短編小説 『月に臨む』
とん。
小さな太鼓の音。
とん。
少年は、目を覚まします。
ざあざあ。
ざあざあ。
優しい波の音。
そこは小さな島でした。
知らない景色。
いつからここにいるのか。
自分はどこから来たのか。
少年はなにも覚えていません。
遠くの方まで見渡してみました。
暗く穏やかな水面が、どこまでも続いています。
水面には、いくつもの小さな光が揺れています。
少年は、世界が真っ暗なことに気が付きました。
見上げると、空は真っ黒な幕に覆われていました。
空一面に広がる黒い幕をよく見ると、小さな穴がたくさんあいています。
その穴の一つ一つからは、光がもれています。
その中でいちばん大きな穴は、きれいなまんまるの形をしていて、
真っ暗な世界では、とても明るく見えます。
少年は思いました。
あの幕の向こう側はきっと、
明るくて楽しい世界に違いない。
あのいちばん大きな穴をくぐって、
向こう側に僕は行くんだ。
そう決心した少年の目の前に、
一つの小さな舟があらわれました。
少年は大きな穴を目指して、
舟に乗って旅に出ることにしました。
出発前に、もしも迷ってもこの場所に帰って来られるようにと、
少年は命綱をおなかにくくって、島に結びつけました。
さて、旅の準備は万端です。
少年は舟に乗り込み、元気よく漕ぎ出しました。
舟を漕ぎ続けながら、少年はこの世界を眺めます。
どこを見渡しても、
空と海以外、何もありません。
空を覆う黒い幕の穴がちかちかと光り
静かな海は、空のまねをしています。
遠くまで見ても、空と海の境い目は見えません。
まるでひとつに繋がっているように見えます。
真っ暗な空間の中で、
空の大きな穴の光に薄く照らされて、
少年と舟がぷかぷかと浮いています。
こんなにも暗い世界だけど、
不思議とあたたかくて安心できて、
少年は少しも怖くはありませんでした。
少年がしばらく舟を漕いでいると、
舟がふわっと持ち上がるように揺れました。
驚いた少年は、舟から落ちないようにしゃがみました。
少年が漕いでいないのに、舟はそのまま進んでいます。
どうやら舟は、流れに乗ったようでした。
まるで意思があるように、どんどん進みます。
少年は流れに任せようと思い、
舟に寝転んで空を見上げました。
穏やかな流れに揺られながら、
少年はうとうとと眠り始めました。
すると、どこかから何かの音が聞こえてきて、
少年は目を覚ましました。
少年は音のありかを探しましたが、何も見当たりません。
ふと空を見上げると、音に合わせて黒い幕が動いているように見えました。
どうやらこの音は、空から聞こえていたようです。
よく聞くと、それは音楽でした。
優しい音色。わくわくするリズム。
体も、心も、楽しくなってきます。
少年は聞いているうちに、踊り出したくなりました。
きっと幕の向こう側では、お祭りをしているんだろうな。
きっとみんなで、歌って踊っているんだろうな。
僕も早く一緒に踊りたいな。
少年はうずうずしながら、空の穴を見つめました。
少年がお祭りを想像しているうちに、いつの間にか音楽は止んでいました。
その代わりに、音楽とは違った不思議な音が、空から聞こえてきました。
耳を澄ますと、「ごろごろ」と聞こえます。
お祭りは終わってしまったのかな。
それにしても、これはなんの音だろう?
ごろごろ、ごろごろ、と
くぐもった音が響きます。
不思議な音は、どうやら空の向こう側から聞こえてくるようです。
少年には、その音がまるで誰かを呼んでいるように聞こえました。
その時、少年は自分に名前がないことに気付きました。
もしも誰かが少年を呼ぶ時に、名前がないと困ってしまいます。
お祭りに参加するのも、きっと名前がいると思いました。
そこで少年は、空から響いてくる音から
自分に「ココロ」と名付けました。
よし、これで誰かに会った時に、きちんと名乗れるぞ。
ココロはそう考えると、自分以外に誰もいないこの世界が少しだけ寂しく感じました。
舟は少しずつ穴に近づいていますが、ココロはじれったく思いました。
ココロの体は、島にいた頃よりも少しずつ大きくなっていました。
このまま空の穴を潜り抜けられるのか、少し不安に思いました。
その時、急に舟がぐらっと揺れました。
その揺れはだんだんと大きくなり、波しぶきが上がります。
次第に強い風も吹きつけ始めて、
ココロの体は飛んでいきそうになります。
慌てて舟につかまりました。
波はどんどんと高くなり、
風はどんどんと強くなります。
舟はぐるりぐるりと回り出して、
前も後ろもわかりません。
ココロはとにかく舟から落とされないように、
必死でしがみつきます。
荒波に巻かれながら舟は進み続けて、
突然、辺りがフッと静かになりました。
ココロがぱっと顔を上げると、
波も風もなくなっていました。
安心したココロは、空を見上げました。
しかし、そこには穴はありませんでした。
しまった!見失った!
慌てて辺りを見回して、ココロは驚きました。
よく見ると、上にあるのは空ではなく海で、
穴は上ではなく、舟の前方にありました。
なんとココロの舟は、いつの間にか海を越えて空へと渡っていました。
ここまできたら、穴はもう目の前。
ココロが穴に向かって空を漕ぎ出すと、
空の幕は大きく波を打って、舟は勢いよく進んでいきます。
たくさんの小さな穴から漏れる光の間をすり抜けて、
ココロの舟は大きな穴へと一直線に向かいます。
ついにココロは、穴のそばにたどり着きました。
穴を近くで見てみると
海から見上げた時よりも大きくて
ココロの体がちょうど通れる大きさでした。
あとは、穴に向かって勢いよく飛び込むだけです。
舟の上で立ち上がって、最後の一歩を踏み出そうとしましたが、
途端にココロは不安でいっぱいになりました。
ほんとうに行ってもいいのかな。
もしかしたら、とても怖いところかもしれない。
この世界に、もう戻って来れないかもしれない。
今なら、まだ引き返せるかもしれない。
ココロがそう思った時、おなかに巻き付けた命綱が、とくんと鳴りました。
驚いたココロは、綱をぎゅっと握ります。
綱から手のひらへと、あたたかさが伝わってきます。
そのあたたかさで、ココロはすっかり安心しました。
ここまで運んでくれた舟にお礼とお別れを言って、
ココロは穴に向かって飛びました。
大丈夫。
大丈夫だよ。
さあ。
新しい世界へ。
分娩室に、元気な産声が上がった。
慌ただしかった室内は、安堵の空気に包まれる。
産まれたばかりの命が、母親のそばまで運ばれる。
小さな命を見た母親は、涙を浮かべながら微笑む。
「やっと会えたね、こころ」
(了)
(2026/8/12追記)
ふくさんのこちらの記事を拝見して、当作品で参加させていただきたいと思います。
