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【エッセイ】7倍のご褒美より、等倍の幸せを。

今年のクリスマスは、11時から始まった。


その日は、というかここ1年、寝つくのが遅いせいだ。
決まった時間に寝て、決まった時間に起きて、学校へ行く。
それができていた去年までの自分が信じられない。
加えて、眠りが浅くなったせいで、夢を見ることが日常茶飯事と化していく。
その日は、中学時代のクラスメイトにばかにされて目を覚ました。
こわばった顔で目を覚ますと、枕元にある有線イヤホンつきのスマホに手を伸ばす。
青い光が、朝8時を鮮明に映し出す。
部屋の窓から手が届く範囲にベッドを設置しているので、体を横にしたままカーテンを開けると、白い光が鈍く差し込んでくる。

このとき勢いに任せて体を起こしていれば、未来は変わったのかもしれない。
今度は、この秋貯金を切り崩して買ったデスクトップPCに、ウイルスが侵入。
液晶にホラー映像が映され続けた挙句、パソコンが壊れてしまう夢を見た。
ナイトメアの二本立て。
二度寝すると、たいていこうなる。
またこわばった顔で目を覚ます。
青い光が、午前11時を鮮明に映し出す。
カーテンは空いていたものの、白い光は厚い曇にさえぎられていた。
「この先、ちゃんとした生活ができるのかな」
「前までできてたことがどうしてできなくなっちゃったんだろう」
押し寄せる現実からのお土産は、一旦棚にしまっておこう。

窓を開けて、空気を入れ替える。
布団を畳んで、その上に化学の霧をふりかける。
たったこれだけで、湿気まみれのベッドから、私が寝たという情報は薄くなっていく。
顔を洗って、着替えて、最近調子がいいゲームのデイリーミッションをこなす。
それが済むころに、外から鈍いチャイムの音が聞こえた。
午前において行かれた日は、なぜか充実感がないように思えてしまう。


お昼ご飯を作ろうかと思ったけれど、気分が乗らない。
かといって、常備されているカッブヌードルに手を伸ばす気もなれなかった。
基本家にいるため運動量が少ない、かつ寒くて汗をほとんどかかない冬の時期に、体内に塩分をため込んでしまうと、むくみや高血圧の原因になってしまう。
中途半端な健康意識が、脳裏にちらつく。
棚をあさっていると、この前祖母からもらったコーヒーゼリーの素を発掘した。
1袋で7人分。
いつもなら1袋をボウルで作っておいて、夕食のときに家族で等分して食べている。
けれどこの日は、朝起きれなくて気分が落ちていた。
そして、クリスマスだった。
パッケージの裏にある栄養表示を眺めてみると、1人分でだいたい50キロカロリー、全部食べても350キロカロリー。
このとき心の中にいるサンタ、ではなくサタンがこうささやいた。
「1人で食べちゃいなよ」

作り方は至って簡単。
ボウルに粉末を入れる。
お湯を沸かす。
お湯と素を混ぜる。
冷やして固める。
付属のソースをかける。
たったこれだけ。
ガラスのボウルいっぱいに注がれた、少し茶色交じりの、黒い半透明の物体。
大きいスプーンですくい上げて、一口目を頬張る。
甘くない、コーヒーの独特な味と苦みだけで構成されたゼリーと、そこに絡まった、甘味料のソースが、口の中で弾ける。
可もなく不可もない、シンプルなコーヒーゼリー。
けれど美味しい。
今日はこれを独り占め。

しかし、食べ進めていくと、次第にしんどくなってきた。
甘味料のソースが、口の中にまとわりついてくる。
ゼリーの苦みと、ソースの甘さがいい塩梅に調和していたはずなのに、今は甘ったるいが私の味覚を掌握している。
スプーンが進まくなってきた。
結局、白湯を飲むことで、口の中に溜まる甘みを胃へと流しこんだ。
お腹は満たされていくが、心は思ったよりも満たされなかった。
「背徳感に浸ってやろう」
はじめに抱いていた私の野望は、甘味の力によって、ゼリーのように脆く崩れてしまった。
芥川龍之介の小説『芋粥』の主人公の心情を、108年という時を超えて追体験しているのではないかと思いながら、最後の一口を迎えたのだった。


