随筆(2025/4/16):「今の正義論がほぼ公正と同義になっている理由」と、「その理由はどうなると損なわれるのか」について(1_今の正義がほぼ公正と同義になっている理由)
0.ごあいさつ
また、しばらく数回に分けて、やや長めの記事を載せます。宜しくお願いします。
(ヘッダは、今回のテーマに合わせて言うと「TODOとしての善で、普遍性を持つもののみを、正義とすべきだ」とする哲学者イマヌエル・カントの書籍、『道徳形而上学の基礎づけ』です)
1.正義と公正
1.1.「正義」という語には、社会全体や人々全体に通用する普遍性が求められている
「正義」という語は様々なニュアンスをもって語られます。
ここしばらくの正義論においては、正義とは単なる道徳的な善悪の判断を超え、社会全体の秩序や人々の権利・利益に関わる、より広範で体系的な概念として捉えられています。
つまり?
善と正義は一致しません。
より正確に言うと、正義は善よりさらに条件が増えるのですね。社会全体や人々全体に通用する普遍性が求められています。特殊な個々人や人間関係や集団の話ではないのですね。
この要件を満たしていない場合、「善ではあるが正義ではない」ということがたくさん生じます。
また、人が善の話をすべきときに正義の話をして頓珍漢になったり、逆に正義の話をすべきときに善の話をして頓珍漢になったりもします。
慣れている人は「そうです」といったところでしょうが、割と驚くべき話ですし、慣れていないとまずここでつまづくところです。
1.1.1.優しさは善ではあるが正義でない。なぜか
しばしば、善なる価値の典型である「優しさなどのケア」は、正義として採用されていないことがあります。
これはまずは「親兄弟に似た相手」「仲間に似た相手」「パートナー(候補)に似た相手」「子供に似た相手」、要は「身内に似た相手」に発動しがちで、つまりは特殊な個々人や人間関係や集団の話であり、デフォルトでは普遍性を持たないからです。
人によっては奇異に思うかも知れませんが、普遍性を度外視してケアを続けた場合、これは家父長制に直ちに化けます。
身内に似た相手に甘く、どうでもいい相手に厳しく、身内の中でも(ケアの必要性や贔屓や親密さや資源残存量などの微妙な匙加減に基づく)差別的取扱いのグラデーションが生じる。よくあるあれです。
「ケアは美しく、家父長制は醜いから、両者がつながっている訳がない」
と言いたいかも知れませんが、「贔屓」という由来を共に持つもの同士であるし、ケアから家父長制に移行するメカニズムも明らかに存在します。
というより、パートナー(候補)や子供との人間関係が生じてしばらくすると
「かわいい身内が一番大事であり、そのために頑張る。
かわいくないその他はどう苦しもうと、他人なので割とどうでもいいし、リソースを割く気にはなれない。
というより、ヘンなやつらは一切こちらに関わって来てほしくないし、見えるところにいてほしくないし、見えないところにすっこんでいてほしいし、それが我々がそいつらに地下社会や地下産業への移行を余儀なくするという話であるのなら、残念ながら当然そいつらは生けるリスクだから、地下社会や地下産業ごと消滅して欲しいんだよな。
え? 優しくない酷いことを言っている? 他人だぞ? どうでもいいに決まってるが?
