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【エッセイ】「無知」を抱え込む。

「無知」

高校生、そして成人という線をまたぐごとに、この言葉をよりいっそう意識してしまう。

無知とは、読んで字の如く”知識がない”ということ。そしてそのさまから”愚か”という意味も含んでいる。
確かに、作品中のキャラクターや現実のちょっと頼りない人を見て「この人は何も知らないまま生きていくことしかできないんだな………」ということが既にわかりきっているときの、視聴者目線で感じる、あの何とも言えない虚しさ。
それに”愚か”とという言葉を当てはめると納得できるような気がしている。

私は無知が怖い。
実際、私は崩した文章を書かない。
所詮18の戯言だと舐められたくない、かといって大したことが書けるわけでもない。
だから文章の”ルール”とか”らしさ”だけはしっかりしておこう、というこじらせたプライドもあるが、心の奥底に「無知の恐怖」があることのほうが大きい。
怖いから、思うように書けなくなる。
なぜ、怖いと感じるのか。
その怖いはどこから湧き上がってくるのか。

無知の恐怖、その謎を解明すべく、我々はアマゾンの奥地へと向かったー


アマゾンの奥地で見つけたのは”イノセンス”という言葉だ。
この言葉は狂暴だ。
その一つとして「無知・無邪気」の意味を持っている。

調査という思考のダイブを繰り返したところで、私は1つの仮説を立ててみた。

無知はミスを招き入れる。
そしてなにより、ミスを犯してからでしか事の重大さに気づけない。
ミスを犯してしまうと、批判を浴びたり、信用を失うことがある。

”ミスにより損失が発生すること”と”ミスの原因が無知であること”という2つが結びついて「無知の恐怖」を作り出しているのではないか。

「私って、こんなにも無知だったんだ」
18という人生の中で、何度もこう思ってきた。

その中の1つに、noteのフォロー営業がある。
大抵のユーザーがご存知の通り、noteではフォロバ目的のフォローを繰り返してフォロワー数を増やすという「フォロー営業」がある。
ただこのメソッドには致命的な弱点がある。
フォローされたとしても、自分が安易にフォローしなければいい。
全員がフォローすべきかどうかという判断をするようになれば、今の「営業」の価値はなくなる。
からくりの破綻まで持ち込めるというわけだ。
しかし、営業が必ずしも悪ではないこと、そして「無知」の2つがこの問題に収集をつけられなくしている。
かくいう私も一度この営業に加担してしまっている。
この仕組みを理解した瞬間、ものすごく虚しくなったこと、自分も相手も責めたくなったこと。
そして、その虚しさの表明から自分の意思を固めて、それに適した行動をとるまで1ヶ月はかかったこと。
noteから離れても、一生忘れることはない。

ここでは「フォロー営業」というからくりに対して無知だったために、それを肯定した行動をとってしまうというミスが発生している。
ミスに気付いたのは行動の後で、そのときに強い罪悪感に包まれた。

何度も起こしてしまいがちなものも分解してみよう。
普段の何気ない会話。
ネットサーフィンで取り込んだ話題をあげる。
家に帰って調べるとそれがフェイクであることを知る。
とはいえど、エンタメの類なので冗談半分くらいにしか聞いてないだろうし、わざわざLINEで「ごめん、今日の話噓だったみたい」と送るほどのものでもない。
ちょっとしたモヤモヤだけが心に残る。

ここでは、自分が振った話題について無知だったために、相手に間違った情報を伝えたというミスがある。
ミスに気づいたのは会話の後で、申し訳なくなった。


大まかな流れは、仮説から外れていない。
しかし、ミスの感じ方に違和感がある。

ミスを犯してしまうと、批判を浴びたり、信用を失うことがある。

先ほど書いた2つの例では、社会的な損失よりも、罪悪感や申し訳なさといった個人的な感情が心を掌握して、恐怖心を生み出している。
そして、その後行動するまでに時間がかかっている、あるいはできない。