小さい頃から甘党なのは変わっていないが、今はかつてほど甘味を求めなくなったように思える。
学校から帰ってきて食べるチョコパイも、記念日のショートケーキも。
「もう1個食べれるよ」と言って食べたら注意されただろうから、口に出したことも、実際にやったこともないけれど、ペロッと平らげることはできたはず。
いつからか、紅茶やコーヒーといった「飲み物」がセットになった。
「お菓子を食べるついでに紅茶を飲む」というスタイルがだんだんと染みついていく。
そして今は、飲み物なしでお菓子を食べることはほとんどない。
「紅茶を飲むついでにお菓子を食べている」といっても過言ではないほど、私の中で飲み物とお菓子の価値観がすり替わりつつある。
この思考が芽吹いたのは、身体的な機能が時間と共に落ちていくからだろうか。
「焼肉と揚げ物はいっぱい食べときなさい」
「30になると胃薬は必須アイテム」
こういった言葉をよく聞く。
老いれば老いるほど、胃もたれを起こしやすくなるし、代謝も落ちていく。
若いうちに食べたいものを食べろという、先人が抱いた後悔がパッケージ化され、その上に本人の経験と共感でコーティングされた言葉が、世間に出回っている。
好きなものを好きなだけ食べられる。
確かに、それは幸せなことだ。

しかし、幸せを手にするハードルが低いと、幸せへの感受性も薄れていく。
小学生のころ、やりたいゲームがあってもお小遣いがないのは、いつものことだった。
お年玉や誕生日にもらうお金は親が管理していたので、自分で買うなら半年、それ以上かかってしまう。
なので、誕生日やクリスマスに「プレゼント」としてもらい、それまでは我慢していた。
新しいゲームソフトが出れば親が買ってくれる、そういう友達は子供にとってはキラキラして見える。
学生にとって、数千円の出費は財布に響くけれど「買おうと思えば買える」の範疇。
子供の頃は、プレゼントをもらえる日まで楽しみにしていたし、プレゼントを開けて欲しかったものを手に取るまでも楽しかったし、ゲームで遊ぶことももちろん楽しい。
でも、今ゲームを買ったとしても、に楽しいと思うのは遊んでいるときだけだ。
3倍のワクワクが、幸せが、そこにはあった。


幸せは手に入る。
お金に余裕があれば、大抵はなんとかなる。
けれどお金で交換できるのは、あくまで「幸せにできる可能性の塊」であって、幸せを見出せるのは手にした本人次第であることを忘れてはいけないと思っている。
得たものから「幸せ」を取り出すことが、だんだんと下手になるから。
ゲームに飽きたかつての私は、自分の中でルールを作って遊んでいたのを覚えている。
捕まえたきりの、ボックスの隅っこにいるポケモンをパーティーに加えて、育てて進化させる。
ボム兵だけ、キノコだけといったアイテム縛りで、マリオカートの全コースを走り抜く。
カラカラになっても、手探りで楽しめるやり方を求め、最期の一滴まで幸せを抽出していた。
今はどうだろう。
新しいゲームに手を伸ばすとか、課金するとか。
物量や強さで、幸せをごまかすことしかできなくなってはいないか。
この日食べた、ボウルいっぱいのゼリーも、量を食べることしか頭に入っていなかった。

効率や合理性を考えることで得られる幸せも、もちろんある。
けれど、それらを追い求めるために、油田を転々とするのは、どこか虚しい。
ありふれた幸せを見逃して、気づかなくなって。
そうなってしまうと、幸せになるハードルが上がって、問題ないはずの日々が、もっと生きづらい日々になって、どこかで飢えで息が苦しくなってしまいそうな気がする。
限られた素材から、幸せを抽出する。
自然とそれができれば、この濁った世界のフィルタを洗い流して、少しはきれいな世界が見えるようになるのかもしれない。

その日の夕食に口にした一切れのケーキは、いつもとは違った味がした。




投稿:2024.12.27
最終更新:2025.2.11(一部加筆・修正)




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