《創作大賞2024・恋愛小説部門》「Hydrangea」第4章 ひとひらの葉 第12話 誰なんだ? 第13話 覚えておいてね
第4章 ひとひらの葉
第12話 覚えておいてね
「ねえ、夏野くん。教えてよ」
雨月と屋上で昼休みを過ごすようになって、数日が経ったある日のこと。
先に行っているはずの雨月を追って階段を駆け上がると、少し開いた鉄製の扉の隙間から、聞き慣れない誰かの声が漏れ聞こえてきた。
思わず扉にかけた手を止め、息をひそめる。
「なんで黙ってるの? どうして言えないの? 言えないようなことを、二人でしてるってこと?」
鼻にかかった、どこか幼さを残す女の子の声だった。
こんなこともあるんだな、と思った。
昼休みの屋上には、いつも雨月しかいない。
少なくとも、わたしが足を運ぶようになってからは、誰かと一緒にいるところなんて一度も見たことがなかった。
だけど今、たしかに女の子の声がしている。
しかも「夏野くん」と、雨月の名を呼んでいる。
この学校に“夏野”という姓を持つ生徒は、一人しかいない。
つまり今――雨月は、女の子と二人きりで、誰もいない屋上で会話しているということだ。
うそみたいな話だと思った。
でも、今そこで起こっているのは、間違いなく現実。
……たぶん。
でも、本当に現実?
これ夢じゃない?
ああ、うん、大丈夫。
頬をつねったらちゃんと痛い。
なら、やっぱりこれは現実だ。
きっと。
本当に、めずらしいことだ。
というか……ありえない、と言ったほうが正しいかもしれない。
雨どころか、雪……いや、矢でも降ってくるんじゃないかな。
天変地異の前触れって、こういうときのことを言うのかも。
なんだか……そわそわする。
気になって仕方がない。
誰が、どんな理由で、雨月に声をかけているのだろう。
だって――雨月が学校で誰かと話しているところなんて、一度だって見たことがない。
点呼の返事すらためらうような子が、異性と二人きりで話すなんて。
信じられない。
……ううん、なんだか、信じたくない気がする。
胸の奥がもやもやして、少しだけ、苦しくなる。
なんていうか――ちょっとだけ、嫌だなって思う。
かも、しれない。
……はっ、と気づいて、あわてて首を横に振った。
違う、違う、なにを考えてるの、わたし。
これは喜ばしいことなの。
絶対そう。そうに決まってる。
雨月の高校生活が色づくチャンスなんだから。
これをきっかけに、友だちと呼べる相手ができるかもしれない。
いや、それ以上の関係になる可能性だってある。
……そうなったら、それは、わたしにとっても嬉しいことだ。
もともと雨月がひとりぼっちなのを心配して、わたしが手を焼いていたんだし。
もし誰かといい関係になれるなら――わたしだって、もう雨月のことを気にしなくて済むようになる。
そのはずなんだから。
「…………」
でも、だけど。
ああ、だめだ。
どうしても気になってしまう。
相手が誰なのか。
どんな話をしているのか。
……少しくらいなら、聞いてもいいよね?