つまり「無知の恐怖」というサイクルはこう説明できる。

無知はミスを招き入れる。
そしてなにより、ミスを犯してからでしか事の重大さに気づけない。
ミスを犯すことで、自分の中に「罪の意識」が芽生える。

ミスにより罪悪感に陥ること”と”ミスの原因が無知であること”という2つが結びついて「無知の恐怖」を作り出し、その後の行動を難しくする。


ここで1つ見逃してはいけないことがある。
それがイノセンスのもう一つの意味「無罪」だ。

そもそもイノセンスという単語は、ラテン語で「害のある・傷つける」を表す”nosent”に反対を表す”in”がついた”innosent”が名詞になったもので「無害」が元の意味らしい。
そこから派生して「無知」と「無罪」という意味を持つようになった、というわけだ。
しかし「無知の恐怖」では「罪の意識」は1つの欠かせないエレメント。
無知の先に「罪」がある。
つまり、無知と無罪は結びつけることができない。

ここで思ったのは、”イノセンス”という言葉は矛盾しているのではないか。

ーこれを深く追い詰めるとキリがなさそうなので、我々は調査をやめ、アマゾンを出ることにした。


では「無知」は悪いことなのか。
私は必ずしもそうではないと思う。
子供なんて言ってしまえば「無知」であるけれど、知識や経験を得ることですこしずつ知っていく。
誰もがその積み重ねでできている。
それに、全てを知ることなんて無理。
全知全能なヒトなんていない。
むしろ私はいてほしくないと思っている。
自分の不完全を受け止めて、空っぽを埋めようとする。
そんな人のほうが見てて、話してて面白いと感じるから。

けれど、「無知」であることは無意識のうちに誰かを傷付けてしまう、または自分が傷つけられていることがある。
はたから見たときに、ものごとにただ「無知」なのか、知ったうえで理解していないのか、理解した上で「無知」のふりをしているのか。
この判断をつけるのが難しい。
つまり、無知であることは誰のためにもならないし、誰も守れない。
では、どうすればいいのか。


自分の好きなこと、興味があることについてとにかく調べて、知って、考える。
これが「無知」を乗り越えていくために大切だと考えている。

好きなアーティストの経歴やディスコグラフィを、気になったアニメの原作や作者について調べてみる。
エッセイや小説を読んで、知らない単語を検索する。
noteでも、気になったクリエイターのプロフィールへ飛んで、自己紹介を読んでみる。
ちょっとでも気になったら、手元にある魔法の金属板を使って、すぐに知ろうとする。
今やたくさんの情報が、ネットの海を泳いでいる。
パッと言葉を唱えたら、すぐさま求めた答えに導いてくれる。
そこで得られるものは得て、比較して、取り込む。

ちょっと「めんどくさいな」と思うかもしれないが、「好き」や「気になる」でそのハードルを下げる。
あふれかえった情報を、自分のものにしていく。

そして、取り入れたもの説明できるレベルまで解釈できるようになることも大切。
他人からの意見をもらうことで、よりいっそう関心を深めることができるし、他人にも自分の「興味」を持ってもらえるチャンスになる。
情報の出し入れが、すっからかんな部屋を満たしていく。
noteがそれを可能にしてくれている。

私はどうだろう?
エッセイでも、ショートショートでも。
思いを込めて伝えられているだろうか。
”ゴースト”が宿っているだろうか。


人間に宿る「罪の意識」は消えない。
ふとしたときに存在をちらつかせてくる。
いざそれを抱え込むと、身動きが取れなくなってしまう。
それはつらい。
いつもいつも恐れおののくのも、まあまあ疲れる。
だから、毎日のちょっとした「知る」を積み重ねて、スカスカな私をうめていく。

今、握りしめて見つめている魔法の金属板、あなたはどう使う?







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かぐや / Kaguya 私のnoteを読んでくださり、ありがとうございます。 良ければスキやコメント、フォローで応援していただけると嬉しいです。