心なサッカーファンではない。
それでも、日本代表の進化に30年以上、
意識を向け続けてきたのは、
亡くなった父の影響かもしれない。

父は日本ワールドカップ招致委員会にいた。 1993年、日本代表がワールドカップ出場を目前で逃した「ドーハの悲劇」を現地で目撃している。そのときの話を、私は父から何度も聞いてきた。だから日本代表の試合を見るとき、目の前の試合だけでなく、ドーハから続く長い時間を、どこかで重ねているのだと思う。

だから今回のオランダ戦で、
日本がビハインドになっても、
選手もベンチも下を向かなかったことに、
心が熱くなった。

相手との実力差を前に萎縮するのでもなく、
今までのように「よく戦ったから仕方ない」と
敗北を受け入れるのでもない。
選手たちは一つのチームとなり、
落ち着いて最後まで前へ進み続けた。

そこに私は、日本の2つの宇宙光線の
成熟した表現を見たように思う。
日本の魂光線である第4光線と、
パーソナリティ光線である第6光線である。

ちなみに父はいつも「よく戦った」という
慰めの言葉に激怒していた。
だから日本サッカーは成長しないんだと。
私に叱っても…と溜息ついて聞いていたなぁ。

昭和的な「調和のチーム」

昔の日本代表にも強いチームワークはあった。
1人のスター選手に依存するのではなく、
全員で走り、全員で守り、
与えられた役割を忠実に果たす。
その姿は、日本らしいものだったけど、
その調和は昭和的な古い集団性だったと思う。

全体のために自分を抑える。
輪を乱さないために突出しない。
自分の判断よりも、
監督や組織から与えられた役割を優先する。
いわば、調和を守るために、
個人が自分を滅するチームだった。

もちろん、そこには献身の美しさがあった。
自分より仲間を優先し、チームのために走る。
目立たない場所で、自分の役割を果たし続ける。

しかしその一方で、
個人の判断や創造性が抑えられ、
世界の強豪を前にすると、観客の側も含めて、
自分たちの限界を先に受け入れてしまう癖が
あったのではないかと思う。
「やはり日本人にサッカーは無理ではないか」
「身体能力の高い外国の選手には勝てない」
そんな諦めが、負けるたびに募っていく。

そして負けたあとには「よく頑張った」
「美しく負けた」と語ることで、
敗北を受け入れていた。
少なくとも、私がこれまで見てきた
日本代表の周辺には、
負けることの美学と呼べる感覚があったと思う。

第4光線――自分を消す調和から、
個を生かす調和へ

第4光線は「葛藤を通しての調和」が特徴だ。
調和というと、争わず、波風を立てず、
穏やかにまとまることのように聞こえるが、
第4光線の調和は、違いを消すことではない。

異なる力がぶつかり合い、
その緊張を引き受けながら、
以前にはない新しい調和を生み出す力である。

現在の日本代表には、海外の異なるクラブでプレーし、それぞれ異なるサッカー文化や戦術を身につけた選手たちが集まっている。彼らは、ただ監督の指示に従っているのではない。

試合の流れを読み、自分で判断し、ときには互いに要求し合いながら、その場でチームの形を作り直していく。

自分の個性を隠して、全体に合わせるのではない。世界で磨いた自分の技術と判断力を、チームのために惜しみなく差し出している。

それは、個を滅する調和ではない。
一人ひとりが自分の力で立つことで、
全体が強くなる調和である。

昔の日本代表のチームが
「自分を消して一つになる」であれば、
現在の日本代表のチームは、確かに変わった。
「それぞれ自分として立ちながら一つになる」

今回の試合では、日本の第4光線が、
「和を乱さないための調和」から、
「異なる個性を生かした調和」へと
成熟してきたように見えた。

キルギス・ビシュケク2019年11月16日:サッカー日本代表

第6光線――信念のために諦めない

もう一つ、今回の日本代表から感じたのが、
第6光線だった。
第6光線は、献身と理想の光線である。

低位に表れれば、盲目的な精神論や、悲壮な自己犠牲である。悲しくも、かの世界大戦で表現されたが、その残存は戦後の日本のスポーツ界にもみられた。かつての日本のスポーツには、「上からの指導に盲目的に従う」「苦しくても耐える」「自分を犠牲にして組織に尽くす」という、昭和的な第6光線の表現が強かったように思う。

しかし、現在の選手たちが見せている献身は、
それとは少し違う。
自分を粗末にするのではなく、
自分の力を十分に育てる。

海外へ渡り、技術を磨き、世界の基準を知る。
そして、その経験を日本代表に差し出す。

今回も、かつてのような
「気持では負けてない」という精神論でなく、
長い鍛錬に裏づけられた献身があった。
勝利を信じる。 そのために走る。
仲間を信頼して、自分の役割を果たす。
失点しても、試合の未来を閉じない。
焦りに飲み込まれることなく、
次に集中して動き続ける。

そこには、「強い相手にここまで戦えたのだから十分だ」という満足も、「日本人には無理だ」という諦めもなかった。

日本代表は、「美しく負けるチーム」から、
自分たちの未来を最後まで閉じないチームへ
進化してきているのだと思う。

第6光線の美徳である
「自分が信じるものを最後まで諦めない。
 前向きに明るく進む光」
を存分に放っていた。

ドイツとイタリアに見る光線の違い

ここで光線をサッカーの視点から深堀りしてみたい。サッカーには国家の光線的傾向が表れやすいのではないか、と思ったからである。

秘教の伝統では、それぞれの国に「魂の光線」と「パーソナリティの光線」があるとされている。その光線をサッカーというフィルターを通して見ると、その組み合わせの違いが、各国のサッカースタイルの伝統――ピッチ上の戦術スタイル――として現れているように思える。