こくり、と喉が鳴る。
扉の隙間から、そっと――覗き込む。
本当はいけないって、わかってる。
盗み聞きなんて、教師としてどうかと思う。
それでも、どうしても我慢できなかった。
屋上の中腹あたりに、ふたつの影が見えた。
雨月と、そしてもう一人――少女らしい細い後ろ姿。
こちらに背を向けているため、顔はわからない。
耳をこらして、二人の会話を聞く。
「他の生徒の目を盗んで、屋上でこそこそと逢引なんて……夏野くんのえっち」
女子生徒の言葉に、雨月は露骨に不快感を露わにした顔をした。
それから、ため息をつき自身の首筋に手を当てる。
「べつに……言えないわけじゃない。言う必要がないだけだ。あんたには関係ない」
「隠してるつもり? それか、かばってるのかな。そんなことしても、むだだよ。全部知ってるんだから」
彼女は細く白い指で、隣の校舎を指さした。
「ほら、あそこ……向こうの棟にある美術室。見えるでしょ? あたし、いつもそこで一人お昼を食べてるんだ。屋上を見ながらね。夏野くんも毎日一人でお昼を食べてるでしょ。あたしと同じ『ひとりぼっち仲間』だから、話したことがなくても勝手に親近感持ってたの。だから、そこから毎日、夏野くんを眺めてた。……一年生のときから、ずっと」
彼女は手を静かに下ろす。
そして、再び雨月に視線を向けた。
「……でも最近、夏野くんはひとりぼっちじゃなかった。見てたんだよ。夏野くんが水嶋晴花と昼休みを一緒に過ごしてるところ。ねえ。仲よさそうに二人肩寄せ合って、一体なにをしてたのかな」
わたしの名前が出された瞬間――心臓が、どくりと跳ね上がった。
知らなかった。
ずっと見られていただなんて。
いや、見られてまずいものではないのだけれど。
……それでも、女子生徒のおどして責めるような口調のせいで、胸の奥がひどくざわつく。
胸が詰まる。
空気が重苦しい。
きっと雨月も、同じように感じているはずだ。
視線を移すと、案の定、雨月は眉間にしわを寄せて、むっとした表情を作っていた。
「……べつに隠すつもりもないけど。なにを勘違いしてるのか知らないけど、あの人とはただ一緒に昼を食べてるだけ」
「それだけじゃないよね。見てればわかるよ、すごぉく仲よさそうだもん」
「仲よくなんてない。……普通だよ」
「ごまかすところがますます怪しいなぁ」
くすくすと笑う彼女。
その声は軽やかだけど、どこか嘲るようで、底が見えなかった。
完全に雨月をからかっている。
「あたしね、夏野くんが笑ってるところ、初めて見たの。いつも無表情で感情のなさそうなあの夏野くんでも、あんなに嬉しそうに笑うんだって知ってびっくりした。深い仲じゃなければ、あんな顔は見せない。……そうでしょ?」
雨月は、今にも舌打ちをしそうな苦々しい顔になる。
ここまで来れば、はっきりとわかる。
女子生徒はどうやら――わたしと雨月の関係を怪しんでいる。
だけど、怪しまれることなんてなにもない。
わたしと雨月は、ただの教師と生徒だ。
毎日屋上でなにをしているのかと聞かれたら、雨月が今答えたように、ただお昼を食べているだけ。
幼なじみだから……親しく見えてしまうだけ。
それでも雨月は、わたしとの関係を言わない。
わたしを思って、そうしている。
幼なじみと伝えれば、きっとわたしに迷惑がかかると思っているのだと思う。
飛び出して行きたかった。
雨月が言えないのなら、わたしが言わなくてはいけない。
彼女に「違う」と、「わたしと彼はあなたが思うような関係ではない」と、はっきり伝えたかった。
……でも、盗み聞きという立場では、それもできない。
今このタイミングで出て行けば、かえって疑われてしまいそうだった。
女子生徒は直立したまま、雨月をじっと注視していた。
その視線にいらだちを募らせた雨月は、声を低くして吐き捨てるように言った。
「なにが言いたいんだよ、さっきから。……ていうか、」
一拍置いて、眉根にぐっとしわを寄せたまま、さらに低い声で続ける。
「あんた、一体誰なんだ?」
第13話 覚えておいてね
味のなくなったガムを吐き捨てるような、無感情で乾いたその一言。
まるでドライアイスみたいに冷たくて、触れたものをじわじわと凍らせるようだった。
しかし、女子生徒は怯えるでも、笑ってごまかすでもない。
むしろその声にすら……静かな陶酔をにじませながら、口を開いた。
「……やっぱり夏野くんって不思議な人。本当に他人に興味がないんだね。一年生のころからずっと同じ教室にいるのに、クラスメイトの名前すら知らないなんて。あたしじゃなかったら、一発くらい叩かれてるかも」
風にはためくセーラー服の袖から伸びた、細くて白い腕が、音もなくすっと上がる。
漆黒の髪を指でなぞり、耳にかけながら、彼女はまるで呪文を唱えるように言った。
「似鳥です。似鳥葉。……これから夏野くんといちばん親しい関係になる子の名前だよ。覚えておいてね」
あ、と思わず声を漏らす。
名前を聞いた瞬間、胸の奥がざわりと揺れる。
聞き覚えのあるその声。
わたしは――この声の持ち主を知っている。
似鳥さん。
わたしの受け持つクラスの生徒。
頭の中に浮かぶのは、教室の隅で小さく座る彼女の姿。
休み時間になっても席を立つことはほとんどなく、誰かに話しかけられることも、誰かに呼ばれることもない。
会話の輪には加わらず、いつも一人で、ただ静かにノートや本を見つめているだけ。
まるで空気みたいに存在を消しているような、控えめな子。
雨月ほど強烈な孤立ではないけれど……同じ教室にいながら、彼女に声をかける生徒は見たことがなかった。
……なのに。
どうして今、こんな場所で、あんな口ぶりで、雨月に声をかけているの?
