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『窓辺のハル』を読んで、初めてのうさぎを思い出した

私が身近な死に触れたのは約十年前。年月が経ち思い出すことも減ってきていたのだが、『窓辺のハル』を読み、記憶が蘇ってきた。

当時、我が家ではうさぎを飼っていた。ホーランド・ロップという垂れ耳のうさぎである。妻は実家で犬を飼っていたが、私の実家ではペットを飼ったことがなかったので、私にとってはこの子が初めてのペットだった。

うさぎは犬や猫ほど声帯が発達していないため、声を出して鳴くことはない。だが鼻や喉をならしたり、足ダンをするので、何を主張しているのかは何となく分かったりする(もちろん分からないときもある)

非常におとなしく人懐っこい性格だったので私も妻も可愛がっていて、しばらくするとひとりは寂しいから新しくお迎えする?という流れになった。ネザーランド・ドワーフを新たに迎えた。その初日、「◯◯ちゃんだよ〜」とお互いを近づけたところ、ホーランド・ロップの子はネザーランド・ドワーフに飛びかかった。今思えば初日になんてことをしたんだと思うが、私たちは無知だった。

家が狭かったこともあり、二匹はそれぞれのケージ以外では同じ場を共有せざるを得ず、顔を合わせると喧嘩になった。私たち人間は二匹がじゃれあう姿を勝手に想像していたのだが、互いにメスで縄張り争いが起こったのだ。特にうちのネザーは警戒心が強く、私たちが近づくのも嫌がった。どちらかのケージを開けている間はもう片方のケージを閉めるようにしていた。

ホーランド・ロップの子が亡くなったのは急だった。何が原因だったのか、確か毛球症だったと思うが、残念ながら正確なところはもう思い出せない。記録とか日記をつけていれば良かったなあとつくづく思う。その時に感じたことや実際にやったことなどは、もはや思い出せなくなっている。

私が鮮明に覚えているのは最後の日、妻からの連絡で急いで仕事から帰り、最後の瞬間には間に合ったということ。妻に抱っこされたままぐったりとしていたこと。しんどいね、大丈夫だよ、ここにいるよ、一緒にいるよ、と繰り返し声をかけながらさすりながら、その夜を過ごしたということ。鳴かないうさぎの最後の悲鳴を聞いたこと。その瞬間、涙が溢れ出て止まらなくなったこと。今は涙もろくて昨日も『博士の愛した数式』を読んで泣いたし今日もこの記事を書きながら泣いていたのだが、当時の私は涙だけは流すまいと心に決めていた人間である。そんな私が人前(妻の前)で泣いた。それだけ思いがこみ上げてきていたのだ。

本を読んでいると時折「断末魔」という表現を見かける。

私の祖父と父はもう亡くなってしまったのだが、二人とも亡くなる間際には痛みに耐えきれず祖母や母に暴言を吐き、悲鳴のような叫びのような声をあげたそうだ。穏やかでおよそ暴言とは程遠い位置にいる二人がそうなのだから、死の間際とは一体どれほどの苦痛なのだろうと自分の死に際を想像すると怖くなるのだが、これは母から聞いた話で、その場にはいなかったので想像しかできない。「断末魔」という表現を見かけると、私は祖父や父よりもあの子の悲鳴を思い出す。

うさぎたちの話をこれまでほとんど書かなかったのは、私たちの飼い方があまりにも無知だったからだ。批判を恐れて書けなかったのだ。言語によるコミュニケーションがとれるわけではないため、そこには飼い主の主観も存分に入る。飼い始めた当初にうさぎに関する知識があったかといえば全くなく、専門家から見ればやらかしていることは沢山あっただろう。あるいは今なら虐待と言われるようなこともやっていたかもしれない。

動物をペットとして飼う、という行為自体が人間の傲慢さだと感じることもある。それはおそらく子どもの頃に私の家にペットがいなかったことが大きいのだろう。「家族の一員」という枠に含めて良いのか戸惑うのだ。そういうことは理屈じゃないと分かっていても、頭で考えてしまうのだ。「無責任に飼うなんてとんでもない奴だ」なんて言われたらすみませんとしか言いようがない。ただ、我が家に関していえばこの子は必要な存在であった。特に妻にとって必要な時期であり、私ではどうにもできない時間、この子は妻のそばにいることで支えてくれていた。この子は間違いなく家族の一員だった。

