【エッセイ】その重さを決めるのは。
「生きる」こと、そして「死ぬ」こと。
人間はこの2つの境界を、多くの時間をかけ、明確にしてきた。
そして、発達とともに2つの選択肢を得てしまった。
1つは、「生きない」という選択肢。
本来、生物は「子孫を残す」という本能が根付いているため、自分と瓜二つのものを複製する、または遺伝子を分け合いっこして純度50%のものを生み出す、そして次の世代へと繋げる。
呼吸と同じ、生物の共通項。
しかし、人は感性を拗らせたあまり、程度の差はあれど「自ら命を立つ」を選択肢として持っていることが寛容されつつある。
コミュニティが形成されていく以上、重荷を背負わされる者があり、身軽で背筋を伸ばしていられる者が出てくることは認めたくはないが出てきてしまう。
そこに大きな圧力がかかれば、前者は背負いきれず、後者は体力がなく挫ける。
古の文献を漁れば、出家をして俗世から離れることを切望する貴族の随筆などいくらでも見つかるだろう。
加えて、清らかに咲き誇る花がある裏で朽ちていった花があるように、伝える媒体とチャンスが少なかっただけで、農民や賤民はかなりの苦汁を強いられてきたはずだ。
かつて「世襲」のため、あるいは「労働力」として、自らの子供を作る動機があったものの、変化を遂げた今のシステムや価値観では、それは逆に重荷になり得る。
子孫繁栄のハードルがグッと上がったからこそ、個々人の「生きがい」や「生きる意味」をより強く問われるようになったのも大きい。
もう一つは、「滅ぼす」選択肢だ。
もちろん、生物は縄張り争いのような、同種での戦いは起こる。
とはいえ小規模、ローカルなものであり、その争いに勝った強い遺伝子が引き継がれていくことになる。
かつての人間もそうだった。
しかし、今はどうだろうか。
核やウイルスといった遺伝子レベルで歪める兵器を作る技術があり、それをポケットからちらつかせることで保たれる均衡がある。
知恵や感性を極めるほどに、遺伝子由来の本能を揉み消し、自らの存在そのものを否定する概念が生まれていく。
そんな探求の矛盾が、今現在、私の周りをうろうろとしている。
そもそも、「命の重み」は平等である。
たとえ比較する対象がどんな生物であっても、それぞれ天秤の左右の皿に乗せれば、天秤は寸分の狂いもなく、平等にそれらを持ち上げてくれる。
どちらも1つの命、それ以上でも以下でもない。
生態学でも、絶滅の危機にある生物や、バランスが崩れた生態系の保護保全をする際、「人間の活動を効率化するうえでその対応が必要かどうか」ではなく、「人間の活動により脅かされる命があってもよいのか」に基づいているようだ。
倫理に近いものが根本にあるように思える。
しかし、実際はどうだろうか。
能力の高さ、人柄、見た目、毒性……人間同士でも、それぞれの個体が対象に持つ価値観は違う。
その「違い」を「合理性」「正当化」といったもので、対象より自身を、あるいは対象の中でより良いものを持ち上げる。
人間は、無意識のうちに天秤の片方を押さえつけて、明確な優劣を付けてしまっている。
そして、この「命の重み」に優劣をつける原因の一つに、「物理的な大きさ」が関与しているのではないだろうか。
たとえば、部屋の中にハエが入ってきたため、それを潰した。
部屋中飛び回られて不快だったから、羽音が耳障りだったから、あたりが挙げられるだろう。
しかし、それなら潰さずとも部屋から追い出すことはできる。
動機としては十分であっても理由とは言い難い。
では仮に、ハエが犬ほどの大きさだったらどうだろうか。
考えただけで寒気がするが、四肢を酷使すればなんとか駆除はできそうだ。
では、自分と同じサイズだったらどうだろうか。
死に物狂いで抵抗することになるだろう。
自分より大きい熊ほどのサイズであったのならば、素手ではどうにかできず、焦りが入り混じる脳で機転を効かせるしかなくなるだろう。
もちろん、有毒か、群れで行動するかどうかという駆け引きもあるが、基本的に一対一の場面では、大きさがアドバンテージになる。
つまり、ハエを潰した理由は、自分の素の力で殺すことができるから殺した、となる。
実際、この大きさの優越は人間同士でも身近に行われている。
身長イジリがまさにそうだ。
特に発達のずれや差異が現れやすい思春期の子供が、他人を攻撃するためのカードとして切られる。
身長、つまり目に見えて能力では補えない「大きさ」を主題に置くことで、彼らは楽に勝つことができる。
