通訳現場の「あたりまえ」は、本当に「あたりまえ」ですか? 手話通訳者が考えたい略称・専門用語との付き合い方
手話通訳者の皆さん、日々の現場、本当にお疲れ様です。
私たちは、病院、教育機関、行政、企業の会議、講演会など、実に多岐にわたる場面で、情報を「橋渡し」する重責を担っています。その中で、ふと立ち止まって考えてしまうことはありませんか?
「え、この略称、みんな知ってる前提なの?」
まさに、今回のテーマはこれです。通訳の現場で、話し手(または提供者側)が、「あなた(通訳者)は当然知っているよね」「この業界では一般常識だよね」という雰囲気で、略称や専門用語を繰り出してきたとき、一瞬ひるんでしまう、あるいはモヤモヤとした気持ちを抱える。これは、手話通訳者にとって「あるある」な体験かもしれません。
そして、「精通していない自分が悪いのか」と自責の念に駆られてしまうこともあるかもしれません。しかし、本当にそうでしょうか? その「あたりまえ」は、私たちが思う以上に限定的な世界のものではないか? 今回は、AIの助けも借りながら、この略称や専門用語の「一般性」について深く掘り下げ、通訳者としての心構えや、より良いコミュニケーションのための視点を探ります。
略称が「一般化」するまでの道のりを考える
まず、私たちが「一般常識」として日常的に使っている略称や短縮語が、いかに時間をかけて社会に浸透してきたかを見てみましょう。GoogleのAIであるGemini君に挙げてもらったリストは、その良い例です。
略称正式名称 (または略す前の言葉)浸透の背景
・パソコン:パーソナルコンピュータ (Personal Computer)「PC」という略称もありますが、日本語として独自に定着。技術の普及とともに浸透。
・アルミ:アルミニウム (Aluminium)日常会話、工業分野で正式名称より頻繁に使われ、音の短縮が自然に受け入れられた。
・スマホ:スマートフォン (Smart Phone)携帯電話の進化に伴い、機能とデバイスそのものの名称として短期間で爆発的に普及。
・ATM:現金自動預け払い機 (Automated Teller Machine)英語の頭文字で、金融サービスとともに日本社会に不可欠な存在として定着。
・IT:情報技術 (Information Technology)現代社会の基盤技術となり、専門分野を超えてビジネス・教育で必須のキーワード化。
・DNA:デオキシリボ核酸 (Deoxyribonucleic Acid)生物学の基本用語として、教育を通じて広く認知され、メディアでも頻出。
・レーザー:誘導放出放射線の光増幅 (Light Amplification by Stimulated Emission of Radiation)頭文字を繋げたアクロニムが、もはや一つの「モノ」の名称として定着(単なる略称を超えた一般名詞化)。
・NATO/UNESCO:国際機関の正式名称国際的なニュースを通じて、固有名詞として略称がそのまま世界中で使用される。
・プリクラ:プリント倶楽部(商標)特定の商標が、その種のサービス全体を指す一般名称として普及(商標の普通名称化)。
これらの例からわかるのは、略称が「あたりまえ」になるまでには、
①時間の経過による認知、
②技術やサービスの爆発的な普及、
③メディアでの露出、
④教育現場での使用など、
複合的な要因が関わっているということです。
多くの略称は、一般化するまでに、相当の「時間」と「普及の努力」を要しているのです。
つまり、ある特定の業界や企業内で生まれたばかりの略称、あるいはごく一部の専門家だけが使う略称は、この「一般化のハードル」を遥かに超えられていない状態にあると言えます。
専門業界の「あたりまえ」は、どこまで通用するのか?
次に、さらに狭い専門分野で使われる略称について考えてみましょう。
リハビリテーションの世界を例にとります。
PT: 理学療法士 (Physical Therapist)
OT: 作業療法士 (Occupational Therapist)
ST: 言語聴覚士 (Speech-Language-Hearing Therapist)
これらの略称は、リハビリテーションに関わる専門家にとっては「知って当然」の、非常に一般的な言葉でしょう。しかし、一歩その世界から外に出てみれば、どうでしょうか?