ちなみに、身内の中でも良く見えるかわいい相手と、悪く見えるかわいくない相手がいて、良い相手と悪い相手では手をかける熱量はおのずと異なるのは当たり前である。
何かしてくれても、感謝しなくていい相手だから感謝しなくていい、というのは、相当悪い態度であり、そんなやつに何で目をかけてやらなきゃならんのか理解に苦しむ。
家族とは感謝しなくていい相手である、というのをまず直ちにやめろ。そんなもんガミガミ言うに決まってるだろう。
言わなくなったとしたら、それは見捨てた時だ。当然、こちらも感謝せんし、そもそもまともに扱わんよ。
感謝してる? 上っ面で言えば済むと思うな。今までの長い長い借りを返せ。ノシつけて返す勢いで心底感謝しろ。こちらが心底足りたと思えるようになったら、初めてまともに扱ってやる。んで、そういう観点から鑑みて、ぶっちゃけた話、全然足りてねえよ。馬鹿にしてんのか?」
というのはかなりよくあることですし、しばしば正当化されています。
そしてこのようなマインドでなければ関係の維持や子育てはかなり難しくなってくるでしょう。特別大事にしていない(つまり、贔屓していない)パートナーや子供と、関係を維持できていて当然だと疑わない、などという甘い話はない。
そして、何と彼らはしばしば文句なしに優しいパートナー、優しい親です。そこに普遍性はないとしても、です。
彼らのやっていることそのものは、正義においては正当化されないとしても、善においては基本的には正当化されている。正義とか善とかはさておいて、人間としてそういう話を無視しない方がいい、ということは言えるでしょう。
***
で、もしケアを普遍的に万人に行うには、「公正に」ケアをしなければならない。
つまり、「公正」という話に重点が乗ってしまいます。
ということで、「ケア」ではなく「公正」が、正義論では扱われる訳です。
カントが典型的ですが、正義論は普遍性を志向するため、特殊ケースを扱うのを避ける傾向があります。
これはつまりは正義論の限界でもあり、しばしば批判されるところでもあります。
1.1.2.悪と戦うことも、善ではあるが正義ではない。なぜか
かなり多くの場合、ヒーローものの基本は「勧善懲悪」、つまりは「悪と戦うこと」です。
かなりよくある話として、(防衛)戦争ものや復讐ものがあります。
守りたいものは守り抜きたいし、喪われたものは償わせたい。
守ることから出発しているので、実はこれらはケアの副産物です。
この限りにおいて、これらが善であることはもちろんです。
***
そして、シビアな話をします。
戦争には関係してくるファクターが膨大にあり、そこで善悪はあまり寄与しません(戦争の正当性に関する形で語られがちですし、正当と認められようが、世界の多数が支持してくれる訳ではないことは、皆様も旧ソ連圏や中東で見ているところでしょう。集団安全保障の成り行き次第では第三次世界大戦もあり得ない話ではないので、かなり多くの関係者は万事につけてシビアに考えているはずです)。
復讐には復讐者による私刑(リンチ)や拷問がつきものであり(何なら復讐もののトロですらあるでしょう)、さらには報復合戦もつきものであり、結果として治安は一気に悪くなり、守りたいものが喪われまくるようになります。
どうにも、「悪と戦うこと」が普遍的に良く効いているようには思えません。
何なら悪く効きがちです。
これでは正義とは言えない。
実際にこれらを解決しているのは、外交担当省庁とか警察とか、あとは復讐や私刑や拷問を禁じた近代刑法の立法者たちです。
彼らは別段、ヒーローもののヒーローではありません。
そういう訳で、「抗戦すべき侵略勢力」「復讐すべき相手」が出て来る場合、それは外交担当省庁や警察や近代刑法がそもそも圧倒的な力を持ちえない場合(群雄割拠の戦国時代など)か、「抗戦すべき侵略勢力」「復讐すべき相手」が外交担当省庁や警察や近代刑法では対処できない何らかの法外な存在であるか(フィクションなど)のいずれかになりがちです。
***
そうでない人達は警察ものや裁判ものを見ているし、これらは大人気です。『相棒』シリーズとか、私の母は大好きです。
「その捜査! 駄目! それがアリなら何でもできるじゃねーか! 治安維持のために難癖付けて市民を拉致して刑務所の壁際に並べて射殺するタイプの国の警察とそんな変わらんくなるんだぞ!? 分かっているのか!?」
くらいのことを、非警察系公務員は思ってしまうのですが…
***
そうそう、「抗戦すべき侵略勢力」「復讐すべき相手」が出て来る場合として、外交担当省庁や警察や近代刑法が無能または邪悪だから、というものあるのでした。
こうなると、基本的には
「目の前の問題を解決するために脅迫や暴力を伴う横紙破りをする」
か、
「無能邪悪な公的機関の体質改善」
ということになります。
前者はある種の任侠団体や政治運動組織の、後者はある種の圧力団体やロビイストの話になります。
実際に効果もありますが、
「厳格な制度を、こちらにとって都合の良いように、穴だらけにしつつハッキングする」
ということが横行する原因にもなります。
