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【エッセイ】ナイトメアに吞まれて。

やっとのことで目を瞑ると、そこには混沌が広がっていた。

流れるように日常を過ごしているうちに「眠れない」が体に染みついていった。
体は疲れていても、心がそれを否定する。
頭が回らない状態では、小さな金属の塊から発せられる、音楽や映像といったコンテンツに、ただ浸ることしかできない。
日付をまたいで、そこから数時間、やっと瞼が重くなり、あらゆる情報が遮断され、「無」へと向かう。
………こうして目が覚めて時計を見ると、もうとっくに社会の歯車は回っている。
「10時に寝て、6時に起きる」
このリズミカルな生活ができていたかつてと今を乖離するかのように、睡眠の質は堕落していく。

そして、その眠りの先に待ち受けているのは、悪夢。
大きなクモが腕を這う夢。
ムカデが群れでなだれ込んでくる夢。
家の中にハチの巣が作られ、無尽蔵に湧き出るヤツらに襲われる夢。
かつてのクラスメイトが群れをなし、バカにされる夢。
仲のいい友達に笑われながら、躊躇なく刺される夢。
家族が突然、血を吐いて帰らぬ人となる夢。
窓の外に広がっているいつもの風景が、一夜の爆発によって炎に包まれ、しまいには灰が積もって、まっさらなキャンパスのように荒廃する夢。
何百段と続く、急な階段を踏み外してしまう夢。

たくさんの悪夢を見る。
眠りが浅くなっているせいで、悪夢にさらされて目を覚ましたものの、布団から出られずまた眠り、再び悪夢にさらされてしまう。
1回の睡眠の中で、悪夢を2本、3本、立て続けに見てしまうこともよくある。
レム睡眠の90分間、私はギャグとサイコホラーが不規則に入り混じった、シリアスでカオスな映画が垂れ流しの劇場に閉じ込められる。
一時期、限界まで起き続けて、倒れるように寝ることができれば、夢を観なくて済むのではないかと思い、それを試してみた。
結果としては、生活リズムの崩壊と、悪夢の量産という、負の循環に呑まれるだけだった。


実際のところ、人が幸せな夢を見ることができるのは、5回に1回らしい。
つまり、見る夢のうち8割は、当人にとってどうでもいい夢、または悪夢ということになる
また、夢をよく見る状態は、ノンレム睡眠の状態を十分に維持できていない。
そのため、睡眠時間が長いにもかかわらず、睡眠の満足度が低い人が多いそうだ。
内向的で苦労性、社会への適応が苦手、過去への執着が強い、といった性格の持ち主ほど、夢を、悪夢を、見る傾向が強くなる。

「私」という人間を客観視すると、悪夢を見やすい性質を持っている、ということになる。
そして今、人間にとって切っても切り離すことはできない「眠る」という行為に、より一層の恐怖心を抱いている。
なぜなら、夢には、実際の体験とは違った「気持ち悪さ」を持っているからだ。


理由は2つある。

1つは、夢を作り出しているのは、紛れもなく私自身であること。
世界観をつくり上げる監督も、ぼやけたレンズで目線を撮影するカメラマンも。
情景や小物、生き物といった舞台装置も。
そして、登場人物も。
全てが私の、無意識の想像の産物。
実在するものを模ったコピーに、私の持つイメージとバイアスがコーティングされて出来ている。
自分がどんなものを、何をされたら「嫌」と認識するのか。
脳はわかりきっている。
自分の痛みを、弱みを、自分自身がよくわかっている。
だからこそ、支離滅裂なストーリーの中に、自分にとっての「嫌」が意識せずともシナリオに組み込まれ、それが上映中に突然垣間見える。
急所を鋭い針でつつかれた感覚に陥るのが、悪夢が持つ独特の気持ち悪さの原因なのだろう。