そして、最近思ったことが、これはインターネット上のマウントや誹謗中傷にもつながっているのではないか、ということだ。
SNSによってユーザーの年齢層や人間性の違いがあるとはいえ、火種は存在する。
noteも同じく、人が絡むものには必ず熱がある。
熱そのものに良し悪しはない。
ただ、何を燃やすか、そこから始まっていく。
ひとたびそれが焚き上げられれば、数多の否応が焚べられる。
そこには一時の残滓に憑りついた、絶え間ない誹謗中傷もあれば、少し前の「インプレゾンビ」のようにヘイトを集める、炎に寄生するスパムもいる。
それらと言えるほどではないが、ロジックもエシカルも感じられないもの、はたまた言葉の綾でいい気分がしないもの。
深くまで潜れば、そこに反応する輩も一定数いるために、カオスが加速する……闇のどんど焼きが各地で行われている。
コンテンツをただ楽しみたいだけなのに、なぜかわざと視野を狭くしないと楽しめなくなる、というジレンマが出来上がっている。
バズという現象が、キャンプファイヤーではなくただの爆発となりつつある。
彼らのそういった行為には、快不快という感情を、自分らしさが反映された傀儡であるアカウントに言わせている感覚になっている「ほどよい乖離」はもちろん根本にある。
その時、おそらく彼らは手元にあるスマートフォンやパソコンの画面を通じて言葉を紡ぐはずだ。
そこから見える景色は、世界の断片とはいえ、向こう側には人がいる。
もしくはグループや企業といった、多くの人間とそれだけの力が加わっているかもしれない。
しかし、画面越しから見た場合、脳は物理的に小さいと認識してしまう。
「大きさの優越」が働いてしまい、自分の素の力で動かすことができると見込んでしまう。
このように、対象の存在を「画面越しの景色」に投影してしまうことで、自分の優越を誤認識してしまうことが、ネット上の誹謗中傷とそれに準ずる行為を無意識であっても起こしてしまう一つの原因なのではないだろうか。
実際、彼らを批判視しているこの文章と私の考えが適切か、と問われたら、そうだとは言えない。
素材によっては誰かに牙を向けることはある。
とはいえ、ある程度は割り切っている。
石器を砕いて細かくしたところで、それが狩猟採集のための石器であることに変わりはなく、強酸に水を加えて薄めたとしても、それが酸性であることに変わりはない。
どんなに言葉の綾に精神を尽くしたとしても、刺さる人にとっては刺さるだけであって、「好き」があれば対を為す「嫌い」か「興味ない」で均衡が保たれている、それだけの話なのだ。
ただ、私は文章を見た人を傷つけるつもりは一切ない。
文章の暴力性に惹かれたわけではないからだ。
その証明として、文章力を磨く必要がある。
そこで、自分の考えを発信する上で特に気にしているのが、説明だ。
私が他人に対して最も恐れていることは、「正しいものが批判された」ことよりも「拾ってほしい要素を拾われず批判された」ことである。
そのためにも、さらっと読まれたとしてもできるだけ書きたいことが読み手に伝わるように、稚拙な文章でも順序だけはしっかりと決めてから書くことにしている。
そして、彼らのことを積極的にシステムに判断させることにした。
基本、人は正義感があるが、それによって発生する反撃を恐れている。
つまり、彼らのことは「許せない」が「関わりたくはない」存在。
私は私の興味を邪魔されるのが最も厭で、それが次第に興ざめの原因になってしまう。
見てみないふりをするのが一番手っ取り早いが、それではただのいたちごっこ。
今まで「何もしないのが正解」と思っていたが、それで彼らがのうのうと無配慮な発信をしているのは、発信をしている一人としては許せないからだ。
だからこそ、その「許せない」を、個人的に解消するのではなく、誰も傷つかない第三のシステムに委ねてみるようにしている。
人間の行動は本能で決められていて、そこに抗うおうとすると歪みが生じるのだろう。
技術の発展が放物線ならば、人間の進化は直線だ。
今はそこに生じる隙間がよく見える時なのだと思う。
それを理解できたとしても、人の間には埋まらない壁がある。
だからこそ、私は私の持つ刃物を日々手入れし磨かなければならないし、ひそかに他人にも顧みる機会を与えられるような行動をしたい、そう思いながらこうして言葉を紡いでいる。


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