日本と同じ第4光線を魂に持つドイツ、パーソナリティは意志の第1光線である。そのため第4光線の統合力は、リーダーシップが強い監督が作り上げる構造と統率の中で、全員が一つのシステムとして機能する組織力となって表れやすい。ドイツのサッカーには、「全員が、一つの強い構造の中で機能する」という特徴がある。

一方、魂が第6光線、パーソナリティが第6光線であり、日本とは二つの光線が逆の位置にあるイタリアでは、第4光線的な戦術美や交渉(駆け引き)の上手さを、第6光線的な伝統的な誇りが支えている。イタリアのサッカーは、「全員が、一つの戦い方と美学を信じる」という形に近い。

そして日本では、第6光線的な献身や諦めない姿勢が外側に現れ、その力を内側の第4光線的な調和性が、チームとしての統合と一体化へ導いていく。

サッカーを通して国ごとの違いを見ると、光線の組み合わせが集合的なスタイルとして現れる面白さを感じる。

長くなるので省略するが、第1光線~第3光線までを魂光線として持つ国には、カリスマ的なスター選手を上手く活かして戦うように思える(残念なことに、スター選手の調子が悪いと、とたんにチームとして脆弱になる)

(※ご希望があれば、いずれもう少し詳しく「光線×サッカー」を書いてみたいです)

2019年 イタリア代表

スタンドに残された調和

そして今回の試合で、もう一つ印象に残ったことがある。この2026年W杯の初戦においても、試合終了後に日本のサポーターたちが、自分たちの座っていた席のまわりのゴミを、静かに拾い始めていた。

勝っても、負けても、
いつも同じ清掃をたんたんと、同じように。

これまでのW杯でも、ロッカールームを整えて引き渡していく日本代表の姿が、繰り返し伝えられてきた。

これも、第4光線の美しい表現だと思う。

高位に働く第4光線は、
自分の存在を強く押し出すことよりも、
対立や緊張の中に新しい調和を創造する。
そこに主張があるとすれば、
「調和」そのものが、静かな主張なのだ。

何かを声高に語るわけではない。
ただ、その場にある不調和の乱れを整え、
後には荒れたものを残さない。

スタジアムという、勝敗をめぐる激しい感情が生まれる場所で、その緊張を受け止めながら、最後に場を整えて帰る。これは、ピッチに立つ十一人だけの話ではない。選手とサポーター、その場に集まった人たち全体が、一つの大きな「場」となり、調和のエネルギーを世界へ放射している。

日本代表とそれを取り巻く人々は、
勝敗とは別のところで、
調和そのものを世界へ手渡しているのだろう。

そして何よりうれしいのは、こうした姿を、日本人だけが美徳として見ているのではないことである。異なる文化を持つ海外の人々も、選手たちの諦めない姿や、試合後に場を整えて帰るサポーターの行動を、敬意や美しさとして受け取っている。

それが単なる従順さや、負けた悔しさを覆い隠すための行動に見えるのではなく、勝敗を超えて、その場を尊重する姿として伝わっている。

第4光線の調和と、第6光線の献身が、
日本の内側だけで通用する価値ではなく、
世界にも届く普遍的な美徳として輝く。

この2つの光線は、日本人にとってあまりにも身近なため、その理想の姿がかえって見えにくいのかもしれない。しかも日本社会では、同調圧力や忖度、自己犠牲、精神論や集団への従属と混ざり、その光線本来の美しさが曖昧になることもある。

だからこそ、異なる文化や価値観が一つの場所に集まる国際大会で、その像がはっきりと立ち上がるのかもしれない。

2018 W杯ロシア2018 年 7 月 2 日
ベルギー戦での敗北後の日本サポーター

サッカーは国の魂を映すのか

もちろん、ひとつの国すべての人が、同じ性質を持っているわけではない。監督や選手、時代によって、サッカーのスタイルも変化する。

国家の光線という見方も、その国の人々を固定的に決めつけるためのものではない。長い歴史や文化の中で繰り返し現れる、集合的なエネルギーの傾向を観察する、一つの視点である。

それでもサッカーは、国家の光線的特徴が比較的見えやすい競技ではないかと思う。

11人の選手が、1つのチームとして動く。

そこには、個人の能力だけでなく、全体をどのように組織するのか、困難にどう反応するのか、何を信じ、何を美しいと感じるのかが表れる。

代表チームとなれば、その背後には、国民の期待や歴史も重なる。

そして、その「場」をつくっているのは、ピッチに立つ選手たちだけではない。スタンドで見守る人々も含めて、一つの大きな場が生まれている。

個人競技よりも、国家の集合的なエネルギーの特質が、フィールド上に現れやすいように感じた。

ドーハの悲劇から、30年以上が過ぎて、海外へ渡る日本選手が日本代表のレギュラーを占めるようになってきた。彼らは、世界の中で個人としての力を磨き、その経験を日本代表へ持ち帰っている。
個人が強くなることと、
全体に献身することは、
もはや対立していない。

一人ひとりが自分の力で立ちながら、
チームのために力を差し出す。

初戦で私が見たのは、試合の結果だけでなく、
第4光線の調和と、第6光線の献身が
以前よりも成熟して輝いてたことだった。

その進化を、
父から受け取ったドーハの記憶と
亡き父の笑顔の記憶と共に見ることができた。

それが、何よりうれしかった。

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