選挙と同じくらい、陳情は大事なのですが、まあ当然ながら汚職が横行する理由にもなりますね。陳情者が政治家に利益をもたらすと、政治家がノシつけて利益誘導してくれることが見込まれるのなら、それは賄賂は横行するでしょう。
そして、いい目に合わせてくれた相手を贔屓する、というのは、公正とは言えない訳です。
というか、国内外問わず、よく見ますし、だから法で規制されるし、基準により法で規制されていない箇所についても、基準と関係なく規制が強められ、基準の方が変えられるのですね。よくある話です。
***
と、いうことで、優しさも、悪と戦うことも、善ではあるでしょうが、正義として一般化できません。
一般化するには、別の何かをもって普遍性を持たせねばならない、という問題が生じて来る訳です。
1.2.「公正」という語には、人々にとって適正か、というニュアンスがある
さて、今まで何度か「公正」ということを書いてきましたが、「公正」という語も様々なニュアンスをもって語られます。
***
「同一条件同一処遇」
とか、
「人々が投入に対する報酬の比をすべて一定であると感じられること」
とか、そういう話を思い浮かべる方もいらっしゃるかも知れません。
ただ、それは衡平(equity)という、微妙に別の概念の話になってきます。
分配において、公正という場合、
「得られた結果や分配が、人々の貢献や必要性に応じて適切であること」
というところが強調されることが多いです。
比率の一定というタイプの平等が実現されていると、それは確かに適切であるように思えるので、分配における衡平は分配における公正の実現の一形態ということになります。
しかし、重点の置き場が「あるタイプの平等」か「適切」かというところが大きな違いです。
手段と目的とで、見ているところが違ってくる、とも言えるでしょう。
***
「適切」であるためには、「衡平」であるだけではなく、ざっと考えても「参入障壁がないタイプの平等」「透明性」「客観的事実に基づいていること」「理に適っていること」などが求められます。
これらは雑多であるように見えますが、しばらく見ているうちに、ある性質が期待されていることが分かってきます。
何か?
「普遍性」です。
衡平とは、分配における投入に対する報酬の比が、普遍性を持ちうるものかであり。
参入障壁のなさは、物事に関わり合いになれる権利の普遍性であり。
透明性は、アクセスできる情報や手段に隠蔽や非対称性のない普遍性であり。
客観性は普遍性であり。
合理性も普遍性である。
そういうところが、公正には求められている。
1.3.普遍性という点で、正義と公正は同じ路線であり、だからひとまとめに扱われる
正義は善なる価値に対して普遍性を求めており、それを善なる価値が実現しようとおもったら、結局は公正とのミックスにならざるを得ません。
公正が志向しているのは、資源分配・社会参加・制度利用などにおける普遍性を実現することです。だから、普遍性を求める正義は、普遍性を求める公正を、求めているのです。
1.4.普遍的な正義を本当に突き詰めると、「人間、即ち全ての個人の尊厳」ということになる
普遍的な正義を本当に突き詰めると、どういうことが浮かび上がって来るか。
ここにおいて、さしあたり、普遍的な正義は、人間社会における人間全般のためのものであるとします。
特殊な誰かを排斥してよい理由を探すと、それで得られるのは、人間社会で主導権を握っている人たちの常識と価値観、つまりは世間の空気だけです。
主導権を握れていない、排斥される特殊な人達は、世間の空気に対して何の敬意も払わなくなる。当たり前で、彼らは世間のことなんか知ったこっちゃないのだし、彼らを排斥して関係を断ったのは世間の方だからです。じゃあ彼らは世間に何の遠慮もしない。世間はこれをリスクとして、常日頃大きな不安を抱えて暮らさなければならなくなる。これは世間の空気ということの、非常に重大な脆弱性です。
だから、主導権や特殊な誰かの排斥という話は一切度外視した、世間の空気と区別される、普遍的な人間社会における人間全般の正義が、やはり必要になってくるのです。
***
そうなると、期待されるのは、
「あらゆる人間が人間らしく生きていくことを権利として保証され、それを脅かされない」
という話になります。
生命、自由、財産、健康に関する不可譲の権利、いわゆる「自然権」とか、生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利、いわゆる「幸福追求権」とかの語で扱われる領域です。
普遍性と人間性を強調する場合、「人間、即ち全ての個人の尊厳」という言い方が一番近くなるのでしょうか。
ここが基本的人権の出発点であり、またおそらくは正義や公正の出発点ということになります。
では、全ての個人の尊厳がどう展開して、基本的人権や正義や公正が生じていくのか。
それを、次回考えてみたいと思います。
(続く)
いいなと思ったら応援しよう!
応援下さいまして、誠に有難うございます! 皆様のご厚志・ご祝儀は、新しい記事や自作wikiや自作小説用のための、科学啓蒙書などの資料を購入する際に、大事に使わせて頂きます。