主観でしかないが、ホーランド・ロップの子がいなくなってからのネザーは少し寂しそうに見えた。しばらくしてやはり新しくお迎えしようかと妻と話し、ペットショップに出かけた。そこには白と茶色のまだら模様のホーランド・ロップがいた。その子はもう体が大きく、私たちが来たときには後ろを向いていて尻を突き出していた。ん?といった様子でこちらを振り向いたとき、目が合った。最初の子もネザーもそうだが、だいたい直感で選んでいる。特にこの子はもう体が大きいのに小さなケージに入れられたままで、私たちはむしろペットショップに対して虐待ではないか、私たちのほうがまだ大切にできると使命感すら覚えた。

やはり家が狭いのでネザーと新しいホーランド・ロップは縄張り争いをしてしまったのだが、最初の子が攻撃的だったのとは違い、新しいホーランド・ロップは「かまってかまって〜」とネザーに絡みにいく感じだった。うちのネザーは孤高のうさぎだったので、「来んなよウゼえな」といった様子で逃げたり威嚇したりしていた。

そんな二匹だったが、引っ越しをして新しい家に住みだすと今度はいちゃいちゃし始めた。多少広くなったことで縄張り争いが起こらなくなったのだ。ネザーが年を取ってきたのもあり、若いホーランド・ロップのかまってかまってに「はいはい」と身を任せているようでもあった。二匹で身を寄せ合って寝ていることもしばしばあった。

それから数年いちゃいちゃしていた二匹だったが、ホーランド・ロップが先に亡くなり、その数ヶ月後にネザーも亡くなった。最初の子とは違い、ネザーは平均寿命を超えていたし、ホーランド・ロップも平均寿命の期間ではあった。新しい家ではいちゃいちゃしていたし、亡くなる前には前兆があったので私も妻も心の準備が出来たうえで最後を迎えることが出来た。二匹が我が家で幸せだったのかはやはり分からないが、少なくとも私と妻は「私たちの家に来てくれてありがとう」「私たちと一緒にいてくれてありがとう」という気持ちで過ごした。二匹も間違いなく家族の一員であったし、私と妻の心の拠り所であった。

私の話はここまでだ。


さて、『窓辺のハル』は著者のへっけさんのエッセイ本だ。腎臓病で亡くした愛猫ハルとの最後の日々と後悔が綴られている。もう会えないのは受け入れるしかない。でも絶対に忘れたくはない。そんな思いで書かれている(文学フリマ東京39WEBカタログより)

今年の2月にnoteで投稿されていたものを加筆修正し、本にされたものだ。その本は文学フリマ東京39で彩ふ読書会ブースで頒布した。

私はnoteに投稿された時点で一度読んでいたのだが、実はnoteに投稿された時には「スキ!」のリアクションをするだけで、コメントを入れることは出来なかった。したくても出来なかったのだ。愛猫との別れはとてもセンシティブで、猫を飼った経験がない私には浅いコメントしか出来そうになかった。そして私とへっけさんの関係性はそのようなコメントを送るような浅いものではないなと思ったので、「スキ!」をして読んだよと意思表明するだけにとどめたのであった。今回このように感想のような文章を書くことは非常に悩んだのだが、やはり読んで感じたことがあるし実は泣いてしまったところもあったので、率直な感想を書いていこうと思う。課題本読書会のときもそうだが、何か違う点があっても「そういう風に感じたんだな」とさらりと流していただけたら幸いである。言い訳が長くなってしまったが、先に進んでいこう。

note版と加筆修正版の具体的にどの箇所が、というところまではチェックできていないが、加筆修正版はnoteの時よりもより読みやすくなっているし、note版にはない「ハルと別れてから約一年後」のことも描かれている。

noteで読むのも良いが、加筆修正版にはまた違った味わいがある。紙の本として形になっているということは、常に持ち主に寄り添ってくれるということである。ふとしたときに本棚から取り出せるというのが一番大きい。無論、ふとしたときにnoteでも読もうと思えば読めるのだが、色んなノイズに惑わされることなく手に取ったら読むという行為に及べる紙の本バージョンを、『窓辺のハル』に関してはおすすめしたい。そういう寄り添い方がこの本に関しては適した距離感だと思えるからだ。

実際、私はパソコン作業をする机の前にある本棚に『窓辺のハル』を置いていた。考え事をしているときはその本棚を眺めるのが私のルーティンなのだが、そこで表紙のハルと目が合う。じっと見つめられているように感じる。猫を飼ったことはないので比べる対象を持たないのだが、ハルの非常に透き通った綺麗な目に吸い寄せられる。じっと見つめていたくなるイケメンである。何かを問いかけられているようにも思えるし、私自身がハルの目を通して鏡のように自分自身に何かを問いかけているのかもしれない。個人的には裏表紙も好きだ。

この本は、同じように愛猫を亡くされた方に寄り添ってくれる本である。だがそれだけではない。少し範囲を広げて考えてみると、私のように身近な死を経験した方にも寄り添ってくれる本である。へっけさんの経験した日々と後悔を通して、読者も自身の経験と照らし合わせる。身近な死を経験された人にとって、それはものすごく支えになる。そんな本だ。