二人の会話がもっとよく聞こえるように、わたしはそっと扉の隙間を広げ、ほんのわずかに顔を出した。
風が吹き込む。
ひやりとした空気が頬をかすめ、胸の奥がきゅっと締めつけられる。
屋上の中央に立つ二人。
似鳥さんは背中を向けていて表情は見えないけれど、その姿にはどこか妙な存在感があった。
まるで、すべてを見通している者の背中。
揺らぎも戸惑いもなく、そこに立っているだけで場を支配しているような、静かな迫力があった。
対する雨月は、まっすぐ彼女を睨みつけていた。
あからさまな警戒と苛立ち。
それでも似鳥さんは動じる気配を見せず、冷たい空気のなかで、ぴたりと張りつめた均衡だけが漂っていた。
名乗った彼女に対しても、雨月の態度は変わらなかった。
「どうでもいい。おれは他人に興味ないんだ。同じクラスだろうと関係ない。あんたの名前なんて覚える必要ないし、覚える気もない。名乗られても困る」
……ドライだ。ドライすぎる。
言葉の湿度は0パーセント。
心の湖は干上がって、地面にはひび割れしか残っていない。
よく女の子相手にそんなことが言えるなと思った。
普通なら泣く。
わたしですら、聞いていて胸が痛くなる。
もしわたしが隣に立っていたら、きっと肘でつついていた。
「言い方ってものがあるでしょ」って。
……だけど。
「あは。……いいな。すごくいい。そうなの、そういうところなの」
彼女はびくともしなかった。
いや、むしろ――喜んでいた。
どんなに冷たくされても、似鳥さんは傷ついたそぶりを見せない。
それどころか、投げ捨てられた言葉を宝石みたいに拾い集めて、うっとりと抱きしめているみたいだった。
背中越しなのに、わかった。
その声にはっきりと、色があった。
興味、執着、陶酔……そんなものが、静かに、でも確かに滲んでいた。
……なんていうか。
これはもう……その……。
いわゆる――マゾ、なのでは?
「感激しちゃったな。あたし、夏野くんのそういうところを気に入ってるんだ。陰気で、湿っぽくて、誰にも心を開かずに自分の殻に引きこもって、周囲を完全にシャットアウトしてる、そんなところを。クラスのみんなが言うように、夏野くんって、まるでカタツムリだね。……ううん、自分で行動を起こす分、カタツムリのほうがまだましかな。夏野くんはカタツムリ以下ってことだよ。ホント、最高」
嘲笑のような皮肉に――隠れず滲んでいく恍惚とした声音。
普通に聞けばけなしているようにしか思えないその言葉たちも、似鳥さんにとっては、きっと最高の賛辞なのだろう。
……はっきりと「気に入っている」とまで言っているのだから。
さすがの雨月も、そんな歪な愛情表現にはもう我慢ならないというように――露骨に不機嫌な顔を浮かべると、相手をじっと睨みつけた。
「一応聞いておくけど、嫌味を言うためだけにここに来たわけじゃないよな」
「まさか。ちゃんと伝えたいことがあって来たんだよ」
「だったら早く用件を言え」
雨月が冷たい態度でそう言うと、彼女は「せっかちさんだね」と静かに笑う。
雨月はまたむっとした表情を見せた。
「つまりね」
楽しげな声だった。
うしろ姿でもわかる。
似鳥さんはきっと今――笑っている。
すう、と小さく息を吸い込む。
それから彼女は、ためらいも迷いも見せずに、言った。
「あたし、夏野くんのことが好き」
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