もう1つは、夢は現実の出来事とは一切関係性がないこと。
夢の中で起こることの大半は、よくよく考えてみれば話の辻褄が合わない。
いきなり隕石が降ってくる、といった不可抗力の押し付けでない限りは。
後々それが予知夢や正夢であったことなど、滅多にない。
悪夢によってどんなに辛くて苦しい体験をしたところで、目を覚ました瞬間、それは「疑似体験」から「曖昧な記憶」に成り下がる。
他人に話そうとしても、うまく言語化できない。
モヤモヤとした気持ちと記憶が入り混じる。
乳濁した鋭利な結晶が、頭の隅っこに刺さって残り、蓄積していく。


とはいえ、悪夢にはどこか充実感がある。
支離滅裂なストーリーであっても、その中に感情が揺れ動く「山場」がある。
時々、夢の世界の方が、現実の世界よりも活き活きしているようにも思えてしまう。
結末がどんなに悲惨で恐怖に満ちバッドエンドでも、一日の半分以上を画面とにらめっこしている生活よりは中身がある。
開くたびに慌ただしく更新される動画を見て、作業のようにゲームのミッションをこなし、余裕ができたら文章を書いてみる。
そんな波風立たない日常よりも、夢の方が刺激がある。

しかし、悪夢がもたらす刺激は、嵐の海のようなもの。
毎日のように荒波にもまれていては、体はボロボロになってしまう。
朝と呼ぶには遅すぎる時間に目が覚めて、カーテンから差し込む鈍い日光を浴びる。
疲労感と、ときどき寝汗が起きた瞬間から体にまとわりついている。
おまけに曖昧な記憶が、頭の中に散らかっている。
なにも見ない代わりに、平穏な日々を続けるのか。
充実した悪夢を見て、憂鬱を積み重ねていくのか。
私は前者でありたい。
けれど、「生きる」を積み重ねていく度、とめどない今の不安と、やるせない過去は蓄積されていく。
脳は無意識のうちにイメージとバイアスを膨らませる。
こうして粗悪な映画が、半永久的につくり出され、脳内劇場で上映される。
映画作品が円盤化されるように、悪夢もパッケージ化されていく。
キリがない。
薬に頼れば解決、ともいかないだろう。
一時的にはよくなるかもしれないが、いくら摂取しても、あれは根本にある思考を抑制することしかできない。
性格上、悪夢を見ることは避けられない。


そこで、悪夢と向き合うために必要なのは「悪夢を見ないようにする」ことではなく「悪夢以上の刺激を見つける」ことではないか、と考えた。
ここでいう「刺激」は、運動や筋トレといった身体的負荷でも、体に有害なものでもなく、自分が興味を持ったコンテンツである。
本でも、アニメでも、ゲームでも、なんでもいい。
自分が少しでも気になったコンテンツに浸って、悪夢がもたらす内のマイナスを、外部のプラスで相殺する。
悪い言い方をすれば、軽く盲目になろう、ということだ。
悪夢から垣間見える「嫌」の解像度も、コンテンツに蔓延る複雑さの解像度も、下げてみる。
とにかく、自分のアンテナが反応したものから目をそらさない。
仮にお金や時間がかかるものならば、できるとこまで突き詰めて、のめりこむかどうか吟味する。
そのほうがコンテンツを楽しく消費できるし、いい「刺激物」になるはずだから。


トラウマ、イメージ、バイアス………記憶がある限り、そこから毒素が抽出され、1つの映画という形で、心を蝕む。
ありきたりな日常が、負の充実感で満たされていく。
だから、別の刺激をあげてみる。
絶え間なく上映される映像から目をそらすことができないのならば、手元に美味しいポップコーンを添えてあげる。
まずはそこから。
悪夢に、映画たちに、吞まれることのないように。

私は今日も、売店で買ったLサイズのポップコーンを抱えて、映画館へ向かう。







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かぐや / Kaguya 私のnoteを読んでくださり、ありがとうございます。 良ければスキやコメント、フォローで応援していただけると嬉しいです。