本の内容としてストレートに響くのは上に書いたような方々にはなるが、それだけではない。むしろ今まさにペットを飼っている人にも読んでほしい本だ。

飼っているということは、考えないようにしていても、いずれはその日が来るということだ。いやいやそんなん考えたくない!と思う人はもちろんいるだろう。だが、その日を一度意識してみることで、今一緒にいるという日々の尊さを強く感じることが出来る。たとえば自分自身が疲れているとき、冷たくあしらってしまったことはないだろうか。無視してしまったことはないだろうか(私はある……めっちゃある……)そんなときにでも、ペットたちは変わらず飼い主に接してきてくれる。ああ、ごめんね、と反省する。今この瞬間を大切にしようと思ったりする。当たり前の日々が当たり前だと感じてしまったら、ただただ時が過ぎていくばかりだが、そうではないのだと気づいたとき、今そこにいる存在やあらゆるものから尊さを感じることができる。

そんな風に思うのは、最近我が家で犬を飼い始めたからである。妻が実家で飼っていたこともあり、犬を飼いたいという思いが前々からあったのだ。うさぎとは違って抱っこもできるし「かまってかまって~」がすごいので、私は戸惑っている。私だけ手を甘噛みされるという状況がずっと続いていて、色々調べて対処してみてはいるのだが、どうにも噛まれる。散歩に行ったとき、他の犬と遭遇したときにどういう対応をすれば良いのかも悩むところである。割りと悩みの種がつきまとっている感じなのだが、まあ多分数年後にはこういうことも一つ一つ思い出として残るのだろうなあなんて思う。

どれだけ愛情を注いでいたとしても「あの時ああしていれば」なんて後悔の念は生まれるものなのだろう。私の話に戻って恐縮だが、上に書いた初めてのホーランド・ロップの子に対しても、ネザーに対しても、三番目のホーランド・ロップに対しても、「あの時ああしていれば」と思うことは沢山ある。著者のへっけさんも『窓辺のハル』の中でハルに対しての後悔を綴っている。その後悔を次に活かそうなんて考えるのはずっと先の話で、今まさに後悔と向き合っている人に対して他人がかける言葉でもない。ただ、その後悔を本という形にして綴ってくれているからこそ、読者としては救いとなる。

『窓辺のハル』は、読者自身の身の回りのことに置き換えて読めてしまうエッセイだ。それは、それだけ著者のへっけさんのハルに対する愛情が読み取れるからである。私はこの記事を書きながら泣き、『窓辺のハル』を読んで泣いていた。今日だけで2回も泣いている。どうにも涙もろい。

繰り返すが、noteでも読める。

だが、この話は紙の本で手にとってほしい。

もし今はまだタイミングではなかったとしても、いつか寄り添ってくれるときが来る。そんな本なのだ。

何だか本の最後のページにあるような解説風になってしまったが、この記事を読んで「窓辺のハル読んでみようかな」と思ってくれた人が一人でもいたなら幸いである。

余談になるが、彩ふ読書会が文学フリマ東京39に出店できたのは、へっけさんからの提案によるものである。私自身は文学フリマへの出店を今後どうするか悩んでいたところだったので、へっけさんからの連絡がなければ出店はしていなかった。私が不在という状況で出店するという方法は実現しなかった。出店がなければ『窓辺のハル』や『「彩ふ読書会」主催者に聞く20の質問』が紙の本になることもなかった。今後どうなるかはまだ分からないが、へっけさんは間違いなく一つの道筋を作ってくれた。

文学フリマは、作り手が「自らが〈文学〉と信じるもの」を自らの手で作品を販売する、文学作品展示即売会である(公式サイトより)。

万人受けだとか、大勢に売れるかどうかを狙って本を作る必要はない場なのだ。そういった点において、『窓辺のハル』も『「彩ふ読書会」主催者に聞く20の質問』もターゲット層がしっかりとしているので、刺さる人に刺さる本であると思う。出店者数が増えて見つけられないという事態はあるかもしれないが、こういった本が作れる場を作ってくれている文学フリマにも感謝したい。

へっけさん。改めて、文学フリマ東京39の出店、お疲れ様でした!!

関西の方にも手にとってもらえるよう取り置きをお願いしている。文学フリマ大阪に出店するかどうかはまだ分からないし、それだと9月になってしまうので、早めに入手したい方は私にご連絡を。

では。

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ののの@彩ふ文芸部(彩ふ読書会) ここまでお読みいただきありがとうございます。宜しければご支援よろしくお願いいたします!

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