医療やリハビリを受けるときに、専門家のこの人たちは患者に「PTの荒川です」なんて自己紹介しないでしょう。私はそのような自己紹介を受けたことはありません。
まさにこの指摘が重要です。専門家は、一般の人(患者さんや家族)を前にしたとき、「PTの荒川です」ではなく、「今から担当させていただきます、理学療法士の荒川です」と名乗るのが一般的です。
なぜなら、彼らは知っているからです。
専門家は知って当然。
一般人は知らない人が多い。
この二つの認識が、彼らに「理学療法士」という正式名称(またはより丁寧な名称)を使わせるのです。
相手の認識に配慮して言葉を投げかける。
これが、コミュニケーションの基本であり、突き詰めて言えば「優しさ」です。自分の「あたりまえ」を通すなら、相手の「あたりまえ」はどうなるのか? その配慮が欠けたとき、コミュニケーションは成立せず、軋轢を生みます。
「業界内の常識」を異分野に持ち込むことの危険性
この「あたりまえの押し付け」は、通訳現場で頻繁に遭遇するシチュエーションです。手話通訳者は、その場では「専門家」ではなく「伝達のプロ」です。
企業戦士のAさんと喫茶店で働くB子さんのデートの例を思い出してください。
デート中にAさんは自分の仕事について語りだす「SEがMTBFを上げられるかが課題なんだよ。4Pや4Cを考えていかないとね。はっはっは」
Aさんが楽しそうに語っている内容は、SE(システムエンジニア)の世界、あるいはマーケティングの世界では「あたりまえ」の課題やフレームワークかもしれません。
MTBF: 平均故障間隔
4P/4C: マーケティングミックスのフレームワーク
しかし、その「あたりまえ」を、畑違いのB子さんにぶつけることは、コミュニケーションではなく、ただの「業界内常識の開陳」です。結果として、B子さんは「この人は自分の世界のことしか考えていない」と感じ、お付き合いを解消するかもしれません。
「IT関連のあたりまえをリハビリの世界の人にぶつけてもいいのか?」
手話通訳の現場は、まさにこの「異業種交流」「異文化交流」の連続です。
企業内研修など、業界内・企業内の聴衆が対象であれば、略称は「共通言語」として問題なく通用するでしょう。
しかし、一般向けの講演会、行政の相談窓口、患者への説明など、異業種・一般の聴衆が対象の場合、その略称は「専門用語」として機能し、時に聴衆を置き去りにします。
私たちは、その場にいる聴覚障害者が、話されている内容の「業界内」に属しているか、それとも「一般」の立場にいるのかを瞬時に見極める必要があります。さらに言えば、話し手が、聴覚障害者に対し、その略称が「一般常識」として通用すると誤解している可能性も考慮しなければなりません。
通訳者としてできること:事前の準備と現場での判断
手話通訳者は、宗教と商売の場以外は、あらゆる場所へ派遣されます。だからこそ、「必要な知識は事前に調べる」という姿勢は、プロとして当然のことです。
通訳現場で略称が飛び交う状況に直面したとき、私たちが取るべき姿勢は以下の通りです。
事前の準備:
通訳案件の情報(依頼主、テーマ、参加者の属性)から、予想される専門用語や略称を徹底的にリストアップし、正式名称、定義、手話表現を確認する。
略称が多用されそうな場合は、主催者や情報提供者に「一般の方も参加されますか? その場合、略称ではなく正式名称も添えていただけますか?」と事前に打診することも、プロの責任です。
現場での判断と対応:
略称が出た瞬間、それが「一般化している略称」(例:IT、ATM)か、「業界内略称」(例:PT、MTBF、KGI)かを瞬時に判断します。
業界内略称が出た場合、聴覚障害者の理解度や現場の空気を見て、可能であれば手話で「(正式名称)の略」という情報を付加したり、文脈に応じて「正式名称の手話」で通訳するよう努めます。
ただし、通訳の流れを止めることはできないため、基本的には「話し手の言葉」を忠実に伝えるのが原則です。その上で、情報保障の観点から、提供された情報が「不十分」だと感じた場合は、通訳の役割を超えて、休憩時間などに主催者に正式名称の使用を促すことも、重要な役割です。
それを誰にでも当然のように要求してしまうのはやりすぎであり、間違いだと思います
この言葉は、私たち通訳者が、情報提供者(話し手)に対して抱く静かなメッセージです。
私たち通訳者は「調べる努力」を惜しみません。しかし、情報を提供する側も、受け手(聴覚障害者を含む参加者全員)の認識レベルに配慮する「優しさ」と「プロ意識」が必要です。
略称・専門用語との付き合い方は、手話通訳者にとって永遠の課題です。自分の専門性を過信せず、常に相手の立場に立ち、最も伝わりやすい言葉を選ぶ。そして、話し手がその配慮を欠いたとき、その情報格差を埋めるために何ができるかを考える。
それこそが、情報保障の最前線に立つ私たちの、最も重要な「あたりまえ」ではないでしょうか。
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