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【エッセイ】2つの鳥籠の中で。

画面の向こうにいるあなたは、どんな人なのだろうか。
「書く」「読む」のどちらにしても、気になってしまう。

特に気になるのが、年齢。
noteに出入りするユーザーは、いわゆる「大人」が多いと思っている。
仕事や育児が安定期になる、20代後半~40代前半の方が多いイメージだ。
ある人はビジネスの延長線として、ある人は人生の備忘録として、ここに文字を遺す。
子育てのことや趣味のことを気楽に書いている人もいれば、命を削って言葉を紡ぎ、人生をかけて書いている人だっている。

そして、私は「大人」になる手前の学生である。
この世界では、私のような年齢層はそこそこもてはやされている印象がある。
「新たな視点が得られるから」
「これからに期待が持てるから」
この辺りの理由があげられそうだ。

私はこの扱いに嫌悪感を抱いていた。
親戚の子供、はたまた自分の子供と照らし合わせるような感覚で読み、「中身がビミョーでもまあ年相応でしょ」と捉えられる。
「年齢」という基準で、内容そのものの評価が揺らいでしまう。
それは、私の求めているものじゃない。
かつての私が年齢のことを中々さらけ出せなかったのも、この考えがあったからだ。

しかし、今はそういった見方をされても「しょうがない」と思っている。
知見も、経験も。「大人」と比べれば少ない。
バイトもしたことないし、ライブやディズニーランドにも行ったことがない。
「ない」だらけの私。
いわば、鳥籠の中の鳥だ。
このごろ思うのは、その知見や経験の少なさが、「いい文章が書けない」に直結しているのではないか、ということだ。
旅行記を書くならば、有名な観光スポットに行って、名産品を食べ、その感想を実際の写真を添えて、思い思いに書く。
商品のレビューであれば、紹介する商品を手にとって、「良い」と「悪い」を確かめたり、似たものと比べて評価する。
たとえに挙げた文章たちが「いい」と思えるのは、ファクトな体験談と、鮮やかなインプレッションがきちんと言語化されているからではないだろうか。

鳥籠の中から出られたとき、いいと思ってもらえる文章が、すんなり書けるのかもしれない。
しかし、今のところ「出たくないな」と思ってしまう。
こうして私は、2つの鳥籠の中で息をしている。


鳥は2つの鳥籠の中で生きていると私は考えている。

1つ目は「個性の鳥籠」である。
鳥一羽が何不自由なく生活できる、小さな鳥籠。
リボンで彩られていたり、植物があったり。
一羽一羽がオリジナリティのある鳥籠の中で生まれ、育っていく。
この鳥籠は、その人の人間性や信念、そして取り巻く環境によって作り上げられる。
つまり「個性の鳥籠」は、私たちを守ってくれるお城であり、私たちを囚われの身にする牢獄でもあるという、まるでバスティーユのような二面性を持ち合わせているのだ。

いつかはここから出ていかなければならない。
しかし、外の世界では、鳥は羽の色や身体の大きさという面でしか見られない。
他人にとっては、彩られた鳥籠も、そこで育ったときの出来事も、軽んじられる。
「個性の鳥籠」は、自己の存在証明としては不十分で、他人に存在を保証できるわけではない。
だからこそ、外に出ることで自分が一羽の鳥であるということを見てもらう必要がある。
これが「大人」としての行動なのかもしれない。

しかし、個性の外側には、もう1つの鳥籠がある。

それは「社会の鳥籠」である。
鳥籠とは言っても、何億何十億もの鳥たちが自由に飛び回れるほどの大きさはあり、お互いを認識することもできる。
ただし、大きいというだけで、地平線の先にはちゃんと限界がある。
そして、この鳥籠は、その時々で大きさが変わってしまう。

心のテトリスにストンとはまるように、腑に落ちた言葉が一つある。

「個」は世界を広げるためにあり、「衆」は世界を制限するためにある。

ここでいう「衆」は社会そのものである。
社会は、法律や条約というルールを定めることで「個」を制限してきた。
もちろん、制限をすることで、犯罪など個が個に危険を及ぼしたり、特定の個に力が集まってしまうことを防ぐことができる。
平和・平等という秩序のためには、「制限」が必ずしも悪いわけではない。
しかし、歴史はこの制限に悩み、苦しんできた。
その結果、力をつけた「個」たちが世界を広げ、「衆」はその世界を妥協し、ときには弾圧する。
この繰り返しによって、制限のラインを書き換えてきた。
つまり、「社会の鳥籠」は大きさを変えることはできても、外に出ることはできない。


ここまで思うことを書いてみたが、評論みが深い文章になってしまったので、ざっくりまとめると、

鳥たちは生まれつき「個性の鳥籠」に入っているが、これは自分の存在を証明できず、自己完結のものである。
この鳥籠を出ると、大きな「社会の鳥籠」が広がっており、鳥たちは存在を認識しあえるが、鳥籠の中から抜け出すことはできず大きさを変えることしかできない。

私たちは、鳥籠の中で生きるしかない。
けれど、「個性の鳥籠」を抜け出した瞬間、鳥たちは能力の高さ、知見の広さ、経験の多さというスタンダードにのっとって見られる。
個性が拾われることがあっても、社会ではあくまで「おまけ」の域を超えない。

大学入試がわかりやすい。
共通テストなんて、限られた時間の中で、いくつかの選択肢から合っているものをたんたんとマークしていけばいい。
二次試験のような「自分で書く」タイプのものも、答えのうち自分が答えやすいものを選んで書いてしまえばいい。
ここでみられているのは、学力だけ。
学力だけ鍛えれば何も困らない。(それが大変)
面接や書類審査があったとしても、基本的な学力を身につけた上で、その人の学ぶ意欲とか、社会的意義を持っているかどうかが聞かれているように思える。

私はこの前、通信制大学の入学試験を受けたのだけれど、最低限の学力と文章力だけを問われているように感じた。
1000文字の課題と、200文字の志望理由。
簡単ではないし、自分なりに時間をかけて取り組んだつもりだが、よっぽど見当違いなことを書かない限り、受かってしまうのではないかというほどあっさりとしていた。
「200字のなかにもっと要素を入れられたなぁ」という不安も、杞憂におわった。


こうして無事(?)大学生になった私は、「個性の鳥籠」の中で今こうしてエッセイを書いている。
だから、少なくとも4年の猶予がある。
鳥籠から出ない、大人にならないでいい時間を選んだ。
怖いから。
いま、この鳥籠の外へ出てしまったら、自分がなくなってしまいそう。
信念が、社会のフィロソフィーに浸食されてしまいそう。
闇堕ちするキャラクターのように、ドロドロとした思考に侵され、生きる意味理由が変わってしまうのは、見るだけでお腹いっぱい。

いくら期限を伸ばしても、その日はやってくる。
私にできることは、時間をかけて信念をアップデートすることだ。
何が正しいのか、何が必要なのか。
学びとコミュニケーションを通じて、かけらを集める。
歴史は、開拓と制限を繰り返してできている。
けれど、根底には少なからず「改善」があったと思う。

1人の「個」としていられるように。
納得できる「大人」になれるように。

1羽の小鳥は、今日も鳥籠の中で外の世界を見つめている。




投稿:2024.10.19
最終更新:2025.2.6(一部加筆・修正)




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